「駄目だよ。そんなこと言って、氷河をからかっちゃ」 氷河の期待に反して、瞬は、氷河の恋の実否に興味を示してはくれなかった。 瞬に たしなめられた紫龍の顔が珍妙なものになったのは、彼をたしなめた瞬の顔が極めて神妙なものだったから――だったろう。 『氷河に告白の機会を作ってやろう』程度の軽い気持ちで、親切心から氷河をからかってやっただけの紫龍には、瞬の沈痛な面持ちの訳が すぐにはわからなかったのだ。 それは天馬座の聖闘士も同様で、 「氷河をお花見に誘うなんて、僕、思い遣りに欠けてたんだ」 という瞬の反省の弁(?)に、星矢はきょとんとした顔になった。 「なんで」 反問した星矢に、瞬が つらそうに眉根を寄せる。 そうしてから、瞬は、日本人の花見イベントの騒々しさからは かけ離れた桜の花のイメージを語り始めた。 「だって……桜って、散るでしょう。満開の時にだって散る。日本人は、それを潔いって賞賛するけど、それって、人の死を連想するからでしょう」 「まあ、確かに、日本人は、花の時季が短い桜を 清く潔い死に重ねて、より美しく感じているところがあるようだが――」 探りを入れるような紫龍の相槌に、瞬は俯くようにして頷いた。 「だから……桜が散るのを見たら、氷河は、マーマやカミュや……いろんな人のことを思い出して、つらいと思うんだ」 「……」 瞬の神妙な――むしろ、つらそうな――表情の訳が、やっと紫龍には わかったのである。 星矢にも わかった。 しかし、瞬の懸念は、紫龍には杞憂としか思えなかった。 楽天家で売っている星矢には なおさら、瞬のそれは、実に馬鹿げた取り越し苦労の考えすぎでしかなかった。 瞬とは対照的に 声をひそめることもせず、ガラスのスライドドアが開け放しになっていなくても明瞭に氷河に聞こえるような大声で、星矢は彼の率直な疑念を口にしたのである。 「氷河がそんなに繊細かぁ」 「……と思うけど」 テラスに出ている仲間の気配を気にかけている様子で、小さな声で瞬が星矢に頷く。 星矢はもちろん、瞬の見解に真っ向から 反対意見を突きつけた。 「んなわけねーって。だいいち、花見ってのは、焼きそば食って、たこ焼き食って、綿菓子食って、りんご飴食って、イカ焼き食って、花見団子食って、そんで、春が来たーって、浮かれる祭りだろ。そんな抹香くさいイベントじゃねーぜ」 「でも、氷河は繊細だから」 「だから、氷河は繊細なんかじゃないって」 「そんなことないよ……!」 どうやら瞬は、本気で そう信じているようだった。 白鳥座の聖闘士は、美しい桜の花が散る様にも心を傷めるような繊細な心の持ち主である――と。 人に繊細な人間と思われることはいいことか悪いことか、瞬に繊細な男だと思われることは損か得か。 そんなことを考えることもできないほど、氷河は驚いた――彼は ただ驚いていたのである。 仲間たちに背を向けて そのやりとりに聞き耳を立てている事実を隠すことも忘れるほど。 なにしろ、白鳥座の聖闘士が繊細であるという説は、当の氷河も生まれて初めて聞く、斬新かつ超奇抜な珍説だったのだ。 テラスから ぽかんとして室内を見詰めている氷河に、紫龍がちらりと視線を投げてくる。 仲間の視線を追った瞬は、その視線の先にあるものを認めて、氷河に今の話を聞かれてしまったことに気付いたらしい。 掛けていた椅子から、瞬は ひどく狼狽した様子で弾けるように立ち上がった。 「ぼ……僕、お茶、いれてくるね……!」 言うなり、テラスとは反対方向にあるドアに向かって、瞬が駆け出す。 そして、瞬は、まるで逃げるように ラウンジから姿を消してしまったのである。 その場に、とんでもない買いかぶり――買いかぶりだろう――をされて呆然としている白鳥座の聖闘士を残して。 瞬の姿を呑み込んでしまったドアを放心したように見詰めている氷河の横顔を見やり、紫龍は おもむろに第二の桜の歌を詠んだ。 「『花に 瞬の馬鹿げた考えすぎに、それでなくても呆れかえっていた星矢の顔は、紫龍の詠んだ歌のせいで ますます くしゃくしゃになってしまったのである。 同じ時代に生を受け、同じ目的のために命をかけて共に戦ってきた仲間たちの感性が なぜここまで違うのか、口にする言葉がなぜ全く理解できないのか。 星矢には、この状況がどうにも得心できなかった。 「どういう意味だよ? それはいったいどこの国の言葉だ? 言っとくが、ここは日本だぞ」 「『心が花の色に染まったように、花のことばかり考えている。俺は すべてを捨て果てたつもりでいたのに』くらいの意味かな。もちろん日本語だ」 「あのさ、一応 言っとくけど、俺はさ、短歌とか俳句とか、そういうの、好きじゃないんだよ。背景の説明なし、前後の説明なし、山なし落ちなし意味なし。そういうのって、究極のやおいだろ」 西行法師のみならず、すべての歌人俳人、すべての やおい作家までが怒髪天を突いて怒り狂いそうな星矢のぼやきに、紫龍が薄く笑い、更なる解説を加える。 「クールになりきれない白鳥座の聖闘士の心を歌った歌だと思えば、その前後はわかるだろう」 「氷河の……? ああ、そういうことか」 もちろん 星矢は、本当に日本語がわかっていないわけではない。 