ホテルの氷河の部屋のドアの前に星矢と紫龍が立ったのは、翌日の夕刻。
この町で幼い頃を過ごしていた、今はでかい図体の持ち主が、ホテルの一室に閉じこもってから丸一日以上が経っていた。

「氷河、出てこい! 馬鹿なガキみたいに拗ねて、周りに迷惑かけるんじゃねーよ!」
「ここを開けろ。おまえが天岩戸にこもっても、ストリップを始めるアメノウズメはここにはいない。ここにいるのは、凶暴なスサノオだけだぞ」
「星矢……紫龍……?」

氷河が固く閉じていたドアを開けたのは、日本にいるはずの星矢と紫龍がなぜここにいるのかを訝ったから――ではなかった。
そうではなく――日本にいるはずの星矢たちが こんな北の果てにまで駆けつけてくるほどの どんな重大事が起きたのかと、それを疑ったからだった。
つまり、この北の大地に またしても良からぬ野心を抱いた敵が現われたのかと、氷河は それを案じたのである。

氷河の懸念は全く的外れなもので、氷河がその事実に気付いたのは、何やらひどく気色ばんだ様子の星矢と、いつもと変わらず飄々とした顔の紫龍の後ろに立つ瞬が 両手で抱えている紙袋のせいだった。
バニラとバターの香り。
瞬が抱えているのは、食事もとらずに岩戸ごもりを続ける仲間のために調達してきた、おそらくはパンケーキと焼き菓子の類だった。

決して空腹に負けたわけではなかったのだが、氷河は彼の仲間たちを室内に入れないわけにはいかなかったのである。
「詰まんねー意地張ってないで、まず食え」
そう言って、星矢が 瞬から受け取った そば粉のパンケーキ――サーモンを挟んだブリヌイ――を氷河の口に押し込む。
氷河の意思ではなく彼の身体が空腹に屈して それを嚥下するのを確かめると、星矢は なぜかひどく苛立ったように、大きく顎をしゃくった。
それが合図だったかのように、紫龍が部屋のセンターテーブルの上に数枚の書類を並べ始める。

「では、さっさと仕事を片付けよう」
そう言って、紫龍が取り出した書類――日本語ではなくロシア語のものだった――の中に母の名があることに気付いて、氷河は眉根を寄せることになったのである。
「何だ、これは」
「何だもパンダもねーぜ。ったく、瞬の奴は人使いが荒すぎんだよ!」
「だから、何なんだ、これは」
「これは、おまえの母親の仕事――というより、収入源に関する記録だな。ロシア特許庁発行の特許許可証と、それから納税証明書の写しだ」
「なぜ、そんなものを――」
「なぜと言われて……まあ、星矢の言う通り、瞬の人使いが荒いからだろうな」
紫龍が、星矢が口にした言葉を繰り返す。
そうして、彼は、彼が持参した書類の説明を開始した。

「この町で生まれた おまえの母は、両親を亡くして、18の時にペテルスブルクに出た。そこであるデザイナーの経営する店の縫製部門に務め始めたんだ。そこで仕事をするうちに、彼女は、ある特殊なボタンを発明した」
「ボタン? ボタンというのは――」
「おまえ、ボタンも知らねーのかよ! コートについてるボタンだよ。おまえのそのシャツの真ん中についてる丸い物体」
「いや、それはわかるが、そんなものを“発明”できるわけが――」

ボタンなる服飾用品を発明した人物が誰なのかは知らなかったが、それが十字軍の頃には既にイスラム社会で一般化されていたものであることは、氷河も知っていた。
当然のことながら、氷河は、いったい紫龍たちは何を馬鹿なことを言い出したのかと仲間の言を訝ることになったのである。
が、紫龍は、氷河の疑念を華麗に無視して、持参の書類の中の一枚を氷河の手に渡し、大真面目な顔で彼の説明を続けた。

