いつもなら紅茶用のポットとティーカップが載っているワゴンに、今日は湯呑み茶碗と菓子皿が載っている。
氷河が室内に戻っているのに気付くと、瞬は しばし切なげに眉根を寄せ、それから、どう見ても かなり無理をして作ったとしか思えないような笑みを、その口許に浮かべた。
「厨房に行ったらね、ちょうど、沙織さんが贔屓にしている和菓子屋さんから春の新作が届けられたところだったんだ。こっちの練りきりが“しだれ桜”で、寒天の中に桜の花びらが閉じ込められてるのが“春のせせらぎ”って言うんだって。綺麗でしょう。桜の和菓子……あ」

テーブルの上に 薄桃色の菓子が載った菓子皿とお茶を置いていた瞬の手が、ふいに止まる。
菓子の数でも足りなかったのかと訝って視線を巡らせた瞬の仲間たちの視界に映ったのは、真っ青な頬をして 自分が運んできた菓子を見詰めている瞬の顔だった。
「ご……ごめんなさい……!」
菓子の数が足りなかったくらいのことで、普通、人の頬はここまで真っ青にはならない。
ましてや、謝罪の言葉だけでは 自分の犯した過ちを償いきることはできないと言わんばかりに、その場から逃げ出そうとはしないだろう。

瞬が試みた逃亡劇に その場で最も素早い反応を示したのは星矢だった。
「待てこら! どっか行くなら、ちゃんと俺の分のお菓子を置いてから行け!」
「瞬、いったい どうしたんだ」
逃がしてなるかと瞬の手首をしっかり掴んだ星矢に一拍遅れて、紫龍が、瞬の頬の蒼白の訳を尋ねる。
恋の外に身を置くがゆえに 氷河の10倍鋭い洞察力と判断力を備えている紫龍でも、茶菓のサーブと瞬の頬の蒼白の関連性までは、さすがに察することができなかった。
菓子皿と湯呑み茶碗の置き方、置く順番、その位置。瞬の茶菓のサーブはマナー通りの完璧なものだったし、たとえ瞬が その行為に多少のミスを犯していたとしても、瞬の仲間たちはそんなことに目くじらを立てるようなことはしない。
星矢あたりは、菓子皿と茶碗の置かれた位置が逆だったとしても、それがミスだと気付くこともないだろう。
少なくとも瞬は、彼がラウンジに戻ってきてからの数分間、どんな些細なミスも犯していなかった。
ましてや、頬から血の気が失せるほどの大きな過ちなど犯しようがない。
そもそも そんな過ちを犯す時間が、瞬には与えられていなかったのだ。

実際、瞬の頬の蒼白の訳は実に思いがけないものだった。
星矢に手を掴まれ、逃亡が不可能になった瞬は、消え入るように小さな声で、
「僕、氷河の前で、桜のわがし・・・なんて……」
と、その訳を呻くように告げる。
瞬の仲間たちは、イントネーションの違いによって、瞬の言う『わがし』が『和菓子』ではなく『我が師』であることを知った――理解した。
途端に、星矢は、気の抜けてしまった炭酸飲料のように へなへなになり、死んでも離すものかと言わんばかりに力を込めて掴んでいた瞬の手を、ほとんど無自覚に解放することになったのである。

「おまえ、それは考えすぎだって。いくら繊細な氷河様でも、和菓子で我が師は思い出さねーよ。それって低レベルな駄洒落じゃん」
「で……でも……」
「氷河のように無思慮無神経なのも問題だが、おまえのように気にしすぎなのも問題だな」
さすがの紫龍も、瞬の考えすぎに呆れた顔になる。
氷河は 氷河で、自分が為すべきことをすぐに悟り、その作業を速やかに実行した。
すなわち、年長であるがゆえに星矢より先に配られていた菓子皿の上の薄桃色の菓子を 菓子楊枝で二つに切り分け、そのうちの一つを極めて無造作に口中に放り込むという作業を。
その隙に、星矢は ワゴンに手を伸ばして、自分の分の菓子をしっかりと確保した。

仲間たちが それぞれに己れの為すべきことを為し終えたことを確認してから、最後に紫龍は、それを伝えることが自分の仕事というかのように、氷河の翻意を瞬に告げたのだった。
「瞬。氷河が花見に行く気になってくれたようだぞ」
その短い伝言だけで、瞬は、紫龍の言葉の意味するところを理解したようだった。
切なげな眼差しでできた笑みを、瞬が氷河に向けてくる。
「氷河、優しいんだね……。でも、僕のためなら無理しないで」
「いや、俺は別に無理など――」

“優しい氷河”を見詰める瞬の眼差しに、氷河は、らしくもなく どぎまぎすることになった。
無理はしている。
確かに、氷河は、かなり無理をしていた。
大量の花見客が作り出す人混みと馬鹿騒ぎの様を想像すると、それだけで氷河は ひどくうんざりした気分になった。
それは昨日と今で何も変わらなかったし、それが自分一人のことであれば、氷河は決してそんなところに足を踏み入れようとは思わなかったろう。
だが、瞬のためなのであれば、氷河には それくらいのことは無理でも無体でもなく、また、我慢できないほどの不当・理不尽と感じることもなかったのである。
ただ、本当は思い遣りに欠けている無思慮な男を“優しい”と信じている瞬の心を非合理と思うだけで。
仲間を好意的に誤解している――むしろ、信じている――瞬を見ていると、胸が詰まるような息苦しさに襲われるだけで。

そんな氷河の様子を横目で窺いながら、紫龍が低い声で第三の歌を詠む。
「『花見れば そのいわれとはなけれども 心の内ぞ苦しかりける』。現代語訳がいるか?」
紫龍は星矢に尋ねたのだが、その答えは氷河から返ってきた。
「瞬のせいじゃないのに、胸が苦しい」
「実に的確な訳だ」
感心したように、紫龍が頷く。
そうしてから、彼は、今年の花見問題解決の時の延期を提案してきたのである。
「まあ、今年は花見はやめておいた方がいいようだな。行っても行かなくても、瞬は心苦しい思いを消せなさそうだし……。来年、何もなかったような顔をして、瞬の前で馬鹿騒ぎをしてみせればいい」

完全無欠の申し分ない解決策とは言えないが、無難で現実的な対応策ではある。
氷河は、紫龍が下した結論に、完全に本意とは言えなかったが、それでも同意するしかなかった。
屋台の焼きそばは来年の花見まで待たなくても、夏場の花火大会や七夕祭りにもやってくると言われ、星矢もそれで焼きそばへの未練を吹っ切ることにしたようだった。






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