氷河が聖闘士になる修行をしていた頃に暮らしていた家は、決して 掘っ立て小屋と呼べるような建物ではなかった。 そもそも間に合わせで建てた粗末な小屋が、風雪を遮るものとてない雪原に たった一軒で建ち続けていられるはずがないのだ。 極めて頑丈な作りのログハウスを 星矢が掘っ立て小屋と呼んだのは、その家が、他の人間たちの作る集落から離れた場所に建つ、孤独な一軒家だったからに違いなかった。 住む者のなくなった家の中は、ほとんど生気を失いかけていたが、建物自体はしっかりしており、再び そこで人が暮らし始めたなら すぐにも生き返りそうな力が残っていた。 このシベリアの地で人が生きていくのに必要なものだけがある家。 石炭と薪で火を起こす鋳鉄製のストーブ、寝台、衣装棚。 台所の棚に並ぶ食器のほとんどは木製。 その家は、かつてそこで暮らしていた人間の温かみが残る、素朴で優しい木の家だった。 見たかったものを自分の目で確かめることができて、瞬は静かな満足を覚えたのである。 「この辺り、オーロラは見れるの?」 「今の時季なら」 「遮るものが何もないから、ここでなら一大パノラマが見れそうだね。オーロラでなくても、星空でも、闇夜でも、人がいっぱいいる東京では見れないものが見れそう。ね、今日はここで夜がくるのを待っていようよ」 「それは駄目だ。ここには 今は火を起こすための石炭も薪もない」 「僕が小宇宙で暖めるよ」 「一晩中か? それは いくらおまえでも体力がもたないだろう」 「……そう」 人の意見に逆らうことのできない瞬は、残念そうな声で、だが、大人しく、仲間の言葉に頷くしかなかった。 そんな瞬を見て、氷河が溜め息を一つ洩らす。 「石炭と薪を手に入れてから、また来ればいい。星矢には内緒でな。明日以降はオーロラが出る可能性も大きいそうだし――だが、今日は無理だ。今日はホテルに帰ろう」 「あ……ほ……ほんと? うん! わあ、楽しみ!」 結局、我儘を通してしまったような気がしたが、氷河の提案(妥協案ともいう)に、瞬は瞳を輝かせた。 オーロラより、ダイヤモンドダストより、“氷河が数年間を過ごした家”で、“氷河が経験した時間”を我が身で体験してみることこそが、瞬がこのシベリアの地に何よりも強く求めていたことだったのだ。 その目的が達せられる。 氷河との約束を取り付けた瞬は、風も雪も寒さも気にならないほど喜び うきうきして、氷河と共に(その日は)ホテルに戻ったのである。 そうして戻ったホテルの正面玄関で、ちょうどホテルから出てきた例の蜜蜂青年たちと鉢合わせするまで、瞬は彼等のことを、実はすっかり忘れていた。 しかし、彼等の方は瞬たちのことを忘れていなかったらしい。 忘れていなかったどころか、彼等はずっと 遠来の客人たちの振舞いにこだわり続けていたらしい。 ふたり寄り添うように並んでホテルに戻ってきた氷河と瞬を認めた彼等は、今日は露骨に氷河を無視して 瞬を取り囲んできた。 「ちょうどよかった。これから、ロガシキノの町に行くんだ。こんな奴は放っといて、俺たちと一緒に行かないか? あそこなら、この町より楽しい店が たくさんある」 「あ、いえ、僕は――」 「そいつと一緒にいると、君まで誤解されると言っただろう。どう言いくるめられているのかは知らないが、こんな奴とは金輪際 付き合わないのが君のためだ」 「こいつの綺麗な顔に騙されちゃ駄目だよ。こいつは見掛けは綺麗でも、中身は――」 「あの……あなた方は 氷河のことを知っているの?」 波風を立てることを恐れて 正面から向き合うことを避けていると、この町にいる間ずっと、自分たちは彼等の好奇と悪意の入り混じった視線にさらされ続けていなければならなくなる。 そうなれば、彼等も不愉快、氷河も気まずい思いでいなければならなくなるだろう。 そう考えて、瞬は思い切って、彼等に尋ねてみたのである。 氷河に向けられる彼等の不可解な視線の原因が、何らかの誤解によるものなら、その誤解を解けばいいし、かつての氷河がこの町の住人に何らかの迷惑をかけていたというのなら、彼等に謝罪して 今の氷河はかつての氷河とは違うのだということを わかってもらえばいい。 それだけのことなのだと、瞬は思っていたから。 しかし、彼等が氷河を見る不躾で不可解な視線の理由は、そんな単純なものではなかったのである。 氷河を知っているのかと尋ねた瞬に、彼等は、その質問を待っていたと言わんばかりの勢いで、その身を乗り出してきた。 「もちろん、知ってるさ。この小さな町では有名人だったからな。こいつとこいつの母親は」 「氷河と氷河のマーマが?」 「ああ。こいつの母親は身持ちの悪い商売女だ。