薔薇の名前






砂と岩しかないところだって聞いていたのに、この島、全然そんなことないじゃないですか。
確かに 砂と岩が多くて乾燥したところだけど、野原があって、花が咲いてる。
それだけでも すごいことですよ。
僕が6年間を過ごした島は、本当に砂と岩しかなかった。
花らしい花をつける植物は一つもなくて、根を張る力と水分を得る器官だけが発達したものばかり。
6年振りに日本に帰国した時には、アスファルトで舗装された岸壁沿いの道路に コスモスの花が咲いているのを見て、泣きたいくらい感動したんです。
つい この間のことなのに、すごく昔のことに思える……。

風が、もう春の匂いを含んでますね。
僕ですか?
ええ、昨日の船で来たんです。
僕をこの島に運んでくれた船の船長さん、一日に一度、島民のための食料や雑貨を運んでくるって言ってましたけど、代わりに何を積んで帰るんですか?
ガドリニウムやテルビウム?
でも、そういうレアアースって、分離精製が難しいんでしょう?
まさか、あの船で鉱石を運んでるわけじゃないですよね?
かなり高性能の――最新型の船みたいでしたけど、到底 大型船とは……。
2年前に精製工場ができたんですか。
なら、本当にもう、砂と岩だけの地獄の島ではなくなってしまっているんですね。
この島も変わってるんだ……。

ということは、今 この島に住んでいる人たちは、そういうものを採掘したり、精製工場で働いたりして生計を立てているんですか?
だから、島民はみんな気が荒い?
でも、あなたみたいに 穏やかで親切な女性もいらっしゃるじゃないですか。
小さな一つの島にいるからって、みんなが その島に似た性格の人間になるわけじゃないでしょう。
人は――誰とも関わらずに たった一人で生きているのでない限り、自然に役割分担ができてきて、誰かの足りないところを他の誰かが補うようになるんですよ。
あ、でも、その理屈でいうと、あなたが穏やかで優しい分、他の誰かが過激で冷たいってことになってしまいますね。
でも、そういうものなのかも。
弟が弱ければ 兄は強くならざるを得なくて、落ち込んで泣いてばかりいる人間の友人は、彼を励まし庇うのが務めみたいになって――そういうものなのかもしれない……。

この島は、海に向かうと印象が違いますね。
僕、昨日の午前中に この島に着いて、午後はずっと浜辺を散策して、夕べは野宿したんです。
夕陽も綺麗だったし、星空も綺麗だったし、朝陽も綺麗だった。
夜は冷えたでしょうって?
ええ、氷点下になってたみたいですね。
朝 起きたら、風よけにしていた岩が霜で覆われていて、びっくりしました。
でも、僕、そういうのに慣れているんです。
僕のアンドロメダ島も、そんなふうに昼夜の気温差が極端に大きなところだったから。
あ、いえ、僕のアンドロメダ島はもうなくなってしまったんです。
島があった痕跡だけが残ってて、もう人が住めるような場所ではなくなっているそうです。

あなたはここで生まれたんですか?
この島を出ようと考えたことはありません?
この島、女性には――特に、あなたみたいに若くて綺麗な女性には、あまり楽しみのある島のようには思えませんけど。
ああ、そう。大切な思い出があるんですね。
それで、この島を離れられないでいるんですか。
そういうのって、幸せなことなんでしょうか。
それとも悲しいこと?

ああ、そうですね。
心に残る思い出がないことこそが、いちばん悲しいこと。
僕も、そう思います。
でも、それだと、僕はものすごく幸せな人間だっていうことになってしまう。
――そうなのかな?
そうなのかもしれないですね。

どうして、この島に来たのかって?
え? 僕、世を儚むような人間に見えます?
やだ。だから、僕に声をかけてくださったんですか?
それは、でも、杞憂です。
ご心配かけてしまって すみません。

僕は、寒いのにも暑いのにも不幸なのにも慣れてるんです。
幸せにだけ慣れていない。
だから、少しくらい つらいことがあっても、そんなこと考えませんよ。
不幸な人間って、そういうものでしょう?
幸せだった人間だけが、突然襲ってきた不幸に耐え切れずに、死を考えたりするんです。
僕は大丈夫。
どんな地獄からでも平気で生還するのが僕。
しぶとくて――未練がましいのかな。
でも、それって悪いことじゃないですよね。
大切な人がいて、どんなにみじめな境遇に墜ちても、どんなにみっともない ありさまになっても、生きて その人を見ていたいっていう願望に抗えないことは。






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