悪い予感というものは、なぜいつも的中するのか。
氷河の声を持つ その人の姿を見て、瞬は、その普遍の真理に苦々しさを覚えたのである。
そこにいたのは、見知らぬ人だった。
同時に、だが、見慣れた人でもあった。

金色の髪と青い瞳。
身に着けているのは、(おそらく)黒テンかビーバーの毛皮の外套。
いつもなら、『普通の人を驚かせないために、頼むから上着を着てくれ』と懇願されでもしなければ 決して防寒具の類を身に着けない氷河(の姿をした人)が、仲間に懇願されたわけでもないのに、厚く重々しい外套で、その身を包んでいた。
その上、正面中央に彼の瞳と同じ色の大粒のサファイヤが輝いている(おそらく)ウサギの毛皮の帽子まで。
氷河も 髪に関しては、いつも無造作を極めていて、それは、今 瞬の目の前に立っている“彼”も似たようなものだったが、その髪には どう見ても自然のものとは思えないウェーブがかかっている。
襟足が“氷河”のそれよりすっきりして見えるのは、彼が長い金髪を首の後ろで一つに束ねているからのようだった。

それがコスプレだというのなら、かなり凝ったコスプレである。
凝っているだけでなく、かなり金のかかったコスプレである。
もちろん、それが アテナの聖闘士であるキグナス氷河による 一般人のコスプレでないことは、明々白々な事実だったが。

それが 瞬の見知っている氷河によるコスプレでない理由は、彼を注意深く観察するまでもなく、容易に幾つも指摘することができた。
まず、彼は、瞬が知っている氷河より歳上だった。
おそらく、20代後半。
大柄で たくましくはあるが、その肉体は意図して鍛えたものではない。
厚い外套で包まれているせいで確認することはできず、当然 確信することもできないのだが、少なくとも 彼の肉体と氷河のそれは筋肉のつき方が違っているように、瞬には見えた。
そして、それよりも何よりも、瞬を見おろしている彼の瞳は、瞬の知っている氷河のそれとは 全く様相を異にしていたのだ。
氷河が瞬を見詰める時、必ず そこに感じとれる あの熱っぽさがない。
瞬を見ている彼の瞳は、見知らぬ子供を見詰めている大人のそれだった。

どう考えても、彼は氷河ではない。
だというのに、顔だけが氷河なのである。
というより、彼の面差しは、あと数年分 歳を重ねたら こうなるだろうと思える氷河の面差しだった。

「あの……あなたは誰」
そして、ここはどこなのか。
一瞥した限りでは、1時間ほど前、瞬が見ていたものと同じ光景がそこにはあった。
9割方、白い雪で覆われた大地、頭上には晴れた青空。
東に青白く霞む山、南に針葉樹の林。
全く同じだった。
林が、南側だけでなく西側にまで広がって・・・・いることを除けば、何もかも。

急に背筋に冷たいものを感じ、ここは本当にどこなのだと、瞬は本気で考え始めたのである。
ほんの数10分で林が広がる理由を思いつくことができたなら、瞬の混乱は すぐにも静まっていただろう。
ここが、自分の知る世界の一画だと確信することさえできたなら、アテナの聖闘士である瞬に“恐いもの”などありはしないのだから。
だが、その理由をどうしても思いつけなかったので、瞬の混乱は静まることはなかった。
ここがどこなのかがわからなければ、この世界そのものが、アテナの聖闘士である瞬にとっても十分に“恐いもの”だった。

「そなた、奇妙な髪をしているな。外套も見たことのない材質だ。ウサギでもテンでもない。いったいその外套は何でできているんだ? こんなに白い外套は、ペテルスブルクのどんな大貴族の奥方も――いや、皇后でも身にまとうことはないぞ」
混乱と緊張のせいで鼓動の速さを増していた瞬の上に、見事に くつろいだ口調の声が降ってくる。
ペテルスブルクに貴族の奥方や皇后がいる世界。
それは、確実に、瞬が存在していた世界とは違う世界だった。
否、もしかしたら、違っているのは“世界”ではなく――。

「面白い。この娘、館に連れていく」
ありえないことを考えざるを得なくなり、更に混乱を増し始めていた瞬に、彼は そう言った。
あるいは彼は、彼の同行者たちに彼の決定を伝えるために そう言ったのだったかもしれない。
いずれにしても、彼の その言葉を聞いた途端に、瞬は確信したのである。
この男性が氷河ではないことを。
もちろん、数年分 歳を重ねた氷河でもない。
彼は、顔の造作が氷河に似ているだけの全くの他人だった。

「僕は娘じゃありません!」
「なに?」
彼は、最初は、瞬の主張の意味を理解できなかったらしい。
氷河と同じ色の瞳で、意味の通らないことを言う“娘”を、彼は怪訝そうな目で見おろしてきた。
そうして10秒ほど。
彼は おそらく、瞬の男らしい・・・・姿を見て、瞬の主張の意味するところを理解したのではなかっただろう。
そうではないようだった。
実存主義的にではなく、論理学的に――あくまでも言葉の上で――『娘ではない』という文言が どういう事実を意味し得るのか、その可能性を考えて、彼は答えに行き着いた――ようだった。
意地を張ったように唇を引き結んでいる瞬の姿を、改めて 上から下まで観察してから、彼は実に楽しそうな笑い声を、春と冬の間にあるシベリアの大地の上に響かせた。

「では、ますます このまま別れるのは惜しい。これほど可愛らしい男子は 滅多にいるものではない。本当に娘でないならば」
どう考えても、彼は瞬の言葉を信じていない――少なくとも、半信半疑のようだった。
その手の誤解には慣れていたが、その誤解をしているのが氷河と同じ面立ちの持ち主となると、実に複雑な気分になる――瞬でも傷付く――瞬だからこそ傷付く。
勝手に、“このまま別れない”ことを決めてしまった氷河のそっくりさんの前で、瞬は、しばし 混乱と緊張を忘れ、短い嘆息を洩らしてしまったのだった。

その上。
“娘ではない”ことを信じてもらえないことで傷付いていた瞬を 更に傷付ける真似を、彼はしてくれた。
すなわち、彼は、瞬を自分の馬の背に、女性のように横乗りさせてくれたのだ。
その ふざけた振舞いに、瞬は抗したかった。
抗していただろう。
もし瞬が一人で馬に乗ることができ、馬を操る術を心得ていたならば。
その術を心得ていなかったせいで、瞬は、唇を噛みしめながら、大人しく、彼の外套を掴むようにして、彼の胸にすがっていることしかできなかったのだった。

だが、おかげで――馬に乗って視点が高くなってことで、気付いたことが一つ。
それまで瞬が 平坦な雪の大地と思っていた場所には、コップ一杯ほどの水を零してできたような小さな窪みがたくさんあった。
スプリング・エフェメラルの花が 身を潜めている窪み。
ここがどこなのか、彼が誰なのかはわからなかったが、季節だけは、数10分前と変わってはいない。
その ささやかな一事に、瞬はせめて心を安んじようと努めたのだった。






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