彼は誰を羨ましいと言ったのか。
何を羨ましいと感じているのか。
瞬か、氷河か、愛することか、愛されることなのか。
彼の呟きの意味が知りたくて、瞬は、彼に尋ねたのである。
「あなたは?」
という、ひどく漠然として言葉を用いて。

ラーリン侯爵の答えは、実に意外なものだった。
一度 答えを ためらう様子を見せてから、
「世の中には、女を見るたびに目の色を変えて追いかけまわし、手に入れ、満悦するような男もいるそうだが――」
という言葉のあとに、溜め息と共に彼が口にしたのは、
「……世にも稀なる美女がいたとする。気立てもよくて、教養もある。もちろん、身分も歳も私に釣り合っている。そんな美女に出会って、私がもし彼女を愛せなかったらと思うと、私はそれが恐ろしいのだ」
という、苦しげな呻吟だったのだ。
「え?」
「愛してもらえないことも恐いが、愛することができないのはもっと恐ろしい」
「あの……」

彼が恐れているものに、瞬は呆然としたのである。
人を愛せないことを恐れる気持ち――というのが、瞬には わからなかった。
瞬自身、滅多に人を嫌いになることはなかったが、人間に対する好悪の感情というものは、意思や理性の支配下にあるものではなく、当然、そういった感情の有無や生滅には義務も罪も生じない。
それは、『自分は義務を遂行できていない』『自分は罪を犯している』と恐れるような問題ではないはずだった。
しかし、ラーリン侯爵には そうではなかったらしい。

「我が家の農奴たちが時々、私に結婚の許しを求めてやってくる。子が生まれれば、それは我が家の財産が増えるということで、よほどのことがない限り、私は許可を与える。だが、そういう者たちを見るたび、私は、どうして彼等は あんなに簡単に恋ができるのか、どうして そんなにも簡単に人を好きになることができるのかと、不思議でならないんだ」
「人を好きになることなんて――」
それは至極 容易なことのはずだった。
『自分に優しくしてくれたから』『一緒にいると楽しい気持ちになれるから』『同じものを好きだから』――そんな些細な理由で、人は簡単に人を好きになることができる。
それこそ、『彼(彼女)が美しいから』という事柄ですら、人が人に好意を抱く理由に――大きな理由に――なり得るのだ。

「おまえが少女だったらよかったのに。私は、おまえなら愛せるような気がする。おまえの瞳は、不思議なほど気負いがなくて、自然で、素直だ。私を恐れてもいないし、私を見下してもいない」
人を好きになるという、誰にとっても ごく容易なこと、そうしようと思わなくても たやすくできてしまうこと――が 自分にはできないと、彼は言う。
それは、瞬には不思議な苦悩だった。
そんな苦悩を抱えている彼を不思議に思い――同時に、彼は本心では誰かを愛したくてたまらないでいるのかもしれないと、瞬は思ったのである。
オリガ姫に自分で会いに行こうとしなかったのも、決して彼が不精だからではなく、彼は、妻として誰もが“妥当”と認める女性に、自分が好意を抱けないことを恐れていただけだったのかもしれない。
瞬は、そう思った。

だが、そんなことが本当にありえるのだろうか。
これほど氷河に似た面差しの持ち主が、人を愛せないことを恐れ苦しみ悩んでいるなどということが?
氷河は、それが恋でも、母への愛情でも、友への友情、師への尊敬でも――どんな種類の思いでも――感情面で 深く のめりこむタイプの人間だった。
その氷河と同じ血が流れている(かもしれない)人が、そんな悩みを悩むなど、あまりに意外すぎて、瞬はキツネにつままれたような気持ちになってしまったのである。

なぜ、これほど氷河に似た人が、氷河のように人を愛することができないのか。
彼と氷河では、何が違うのか――。
瞬は、その謎の答えが知りたいと思った。
その謎を解くことが、氷河に面差しの似たこの人を、幸福な恋人、幸福な夫、幸福な人間にできる唯一の方策であるような気がした。
そのために、自分は ここ・・に来たのではないだろうかと、瞬は思ったのである。

だから、氷河には訊けなかったことを、瞬は勇気を出して彼に尋ねてみたのである。
「あなたのご両親はどんな方々だったの」
と。
彼は、問われたことに すぐには答えを返してくれなかった。
しばらく答えをためらって――それでも結局 彼が瞬に その事実を語る気になったのは、彼が瞬を普通の人間だと思っていなかったからだったのかもしれない。
心のどこかで、彼は瞬を この世のものではないと疑っていたのかもしれない。
その疑いゆえに、彼は彼の“この世の事情”を瞬に語る気になったのかもしれなかった。

「――普通に釣り合った結婚をした貴族の男女だ。いや、釣り合っていると思っていたのは、世間の人間たちだけだったのかもしれない。母には、妾腹絡みだったがピョートル大帝の血が入っていて、だから母は、自分が皇族か 他国の王子の妻になるものと思っていたらしい。母は、ロシア有数の大貴族といっても所詮は皇帝の臣下にすぎない父を見下し、嫌い、彼の妻になることを拒んだんだ。自分の代わりに 一人の農奴の女を父に差し出し、彼女自身はラーリン公爵の妻としての役目を放棄した」
「え……でも、だって……」
「私は、父と その農奴の女との間に生まれた子だ。私が そのことを知ったのは14、5になってからかな。母が――母と信じていた人が、死の間際に、呪うように その事実を私に教えてくれた。本音をいうと、もっと早く知らせてほしかったと思ったな。事情を何も知らされていなかったせいで、母が私を愛してくれないことに、幼い頃から私はずっと傷付いていたから。彼女は私の実の母でなかったんだから、それも当然のことだったのに。彼女は、むしろ、私を農奴の産んだ子と蔑んでいたんだろう。父も、おそらく」
「……」