「しかし、実際に発明したんだ。それも、特許を取れるくらいの代物をな。厚い手袋をしていても簡単に留めたり外したりできるボタンで――衣類だけでなく、家具や雑貨にも応用のきくものだったそうだ。おまえの母は随分と頭のいい女性だったらしく――まあ、特許申請のための書類を揃える手続きを踏むのにも手間と時間がかかるしな――その権利と権利からあがる利益のすべてを雇い主であるデザイナーに譲り、特許権の存続期限が切れるまでの間、毎年200万ルーブルが自分の許に支払われる契約を、そのデザイナーと結んだ。日本円にして500万ほどかな。当時のロシアの物価を考えれば、現在の1000万ほどの価値はあっただろう。つまり、おまえの母には、外に出て働かなくても、生意気盛りの息子を育てるのに専念できるほどの定期収入が約束されていたわけだ」
「まさか――」

氷河には、それは、寝耳に水のことだった。
そして、にわかには信じられないことだった。
「それが事実だったとしても――だが、マーマは そんなことはおくびに出したこともなかったぞ。俺たちはこの町の小さなアパートで かなり つましい暮らしをしていた」
「独り身の女性がそんな大金を持っていることが知れたら、たちの悪い男に目をつけられたりするかもしれないからな。おまえの母親は用心深く賢明で身持ちの固い女性だったんだろう。俺はむしろ、おまえの母親が、例の人類最古の商売に従事していたなどというデマが どこから湧いてきたのか、そちらの方を知りたい」
「……」

もし紫龍の言うことが事実なのだとしたら――証拠書類があるのだから事実なのだろうが――なぜ そんな誤った風評が母にまとわりつくことになったのか、紫龍が知りたいということを、氷河も知りたかった。
紫龍が知りたいこと、氷河の疑念に答えてくれたのは、なんと星矢だった。
「紫龍、おまえ、そんなこともわかんねーのか? そりゃ、まさしくたちの悪い男のせいだよ。目の前に若い美人がいて、働いてる様子もない。言い寄って、こっぴどく肘鉄を食らわされて、腹が立って、やっかみ半分で無責任な噂を流したんだろ」
「まあ、そんなところだろうが――」

紫龍も本当は そのあたりのことは察していたらしい。
ただ、彼は、氷河と氷河の母が たちの悪い男が捏造した無責任な噂のせいで はなはだしく名誉を傷付けられたという事実に 言及したくなかっただけで。
彼は、十中八九 その通りなのだろう星矢の推察に、それ以上触れることはしなかった。

「おまえの母は、ペテルスブルクに出たばかりの頃は、実際 つましい生活をしていたようだが、そのボタンの特許をとってからは、全く金に不自由してはいなかったようだぞ。やがて、連邦教育局に勤める青年と知り合い、恋をし、婚約した。ところが、その婚約者が結婚直前に事故死して、彼女は婚約者の忘れ形見と傷心を抱いて故郷の町に帰った――ということらしい。おまえの母親は、おまえとは似ても似つかず、地に足のついた生活力と経済力を持った女性だったわけだな、つまり」
「マーマが……」

幼い息子に、母親が金の話をしないのは至極当然のことだろう。
彼女は、おそらく この小さな町では10指に入る額の収入を毎年得ていたにもかかわらず、その事実を、幼い息子はもちろん、町の他の住人にも隠し通していたのだ。
この町にたちの悪い男が存在したのは(おそらく)事実なのだから、彼女の用心は実に妥当なものだったと言えるだろう。
しかし。

「しかし、なぜ、おまえ等はそんなことを――」
この町の誰も知らなかったことを、なぜ日本にいる星矢と紫龍が知っているのか。
無論、彼等にはグラード財団総帥である城戸沙織がついているのだから、それらの事情を調べることは可能かつ容易なことではあっただろうが、それ以前の問題として――なぜ彼等が突然そんなことを調べる気になったのか――が、氷河にはわからなかった。