所詮は大昔の見知らぬ坊主が詠んだ歌。自分には わからないものと決めてかかって、最初から理解することに乗り気でいなかっただけのこと。 それが氷河の心情を歌った歌と言われれば、星矢はその歌の意味も背景も瞬時に理解することができた。 理解した上で、星矢は、その歌の主人公に、 「で、おまえは瞬が言うように繊細だったのかよ?」 と、答えの わかりきった質問を投げることをしたのである。 「……」 瞬の考えを正面から否定するわけにもいかず、かといって紫龍たちの前で白々しい嘘をついても、それは彼等の冷笑を誘うだけだろう。 それがわかっている氷河の答えは、ゆえに、実に あやふやで曖昧なものになった。 「実際に花の散るのを見たら、瞬の言うような気持ちになっていたかもしれん」 「未来の仮定形。つまり、昨日時点では、おまえは、単に人混みが嫌だっただけというわけだ」 「……」 昨日はともかく、今日の氷河は――少なくとも今の氷河は、昨日の彼より少々繊細の要素を、その胸中に生じていた。 現在の氷河の気持ちを 至極冷徹に切り捨て、確かな事実としか言いようのない昨日のことだけを、紫龍がその口の端にのぼらせる。 それは否定できない事実だったので、氷河は渋面を作ることになった。 だが、今日の氷河は、確かに昨日の氷河とは違っていたのである。 もとい、今の氷河は、先ほどまでの氷河とは違っていた。 瞬に嫌われたくないとか、瞬に好かれたいとか、瞬の喜ぶことをしてやりたいとか、それらはそれらで もちろん非常に重要な目的である。 だが、それらは、自分の迂闊な提案が 繊細な(!)仲間の心を傷付けてしまったと思い込んでいる瞬の誤解を解くことほど、切実な問題ではない。 繊細な仲間の傷心を思って 痛みを覚えている瞬の心を癒し安らげてやらなければならないという責務を負わされた今の氷河は、男の沽券などにこだわって 呑気に渋面で い続けることはできなかった。 「俺のことはどうでもいいんだ。ただ、瞬がそんな心配をしているのなら、それが無用の心配だと知らせるために、俺は人混みや 酔っ払いの馬鹿騒ぎを我慢して花見に行くくらいのことは 喜んですると――」 「少し遅かったな。瞬は、繊細なおまえを傷付けるわけにはいかないと考えて、もう花見は諦めたようだ」 「俺のせいで諦めたのか? 瞬は、本当は花見に行きたかったんだろう?」 そこにあるのは、連休中の高速道路もかくやといわんばかりの人の渋滞。桜の木の下にいるのは、赤ら顔の酔っ払いと、カラオケに興じる馬鹿者共ばかり。 そんな場所に わざわざ出掛けていくことの意味も意義も、氷河には未だにわかっていなかった。 しかし、瞬がそこに行きたいというのなら、氷河は その目的地が地獄の底であったとしても、共に赴くくらいの覚悟はしていた。 瞬のしたいことを『人混みが不愉快だから』などという詰まらぬ理由で妨げることは、氷河には不本意の極みだったのである。 氷河が、瞬の花見の目的を未だに理解できていないことを察したらしい紫龍が、そんな氷河の上に、少々哀れみの色の混じった視線を投げてくる。 「瞬の花見の目的は、星矢のそれのように屋台の焼きそばを食うことではないし、どこぞの酔っ払いのように 酒を飲んで浮かれることでも、カラオケでわめきたてることでもない。瞬が花見に行きたいのは、おそらく、桜の花を愛でていられる平和な時間の中に身を置くことによって、平和の価値を実感することだ。となれば、それは俺たち全員が揃って行くのでなければ意味がない。一人でも欠けるのなら、“瞬の花見”は、行く意味がないものなんだ。焼きそば目当ての星矢でも、一人で行く花見など花見と呼べるものではないという考えでいるというのに、そんなことさえ、おまえにはわからないのか」 「……」 『わからないのか』と問われれば、『わかっていなかった』と答えるしかない。 どんな弁解も、どんな反駁の言葉も思いつかず、瞬の真の望みを“わかっていた”紫龍の前で、氷河は その唇を噛むことになった。 「まあ、率直に自分の意見を主張するのは必ずしも悪いことではないが、おまえは、人の心を気遣い思い遣る術を学んだ方がいいな。せめて もう少し慎重に振舞った方がいい。世の中には、おまえが嫌いなものを好きな人間もいて、おまえが好きなものを苦手な人間もいるということだ。おまえが無意味無価値と思っているものに大きな価値があると信じている者もな。悪意なく軽率な発言で、人に恨まれるのも、嫌われるのも、傷付けるのも 馬鹿らしいだろう。その相手が瞬なら、なおさらだ」 実に全く返す言葉もない。 ぐうの音も出ないとは このことである。 だが、今 氷河が知りたいことは、自分の愚かさよりも、瞬の誤解を解き 瞬の心を安んじさせる方法の方だった。 その方法を教えてもらえるのなら、極めて不本意ではあるが、紫龍の前に土下座をしてもいいとさえ、氷河は思ったのである。 残念ながら(?)、氷河はそうすることはできなかったが。 氷河が男の沽券を完全放棄し、その方策を紫龍に教示願おうとした まさにその時、お茶とお茶菓子を載せたワゴンを押して、瞬がラウンジに入ってきたせいで。 |