彼の 寂しげな告白を聞いて、瞬は初めて理解したのである。
『なぜ、これほど氷河に似た人が、氷河のように人を愛することができないのか。彼と氷河では、何が違うのか』
二人の何かが違うわけではない。
二人が似ているのは、その姿だけだったのだということを。

「あなたの本当のお母さんは……」
瞬が、震える声で尋ねる。
彼は、今度は あまり ためらった様子もなく、すぐに瞬に答えを返してきた。
自分の身体に流れる血の半分が農奴のものだと告白したあとで隠すようなことは もう何もないと、彼は思っていたのかもしれない。
「私は、彼女をずっと乳母だと信じていた。今でもこの館で小間使いをしている。タチアナと言ったかな。昔は、私を若様と呼んでいた。今は旦那様と呼ぶ。だが、彼女は――彼女は、私の母ではない。私は、彼女にとっても、無理矢理産まされた 好きでもない男の子供なんだ。彼女も私を憎んでいるだろう」

母と信じていた女性と、実の母。
二人の母に愛されないことで、彼はこれまでずっと傷付き続けていたのだろう。
だが、それは瞬には信じ難いことだった。
氷河に これほど似ている人が、母に愛されていないなどということは。
「身分が農奴なんでしょう。他に何て呼べるの。実の息子を若様と呼ぶことしかできなかった お母さんの気持ちを、あなたは考えたことがあるの!」
「……ただの卑屈な奴隷女だ」
「卑屈になっているのは あなたの方でしょう。自分の身体に農奴の血が流れているのは、そんなに屈辱的なことなの !? 今 このロシアで 貴族だ皇帝だって偉そうにしている人たちはみんな、元を辿れば、その辺りの雪原でキツネやトナカイを追いかけていた狩猟民族でしょう! 農奴と何が違うっていうの!」
「きついことを……」
「事実だよ!」

瞬には、もう わかっていた。
自分が今ここにこうしている訳が。
それは、身分というものに こだわらない21世紀の人間の価値観で、彼に母親の愛というものを気付かせるためだったのだ。
「確かに――彼女は、他にどんな態度もとれない。私に馴れ馴れしくしたら――まして、実の母と名乗り出たりしたら、いったい何が目的で そんなことを言い出したのかと疑われるだけだ。だが……母親の愛というものは、こんなにも長い間、自制心で抑えつけていられるものなのか? 29年間もの間、私は――彼女は――」

ラーリン公爵は、愛されたことがないから、愛し方を知らない。
父に優しくしてもらった思い出もなく、形式上の母に愛された記憶もなく、実の母は 彼の母だと息子の前に名乗り出ることもできない。
彼は、愛された実感を経験したことがない、不幸な子供なのだ。
これだけ美しい男性なら、恋など向こうから寄ってくるのが普通だというのに、たとえばオリガ姫のような女性がいても――実際、彼に好意を抱いた女性はいくらでもいただろう――愛がどんなものなのかを知らない彼は、目の前にある愛が 愛だということに気付きもしないのだ。

瞬には、もう わかっていた。
自分が今ここにこうしている訳が。
それは、瞬自身の恋を実らせるためだった。
ラーリン侯爵が 愛を知らないまま その一生を終えたなら、氷河はこの世界に生まれてこないのだ。

「じゃあ、試してみようよ」
「試す?」
「あなたの お母さんから自制心を取り除いてしまうの」
「どうやって」
「あなたが、お得意の乗馬でドジを踏んで落馬して、打ちどころが悪かったせいで瀕死の重症だってことにしようよ。そこに お母さんを連れてきて、あなたと二人きりにする。そうしたら、どんなに自制心の強い人だって、本心を言うでしょう。母と名乗れる最後の機会かもしれないんだもの。あなたに『愛してる』って言える、最後の機会かもしれないんだもの。あなたの寝室はどこ。あなたはベッドに潜り込んで、うんうん唸ってて。僕、お母さんを連れていくから」
「そんな、彼女を騙すようなことは――」

ラーリン侯爵が何か言っていたが、瞬は、強引に自分の計画を実行に移した。
これには、瞬の恋がかかっているのだ。
そして、氷河の命がかかっている。
悪意のない小さな(?)嘘の一つ二つ、アテナもロシア正教の神も許してくれるはずだと、瞬は一人で決めつけていた。

実際、瞬の計画は、すべてが瞬の考えていた通りに進んだのである。
初めて自分の息子と 他人の目のないところで対面の叶った幸福で不幸な母親は、変わり果てた(?)瀕死の息子を前にして、農奴としての自制心を保ち続けていることができなかった。
「アルセーニ! ああ、私のアルセーニ! 死なないで! おまえを失ったら、私はどうすればいいの! 何のために生きていけばいいの! おまえがいてくれるから、私は これまでどんなに つらくても生きていられたのに!」
ラーリン公爵家の跡継ぎである息子の名誉と幸福のために、これまで必死に母としての愛を押し殺していたのだろう彼女は、黒いショールで隠していた 公爵と同じ金色の髪を振り乱し、愛する息子の不運を身も世もあらぬほど嘆き悲しんでいた。

それが彼女の本当の心を確かめるための芝居だったことを、公爵が何といって彼女に告白し謝罪し、その後、彼が彼を愛している母親にどんな言葉を告げたのかを、瞬は知らない。
それは囁くように低く小さな声で、部屋のドアの向こうにいた瞬には聞き取ることはできなかったから。
ただ、その日以降、ラーリン侯爵が 遠慮深い母の質素な部屋を足繁く訪ねるようになり、そして、彼の瞳に、氷河の瞳のそれと同じ温かさと明るさがたたえられるようになったのは、紛れもない事実だった。






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