問われた星矢が、大仰に――わざと大仰に――氷河に向かって肩をすくめてみせる。
「そりゃ、瞬に命じられて、必死こいて調べたんだよ。昨日、瞬が電話で泣きながら、俺を脅迫してきやがったんだ。『ボクは氷河と二人で、氷河が暮らしてた家で過ごしたかったのに、星矢が変なこと言ってホテルなんかとるから、こんなことになったんだ、責任取れ』って」
「それで、沙織さんに頼んで急いで調べてもらったんだ。ジェットヘリで いったんペテルスブルクに飛び、そこで必要書類を受け取って、すぐこちらに急行した」
「瞬の脅迫電話からこっち、俺たちは一睡もしてないんだぞ。責任 取ってほしいのは、こっちの方だぜ。ったく」
「瞬が……」
先程から星矢が妙に苛立っていたのは、どうやら睡眠不足のせいだったらしい。
地上の平和と安寧が脅かされている時には1日2日 一睡もせずに戦うこともある聖闘士が、睡眠不足のせいだけで苛立っているとは考えにくかったが。

「星矢……」
それで責任を取れると考えたわけではないだろうが、気色ばんだ様子で大声をあげる星矢に、瞬はおずおずと、手にしていたパンケーキを差し出した。
星矢が、チョウザメの燻製とキャビアがはさまれたそれを口の中に放り込み、奇蹟のような早さで食べ終える。
そうしてから星矢は、小さく身体を丸めている瞬に、溜め息混じりに、
「食い物が美味いから許すけどさ」
と言った。
「まあ、烈火のごとく怒り狂った瞬に 涙つきで脅迫されたら、星矢も俺も 光速で仕事に取りかからないわけにはいかなかったわけだ。俺も星矢も命は惜しいからな」
「だ……だって、僕、我慢ができなかったんだ。氷河が氷河のマーマを侮辱されて、黙って耐えてるなんて――」

それでなくても小さく丸めていた身体を更に小さく縮こまらせて、瞬が自身の暴挙の言い訳(?)を口にする。
他人の蔑みの視線に慣れ、耐えることを覚え、諦めてしまっていた哀れで意気地のない仲間のために――あるいは、その仲間の代わりに――瞬は、らしくもなく激昂し、仲間の汚名を晴らすことを星矢たちに命じたらしい。
人の言うことに逆らって波風を立てることより 我慢することの方を選び、無理強いを無理強いと思うこともできないほど大人しい瞬が、希望の闘士らしからぬ諦観に支配されている情けない仲間のために、自ら 盛大強烈な嵐を巻き起こしたのだ。

個性が強く 滅多に自分の意思を曲げることをしない仲間たちの間で、いつも穏やかに調停役を務めている瞬を知っているだけに、瞬の暴挙は、氷河には驚くべきことだった――氷河の胸を打った。
瞬は、侮辱されたのが自分自身であったなら、一般人に行使してはならない聖闘士の力で あの青年たちを叩き伏せるようなこともしなかっただろう。
傷付けられたのが自分の心ではなく仲間の心だったから、彼等の振舞いに、瞬はあれほど激昂したのだ――それこそ、我を失うほどに。
全く瞬らしくないが、実に瞬らしい優しさ。
仲間たちの前で いたたまれない様子で顔を伏せている瞬に、氷河は胸が詰まるような切なさを覚えていた。

「俺は……娼婦でもよかったんだ。もしそうだったのだとしても、それは俺を育てるための余儀ない選択だったのだろうと思うし、たとえ何があっても、俺がマーマを愛していることに変わりはない。俺は彼女を誇りにも思っている。ただ、そういう女性の息子は、おまえに好きだと言う権利もないんじゃないかと、俺は――」
「そんなことあるはずないでしょう。氷河のマーマがどんなだったって、氷河がマーマを愛しているように、氷河が何だって、僕は氷河を……あの、氷河は僕たちの大切な仲間だよ」
「瞬……」
氷河が熱のこもった目で、瞬を見詰める。
そして、そんな氷河を見やり、星矢は内心で深い溜め息をついていた。

