「瞬……」
「あ……」
低い声で氷河に名を呼ばれ、自分が何をしてしまったのかを自覚することになった瞬は、一瞬 ためらい気後れした色を 瞳に浮かべたが、すぐにその唇を固く引き結んだ。
「僕は謝らないよ。彼等は氷河のマーマを侮辱した。氷河、あんなこと言われて、どうして何も言わないの……!」
「……奴等の言っていることは事実かもしれない」
「かもしれない? そんな不確かなことで――ううん、もし、彼等の言うことが事実だったとしても、だからって、あの人たちに 氷河や氷河のマーマが侮辱される いわれはないでしょう! あの人たちに、氷河を傷付ける権利なんかない!」
「……」

瞬が 自分のしたことを悔やみ、その激情を静めることができなかったのは、氷河が無言だったから。
氷河が、あの青年たちの暴言に憤った様子を見せなかったからだった。
氷河が平静でいる分、瞬は氷河の代わりに、あの青年たちの心無い振舞いに怒りを強めないわけにはいかなかったのである。
「氷河!」
「……凍った海の上を渡る悲鳴のような風の音も、人々の蔑みの目も、慣れれば気にならなくなる」
「そんな……」

氷河は、こんな侮辱に慣れているというのだろうか。
怒りも悲しさも悔しさも感じられないほど慣れてしまっていると?
もし そうなのだとしたら、いったい氷河は いつ、これほどの侮辱を受けることに慣れてしまったのか。
それが今であるはずがなかった。
氷河は、久し振りに この町にやってきて このホテルに入った時から 彼等が自分に向ける視線の意味に気付いていたはず。
にもかかわらず、氷河は瞬に どんな感情の昂ぶりも見せなかった。
おそらく、その時には既に、氷河はそういった視線を受けとめることに慣れていたのだ。
では、氷河が この侮辱に慣れてしまったのは、彼がもっと幼かった頃――彼の母がまだ生きていた頃――ということになる。
そんな小さな子供だった頃に、氷河はもう、町の人々が自分に向ける蔑みの視線に じっと耐えることを覚えてしまっていたのだ。

「そんな、ひどい……ひどい……! 氷河の大切なマーマが侮辱されたんだよ! なのに、どうして氷河は黙ってなんかいられるの!」
今 自分に向けられる侮蔑に無言で耐えている氷河を見ているだけで、こんなに つらいのである。
同じように人々の冷たい視線に傷付けられていたのだろう幼い頃の氷河の心を思うと、瞬の心は張り裂けてしまいそうだった。

「だが、それが事実だったら、おまえだって、俺といるのは嫌だろう」
瞳に涙をにじませている瞬を、氷河が乾いた目で見おろしてくる。
「氷河、なに言ってるの……」
低い呟きのような彼の言葉の意味が、瞬には わからなかった。
「すまん。こんなことになるとは――もう10年近くも前のことだし、まさか俺たち母子のことを憶えている者がいるとは考えてもいなかった。おまえを傷付けるつもりはなかったんだ……」
「傷付いたのは僕じゃないよ! 僕じゃなくて……」
「あの家で夜を過ごす計画は取りやめよう」
氷河には、もしかしたら、彼が名前も知らない人間たちから投げつけられる蔑みの視線より、仲間の涙や哀れみの方が つらいものだったのかもしれない。
苦しげに低く呻くような声で それだけを言うと、氷河は瞬に背を向けた。

「氷河! 僕は、氷河のマーマがどんなだったって、きっと それは氷河のためだったんだから――僕は、氷河も氷河のマーマのことも好きだよ!」
瞬をその場に残し、一人でホテルの中に入っていく氷河の背中に向かって、瞬は叫んだのである。
瞬の訴えは半分以上が涙でできていたというのに、そのことに気付かない氷河ではないはずなのに、彼は一度も後ろを振り返ろうとはしなかった。


「氷河……ここを開けて」
あふれてくる涙をなんとか止めて、瞬が氷河の部屋のドアの前に立ったのは、それから1時間以上が経ってから。
名を呼んでも開けてもらえないドアの前で、瞬は辛抱強く待ち続けた。
氷河に拒まれることが つらいのか、傷付いた氷河の心を癒すことのできない自分の無力が悲しいのか――瞬自身にもわからない何かのせいで、また 瞬の瞳に涙が盛りあがってくる。

これ以上 氷河に涙を見せるわけにはいかないというのに、音のないドアの前で、再び あふれ始めた涙を止めることができない。
どうして こんなことになってしまったのか。
どうして何の罪もない氷河を蔑み侮辱することのできる人間が この地上には存在するのか。
幼い頃の氷河は、そんな人間たちの冷たい視線に どうやって耐えていたのか――。
何を考えても、何かを考えるたびに、新しい涙が生まれてくる。
これでは氷河の前に立つことができないと 瞬が悟り、諦めたのは、それから間もなく。
「氷河、ごめんなさい……」
冷たい沈黙だけを返してくるドアに謝って、瞬はその場を離れたのだった。






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