彼の館は、瞬の方向感覚が狂っていなければ――瞬が知っている世界では コホーテク村がある場所にあった。 白い大地の中に堂々と そびえ立つ、黒と白と金を基調にしたゴシック風の豪奢な建物。 門や塀の類はない。 というより、瞬が 今彼と共に馬で駆けてきたのは、彼の館の庭の一部、あるいは、領地の内だったのかもしれなかった。 それは、囲うには広すぎる庭なのだろう。 “庭”の西側には、小さな村さえあるようだった。 もちろん その庭には、豪奢な館の庭にふさわしく豪華なもの――だが、あまり有益とは思いないもの――も多くあった。 噴水のある池や、誰の似姿なのかもわからない彫像の類。 春を迎える支度なのか、館の使用人らしき者たちが十数人、それらの無益な飾りの上に降り積もり こびりついた雪を取り除く作業にいそしんでいる。 彼等は、氷河のそっくりさんの姿を認めると、彼と顔を合わせるのを恐れているかのように、彼に向かって深く頭を下げた。 男たちが身に着けているものは、ほとんどがプルオーバータイプの黒の上着とズボン、女たちが身に着けているものは、くるぶしまで届く長いスカートとショール。 彼等が祭りに参加するために民族衣装を身につけているのでないのなら、それらは17世紀から18世紀のロシアの農民たちの装束に酷似していた。 館の外庭から内庭に入り、馬の速度を落とした氷河のそっくりさんに、瞬は馬上で 恐る恐る訊いてみたのである。 というより、瞬は彼にカマをかけた。 「あの……今のロシアの皇帝は誰ですか」 「恐くて口もきけずにいるのかと思っていたのに、何だ、急に。帝室は、先日 エリザヴェータ女帝が崩御し、ホルシュタイン=ゴットルプ家から迎えていたピョートルが帝位に就いたばかりだ」 「ホルシュタイン=ゴットルプ家のピョートル……」 瞬は、ロシアの歴史には つまびらかではなかったが、そんな瞬にも、それはわかりやすい時代だった。 ロマノフ王朝の男子の血統が絶え、ホルシュタイン=ゴットルプ家から養子に迎えていた男子が帝位を継ぎ、ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝が始まったのが、確か1762年。 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝の最初の皇帝は、暗愚で有名なピョートル3世。 彼は、戴冠から半年もしないうちに、その妻エカテリーナによって帝位を追われている。 そして、即位したのが、かの有名な 氷河のそっくりさんが 瞬をからかって嘘をついているのでなければ、 瞬の知っている世界では――時代では――この場所に、これほど壮麗な館はなかった。 小さな集落があるだけだった。 が、その一事で、 20世紀初頭──今から150年後というべきか、100年前というべきか──ロシアの帝政は打倒された。 ロシアの皇室と貴族制度は、事実上 この地上から消え失せたのだ。 革命軍に破壊されたか、あるいは徴収され、やがては打ち捨てられた――ということも考えられる。 ありえること──それはありえることだった。 瞬の知っている世界にこの館がないというより、むしろ、コホーテク村が この館の名残りなのだと考えた方が正しいのかもしれない。 ここは、瞬が知っている、瞬が生きていた世界と同じ世界なのだ。 ただし、250年前の。 それが、瞬の行き着いた結論だった。 250年。 それは、いったい どれほどの世代交代が行なわれる時間なのだろう。 だが、これほど似ているのである。 今 自分のいる世界が異次元にあるシベリアでないのなら――異世界のシベリアでないのなら――、彼は氷河の先祖なのではないだろうか。 そう、瞬は考え始めていた。 もしそうなのであれば、彼はおそらく氷河の母方の先祖。氷河の母から氷河に受け継がれた金髪は、元をただせば、この男性のものだったのではないか――と。 その推察に、もちろん根拠や確証はない。 しかし、髪自体が光を放っているような氷河の金髪と同じ髪を持つ人間を見たのは――生きている人間を見たのは――瞬はこれが初めてだった。 氷河の母や親族について、もっと氷河に聞いておけばよかったと、瞬は後悔したのである。 決して興味がないわけではなかった。 が、亡くなった母のことを尋ねると、氷河に つらい出来事を思い出させ、彼を悲しませることになるのではないかと、ついためらって、瞬は 氷河にそういったことを尋ねることができなかったのである。 瞬は、氷河が自分から話す気になってくれるのを待つしかなかった。 そうしているうちに、瞬は氷河がいてくれれば それでよくなり、氷河も、(おそらく)瞬がいれば他はどうでもいいと考えるようになった。 氷河を見ていられれば、瞬は それで満足。おそらく氷河も同じ。 要するに、二人は 互いしか見えなくなり、互いが見えていれば、それで満足できるようになってしまったのだ。 その氷河が、今は瞬の側にいない。 本物の氷河の姿を見ることも、氷河の眼差しを感じることもできない。 だから、瞬は今は“それでいい”という気持ちになれず、もちろん満足を感じることもできていなかった。 氷河が、今、自分の側にいない。 そう思うと、瞬は、胸の中を冷たい風が吹きぬけていくような不安に襲われた。 |