男相手の商売で糊口をしのぐ売春婦、神の教えに背く娼婦、不潔で不身持ちな最下層の女だったんだ」 「え……」 「この町の者なら、みんな知ってる」 「都会に出て、大勢の男の相手をして、あげく 父親のわからない子供ができちまったもんだから、商売をしていられなくなって、父無し子を連れて、この町に帰ってきたんだ」 「そいつは、父親が誰かもわからない私生児だ。都会じゃどうか知らないが、この町で父親が誰かもわからない私生児なんて、前代未聞、空前絶後、あとにも先にも こいつだけだ」 「あ……あの……」 彼等の言葉が あまりに思いがけないもので、完全に想定外のものだったので、瞬は一瞬 言葉を失うことになったのである。 それは氷河のせいではないと、彼等に言い返すことも、瞬にはできなかった。 そんなことをしたら、瞬は、それを氷河の母のせいにしなければならなくなってしまう。 どうあっても結局は、氷河を傷付けることになってしまうのだ。 隣りに立つ氷河の顔を恐る恐る見上げると、彼は無言で無表情。 そんな誹謗中傷に 今更 動じる心もないというように、氷河は完全に無反応だった。 瞬は、だが、だからこそかえって、氷河の心が深く傷付いていることに気付かないわけにはいかなかったのである。 「あの……何を言っているの。あなたたちは人違いをしているんでしょう。氷河は そんなんじゃ……氷河のマーマは とても綺麗で優しくて強くて、氷河のために命まで――」 頼むから、氷河のために――母を愛する氷河の心を傷付けないために――人違いだったと答えてくれと、瞬は心の中で祈っていた。 彼等の言うことが事実でも事実でなくても、彼等の言動は人を傷付けることにしか役に立たない無益な行為である。 人の心を――氷河の心を――思い遣る想像力と優しさがあるのなら、頼むから人違いだったということにしてくれと、瞬は必死の思いで――言葉にはできなかったので、その眼差しで――彼等に訴えたのである。 が、瞬の願いは――瞬の祈りは――彼等には通じなかった。 「人違いなんかするもんか。そいつの母親は――」 「黙れっ!」 この男たちは氷河を傷付ける。 この男たちに、人の心を思い遣ることを期待しても無駄。 この男たちは想像力も優しさも持たない、冷酷な愚か者。 もはや疑いを挟む余地のない その事実を認めると、瞬は即座に彼等への対処方法を変更した。 とにかく この男たちに、これ以上 余計なことを言わせて、氷河の心を傷付けるわけにはいかない。 瞬は鋭い声で、彼等に沈黙を命じた。 にもかかわらず、彼等は瞬の命令に従わなかった。 瞬の怒声に びくりと身体を震わせはしたが、彼等は なおも氷河の心を傷付ける冷酷な言葉を吐き出し続けたのである。 「俺たちは、君のために忠告してやっているんだぞ。こいつは母親同様、色仕掛けが得意なんだ。君は世間知らずのお嬢様みたいだから、手もなく こいつに騙されたんだろうが――」 「君みたいな子は、こんな奴とは関わらない方がいい」 「君のために言ってるんだ。こいつは、町で最も軽蔑されていた女の血を引いているんだ」 「黙れと言ったのが聞こえなかったかっ!」 幼稚園に入る前の子供でも、大人に怒鳴り叱られたら、怯むくらいのことはするだろう。 それくらいのことは、犬や猫でもしてのける。 人間の大人なら、犬猫でもできる反応を示すだけでなく 更に、なぜ自分が怒鳴りつけられることになったのかを考えるくらいのことはしていいはず。 それができない大人は、瞬にとっては、知性も理性も心も持たない“物”でしかなかった。 そうと意識しているわけではないのに、勝手に小宇宙が燃え始める。 瞬の小宇宙は、瞬の目の前にいる5つの“物”の周囲の空気を震わせ、動かし、渦を作って、辺りの雪を舞い上がらせ始めた。 息をする必要のない“物”たちが、身体の動きを封じられ、重力と速さを増す気流に 肺の活動までを阻害される。 口をきくことはおろか、呼吸することさえできなくなった“物”たちは、激しい気流の中で 血の気を失い、本当に“物”になりつつあった。 「瞬、やめろ! 本当に死んでしまう!」 氷河に両肩を掴まれ、大きく前後に揺さぶられても、しばらくの間、瞬は正気を取り戻さなかった。 「瞬! 瞬、頼む。やめてくれ!」 氷河に強く抱きしめられ、その胸の温かさに触れることで、瞬はやっと平生の自分自身を取り戻すことができたのである。 瞬が我にかえるのと同時に、ほとんど生物としての限界に近付いていた“物”たちは、凍った雪の上に ばたばたと倒れていった。 玄関先で起こっている異変に気付いて飛び出てきた ホテルの従業員や常連客たちが、完全に意識を失っている青年たちをロビーに運び入れたのは、それから1、2分後。 まさか、大の男たちを半殺しの目に合わせた張本人が瞬だとは思わなかったらしく、彼等は、とんでもない場面に偶然 遭遇して怯え震えている(ようにしか見えない)瞬を、気の毒そうに見やっただけだった。 |