これまでも、氷河は瞬に好意を抱いていただろう。
瞬は、基本的に公平で、誰に対しても優しく親切。嫌いになる要素がない上に、氷河は過去に瞬に命と心を救われてもいる。
だが、それは、以前は――二人が二人でシベリアにやってくるまでは――何が起こっても変えられないというほど強固なものではなく、ある程度は抑えのきくものだった。
事実、氷河は、仲間に『良からぬ考えは起こすな』と釘を刺された時、『俺はそんなことはしない』と躊躇なく答えてみせていたのだ。

だが、もう駄目だ――と、星矢は思った。
氷河の恋心は動かし難い。
“氷河”のために人を傷付けることをさえ厭わなかった瞬は、氷河にとって、この世界に唯一の特別な存在になってしまった。
瞬を見詰める氷河の瞳の中の熱を見てとって、星矢は深く長い溜め息を吐き出し、そして、両の肩を落としたのである。

「ああ、氷河。瞬の機嫌を直すのに役立つかと思って、鋳鉄製のストーブで使える固形燃料を持って来た。おまえたち、それを持って例の掘っ立て小屋に行き、今夜は二人でオーロラでも見て来い。おまえたちの部屋は俺と星矢が、これから爆睡するのに使うからな」
「おい、紫龍!」
天馬座の聖闘士が 仲間の身を案じ、胸中を不安でいっぱいにしていることを知っているはずの紫龍の その提案に、星矢が不満げな顔をあげる。
そんな星矢に、紫龍は軽く首を横に振った。

「しかし、もう氷河を止めることはできまい」
「それはそうだろうけどさあ……」
なにもそれは今日でなくてもいいのではないかというのが、星矢の考えだった。
が、紫龍は、どうせ そうなってしまうのなら、さっさとそうなってしまった方がいいのだという考えでいるらしい。

平時であれば、自分が考えることを紫龍が考え、平時であれば、紫龍が考えることを自分が考えている――。
この奇妙な事態は、やはり、今が平時ではないからなのだろうか――? と、星矢は疑った。
そして、多分 そうなのだろうと思ったのである。
人の言うことに逆らって波風を立てるくらいなら 大抵のことは我慢してしまう瞬が、非力な一般人を半殺しの目に合わせ、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間を頭ごなしに怒鳴りつける。
そんなことが起こっている今が、平時であるはずがないのだ。

「このホテルには、今は客がほとんどいない。俺たちを追い出さなくても、部屋ならいくらでも空いているだろう」
今ひとつ、仲間たちの気遣いと懸念が理解できていないらしい氷河が、馬鹿なセリフを口にする。
それは、なにもそれは今日でなくてもいいのではないかと考えている今の・・星矢でさえ、『おまえは馬鹿か!』と怒鳴りつけたくなるような、正真正銘 馬鹿なセリフだったのだが、幸い 星矢は馬鹿な仲間を怒鳴りつけることはせずに済んだのである。
星矢が言おうとした言葉を、瞬が代弁してくれたおかげで。
もちろん、瞬は、星矢が言おうとしていた言葉とは全く違う言葉を用いて、氷河をたしなめたのだが。

「紫龍がせっかく こう言ってくれてるんだから、厚意に甘えようよ。僕、氷河がどういうところで、どんなふうに暮らしていたのか見てみたかったんだ。氷河が寂しい思いをしていたんじゃないかって、心配してたの……」
「瞬……」
実に全く、物は言いようである。
瞬は要するに『おまえは馬鹿か!』と、氷河を責め、叱りつけているのだ。
それが、氷河の耳には、仲間の“今”だけでなく“過去”をも案じる、心優しい いたわりの言葉に聞こえている。
そして、氷河は、優しく気遣わしげな瞬の言葉と眼差しに、すっかり まともな判断力を失ってしまっているようだった。

瞬に傾いていく氷河の心を止めることは、もはや不可能。
瞬を見詰める氷河の瞳は、完全に恋に我を失った男のそれ。
今の氷河のすべては瞬の手の内にある。
その事実を否定することは、もう星矢にもできることではなかった。






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