それで今年の花見騒動は終わり、あとは氷河の恋の進展を気楽に見物していればいいと、星矢たちが考え始めた頃だった。 城戸邸に起居する聖闘士たちが今年の花見を断念したという話を聞きつけた沙織が、彼等の許に新たな騒動の火種を運んできたのは。 あるいは、それは、新たな騒動の火種ではなく、今年の花見問題の蒸し返しだったかもしれない。 なにしろ、沙織が持ち込んできた騒動の火種というのは、 「お花見を断念したなんて、ちょうどいいわ。あなたたちの中から誰か二人、私と辰巳の代わりに お能を観に行ってちょうだい。私は所用で行けなくなってしまったの。演目は、例の『西行桜』だから、舞台でたっぷり お花見ができるわよ」 というものだったのだから。 似たような花見イベントだというのに、沙織の依頼に真っ先に非協力宣言を出したのは、本来の花見イベントの提案者である星矢だった。 「ノウ? 歌舞伎でも浄瑠璃でも狂言でも日舞でもなく、能? 能って、あれだろ。お面つけた おっさんたちが、舞台の上でちんたら移動するだけの詰まんねー劇。字幕も出ないから、知らない国語のオペラより わかりにくいやつ。俺はパスな。んなの観てたら、俺は確実に寝ちまって、高いチケット代 無駄にするだけだから」 「おまえは そう言うが、能楽師の筋肉の使い方というのは、バトルのそれとは違っていて、一見の価値はあるものだぞ」 紫龍が星矢に そう告げたのは、彼が特に能を観たいからではなく、あまりに迅速かつ にべもない星矢の非協力宣言に呆れたからだったろう。 『字幕も出ないから、知らない国語のオペラより わかりにくいやつ』という理由で 切って捨てられる能という日本の伝統芸能に同情心に似た思いを抱いたからだったかもしれない。 いずれにしても、それは、彼自身が能を観たいと希望していたからではなかった。 まして、瞬と一緒に観能に出掛けたいと考えていたからではない。 ゆえに、沙織に、 「じゃあ、瞬と紫龍とで行ってくれる?」 と言われてしまった紫龍は、大いに慌てることになったのである。 「その組み合わせは角が立つでしょう。あ、いや、残念ですが、俺はその日は既に予定が入っているんです」 「あら。私はまだ日時は言っていなかったと思うけど。じゃあ、氷河、瞬と一緒に行ってくれるかしら」 「え?」 その時、氷河の目には、沙織が神々しい女神に見えた。 聞くところによると、彼女は本当に女神らしいのだが、氷河とて その事実を失念していたわけではなかったのだが――それでも今日の沙織は、氷河の目に寛大で慈悲深い本物の(?)女神に映ったのである。 だというのに。 だというのに、その女神の 粋で慈悲深い指令に水をさすのが、普段は女神アテナより寛大で心優しい瞬なのだから、人生とは皮肉なものである。 「氷河は駄目です! 氷河は、桜は絶対 駄目!」 もちろん、瞬が強い口調で そう言い張ったのは、瞬の優しさと思い遣りゆえのことであり、氷河との観能を断固として拒否する瞬にはどんな非も罪もない。 しいて言うなら、それは、白鳥座の聖闘士が自分で撒いた種の発芽結果だった。 せっかく瞬とのデートの機会が与えられたというのに、思い遣りと思慮に欠けた自らの発言のせいで、その幸運が失われてしまおうとしているのである。 人の気持ちを察し思い遣るという行為が いかに意義深いものであるか、その行為が 他人のみならず自分自身をも利するものであるか。そして、人の心を思い遣れないという行為が いかに不運で不幸で、自分にも他人にも不利益をもたらす行為であるのかを、本日ただ今 氷河はつくづく思い知ることになったのだった。 「でもねえ。誰かに行ってもらわないと困るのよ。埋まっていない席があると、宗家の立場を傷付けることになるでしょ。宗家には、若い人に お能の魅力を知ってもらいたいっていう希望があるようだったし……」 沙織は まだ口の中でぶつぶつ呟いていたが、今年アテナの聖闘士たちが花見に行くべきではないという考えは、瞬の中では決して覆ってはならない確定事項となっているらしく、瞬は彼の女神に いささかの妥協を示す気配も見せなかった。 |