グラード学園青春白書






「一輝は逃げおおせたようだな。まあ、今更 奴に学校生活も何もあったものではないだろうが」
「俺も逃げればよかった」
3階の廊下の窓の下のグラウンドでは、冷たい木枯らしが、どこから運んできたのか水気の失せたナラの葉に絡みながら、寒々しい遊戯を続けている。
おそらくは、自分の向かうべき目的の地を知らない風、目的地も定かでない木枯らしに奔走されている小さな木の葉。
今朝からずっと、氷河の胸の中では、同じように冷たく 寄る辺ない風が 空しく駆け巡っていた。

アテナの聖闘士として、地上の平和と安寧のために命をかけた戦いを戦っていた白鳥座の聖闘士が、グラード学園高校の廊下で空しい思いを胸に抱き、憂いに満ちた顔で木枯らしの吹くグラウンドを見おろしているのには訳がある。
場所がグラード学園高校なのは、聖域を統べる女神にしてグラード財団総帥でもある城戸沙織が、彼女の聖闘士たちの知識の偏りと、一般人としての社会性の欠如を案じて、氷河たちに学校に通うことを命じたから。
空しい思いを抱いているのは、今 彼の憂い顔を見ている仲間が星矢と紫龍 ふたりだけだから、だった。

「沙織さんの言うことに一理があるのは認める。確かに、俺たちの知識は偏っているんだろう。戦時の戦い方や生き延び方は知っていても、退屈な平時を乗り切る方法には つまびらかでないというのも事実かもしれん。社会性、一般常識、集団行動のノウハウを身につけるために、学校という組織の中に身を置く経験が全く無益なことと思っていたわけでもない。だから、俺は、学校というものに入ってやってもいいと言ったんだ。しかし、それはあくまでも瞬が一緒という条件つきでのことだ。瞬と一緒なら、生ぬるい人生しか知らない甘ったれたガキ共が たむろしているところで過ごす馬鹿らしさにも耐えられるだろうと思ったし、瞬と二人で上級生下級生ごっこをして、あわよくば 不純同性交遊に突入――という夢と希望もあった」
「まあ、おまえの考えることだ。せいぜい そんなことだろうとは――」

まさか 氷河の高校入学の第一の目的が、知識の習得や社会性の体得であるとは、紫龍も考えてはいなかった。
ゆえに、彼は、氷河が吐露した本音に今更 驚くことも呆れることもしなかった。
当たり障りのない相の手を入れ、頷きかけた紫龍の声を、
「なのに、なぜ ここに瞬がいないんだーっ !! 」
という氷河の雄叫びが遮る。

今更 氷河の高校入学の真の目的になど驚きもしない紫龍だったが、辺りを はばからない氷河の その大音声には、さすがの彼も顔をしかめることになったのである。
ここは、氷河の奇行に慣れた彼の仲間だけがいる城戸邸でも聖域でもないのだ。
廊下を行き来していた すべての生徒たちが、氷河の奇声に驚き、足をとめ、今日この学校にやってきたばかりの転校生(たち)の方を振り返る。
紫龍のしかめっ面は、明白な渋面に進化した。

「いや、でも、氷河の気持ちは俺も わからないじゃないぜ。俺だってさ、瞬と同じクラスになって、宿題のレポート写させてもらったり、一緒に早弁に挑戦してみたりするのを楽しみにしてたんだから」
「瞬は、宿題は写させてくれるだろうが、早弁には付き合ってくれないだろう」
星矢の思い描いていた高校生活というものも、今ひとつ――氷河のそれほどではないが――どこか何かが間違っている。
氷河や星矢に比べれば(あくまでも相対的に)常識人である紫龍は、どうにも溜め息を禁じ得なかった。
とはいえ、瞬がここにいないということは、紫龍にとっても想定外、今朝の今朝まで知らずにいたことではあったのだが。

瞬自身は、自分が学校に通えるようになることを、仲間内の誰よりも楽しみにしているようだった。
「みんなと一緒に通学して、みんなと一緒におべんと食べて、みんなと一緒にクラブ活動とかもするんだ。楽しみだね!」
入学予定日の何日も前から、瞬は楽しそうに そう言っていた。
沙織のごり押しで、あと1ヶ月ほどで学年が終わるという中途半端な時季にもかかわらず高校に通えるようになったことを 沙織の厚意と信じ、瞬は彼女に深く感謝しているようでさえあったのだ。

だというのに、登校初日である今朝になって、瞬と瞬の仲間たちは衝撃の事実を知らされたのである。
すなわち、命をかけた戦いを共に戦ってきたアテナの聖闘士たちの中で瞬だけが、仲間たちとは違う学校に通うことになっているという事実を。
瞬当人にも、瞬の仲間たちにも、それは寝耳に水のことだった。

が、今にして思えば、それは もっと早くに気付いていていいことだったのだ。
たとえば、制服を仕立てる際、瞬の仲間たちは城戸家ご用達のテーラーに行くよう指示を受けていたのだが、そのメンバーの中に瞬が入っていないことを知った時に。
あさはかにも、その時、瞬の仲間たちは、それを瞬のオーダーメイド嫌いのせいだと思い込んだ。
瞬のオーダーメイド嫌い――というより採寸嫌い――は、彼等の間では既知の事実だったから。

日本に帰国して初めてスーツを作ることになり、その採寸を行なった時、瞬は、とんだ災難に合ってしまったのだ。
それは、瞬にとっても、採寸を行なったテーラーにとっても、正しく“災難”だった。
要するに瞬は、採寸時に、テーラーに股間にあるものを目測された上、それを左右どちらに寄せるかと尋ねられた際、まさかそんなことを訊かれるとは思っていなかったせいもあって、羞恥のあまり答えることができなかったのである。
テーラーはすぐに瞬の繊細な心を察し、質問自体をなかったことにしてくれたので、その場では事無きを得た。
しかし、その後、注文主としてテーラーから その話を聞きだした沙織に、
「瞬ったら、まるで 男子禁制のお城の奥で育てられた お姫様みたいね」
とからかわれた瞬は、それ以来、極めつけのオーダーメイド嫌いになってしまったのだ。

そんな事件(?)があったことを知っていたので、瞬の仲間たちは、瞬の制服は以前の採寸データを用いたイージーオーダーにしたのだろうと考え、瞬が採寸の場に呼ばれなかったことを気にもとめなかったのである。
まさか、瞬だけが、制服のない別の学校に通うことになっているとは、彼等は考えもしなかったのだ。

今朝になって その事実を知らされたアテナの聖闘士たちは、戸惑い、あるいは憤り、あるいは煙に巻かれたような顔をして、沙織に事の次第の説明を迫った。
が、神をも打ち負かす力を備えた聖闘士たちに迫られても、沙織は平然としたもの。
「説明はあとでするわ。早く行かないと遅刻するわよ。今日は登校初日だから、車を待機させてあるの。急いでちょうだい」
彼女はそう言って、彼女の聖闘士たちを二台の黒塗りの車に押し込めてしまったのである。
そして、氷河たちを乗せた車はグラード学園高等学校に向かって、瞬を乗せた車はノヴグラード学園高等学校に向かって走り始めたのだった。

それが、今朝のことである。






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