「あーら、アンドロメダ。お久し振りだわね」
いったい どこからそんな口調を仕入れてきたのか、争いの女神の片鱗も感じさせない 蓮っ葉な声と言葉を、絵梨衣の姿をした争いの女神が 城戸邸のエントランスホールに響かせる。
瞬が戸惑ったのは、絵梨衣の姿をした少女が口にした言葉ではなく、いつもの絵梨衣らしからぬ雰囲気のせいだったようだった。

「あの……絵梨衣さん……? 久し振りって……?」
「ああ、絵梨衣とは頻繁に会ってるんだったわね。私、エリスよ。氷河が付き合って・・・・・るのは、絵梨衣じゃなく、この私なの」
「付き合って……?」
エリスが その言葉に強いアクセントをつけて言ったのでなければ、それが特別な“お付き合い”を意味する言葉なのだということに、瞬は気付きもしなかったのだろう。
少し不思議そうな顔をして、瞬は その言葉を復唱した。

さすがは争いの女神というべきか、それが人間じんかんのことでも、男女の仲のことでも、エリスは波風の立て方のコツを心得ている。
瞬の困惑を わざとらしい笑顔で受けとめて、エリスは更に彼女の本領を発揮し出した。
「あの、でも……」
「ほんと、ごめんなさいねー。いろいろあって、そういうことになったの。それにしても、氷河ってヘタクソね。あなた、あれで満足してたの? 私の前って あなただったんでしょ?」
「あなたの前……?」
「まあ、さすがに、日露ハーフだけあって、ロシア人の大きさと日本人の硬さを備えているのは大変結構なんだけど、もう少し、女の扱いを覚えてくれないと、せっかく いいものを持っていても、あれじゃ宝の持ち腐れよ」
「お……大きくて硬い……?」

いくら瞬を幸福にするためとはいえ、瞬がそんな形容詞(ごく普通の一般的な形容詞である)を口にすることに耐えられなくなったのは、誰よりも瞬(と自分)の幸福を願う氷河だった。
「エリス! いい加減にしろっ。やりすぎだ!」
畏れ多くも女神たるものを頭ごなしに怒鳴りつける氷河に腹を立てて――というより、氷河の慌てぶりを面白がって――エリスは お為顔で氷河に意見してきた。
「しかし、これくらい言ってやらないと、この鈍感聖闘士は、おまえの朝帰りの芝居の意味も、私の言っている言葉の意味も わかりそうにないではないか。おまえと私がどんな情熱的な夜を過ごしたのかも」
『24時間営業の漫画喫茶で、“こち亀”全巻制覇のどこが情熱的だ!』と言いたいところを、氷河は ぐっとこらえた。
さすがに、それは瞬に知られたくなかったから。

そんな氷河を鼻で笑って、エリスが、
「それとも、おまえは、SSサイズの ふにゃちんなのか」
と、気の毒そうに訊いてくる。
エリスに――よりにもよって争いの女神に協力を頼んだのが間違いだったのだと、事ここに至って、氷河は悟ったのである。
「貴様に協力を頼んだ俺が馬鹿だった。とっとと消えろっ!」
「消えろというのなら、消えてやってもいいが、レフェルヴェソンスのディナーとドレスはどうなるのだ」
「そんなことは、アテナに直接 掛け合えっ!」

神の相手ができるのは、やはり神のみ。
今になって その事実に気付いた氷河は、エリスを城戸邸の玄関から叩き出した。
本当に叩いて追い払ったわけではなかったのだが、女性に対してあびせかけた氷河の怒声は、瞬の目には十分 手荒な振舞いに見えたのだろう。
「絵梨衣さ……エリスさん、大丈夫ですかっ」
瞬が仰天して、エリスのあとを追おうとする。
氷河は、しかし、瞬の腕を掴まえて、エリスのあとを追わせなかった。
「氷河、なんてことを――」
「おまえは、俺とエリスのどっちが大事なんだ!」
「え……」

突然、そんなことを問われてしまった瞬が、ぱちくりと目を見開く。
噛みつかんばかりの氷河の形相に ただならぬものを感じたのか、瞬は、その究極の二択問題の前で、エリスのことを忘れた――ようだった。
たとえばエリスが死に瀕しているというのでもない限り、瞬は エリスよりは氷河の方を大事に思ってくれているらしい。
その事実に、氷河は僅かながら、心が慰められることになったのである。
そして、氷河は瞬に尋ねた。
最初からエリスに協力を頼んだりせず、詰まらぬ小細工に走ったりもせず、正面から直接 瞬に確かめるべきだったことを。

「俺が絵梨衣といても、エリスといても、おまえが焼きもちを焼かないのは、おまえにとって俺が その程度の存在だからなのか」
「え……?」
「いや、焼きもちを焼けないというのなら、それでもいいんだ。焼きもちを焼けるということが幸せの絶対条件だとは言い切れないだろうからな。俺が知りたいのは、俺がおまえとの仲を解消して、他の誰かを おまえの後釜に据えることにしたと言っても、おまえは俺を おまえの許に引きとめようとはしないのかということだ。そんなことになっても、おまえは俺を恨まないのかということ、俺と全くの他人になっても、おまえは平気なのかということだ」
「氷河……」

氷河の真剣な面持ちに、瞬が僅かに たじろぐ様子を見せる。
それが単なる戯れ言ではなく、恋人同士の他愛ない例え話でもないことは、瞬も感じてくれているらしい。
苦しげに眉根を寄せ、氷河の顔を見上げ、見詰め、そして、いつものように瞼を伏せず、氷河と視線を合わせたまま、瞬は氷河に、
「氷河は、僕とのこと、なかったことにしたいの……?」
と尋ねてきた。

瞬の悲しげな瞳は、瞬が既に“氷河”を諦めかけていることを物語っていた。
氷河は、自身の胸中に怒りが渦巻き始めている事実を認識することになったのである。
それが、瞬の諦めのよさに対する怒りなのか、そんな例え話を口にして瞬を悲しませている自分に対する怒りなのかは、自分でもわからなかったが。
いずれにしても、
「そんなことはない」
と答えるのが、今の彼にできる精一杯のことだった。
そんな氷河に、瞬が囁くように小さな声で、
「氷河がそうしたいって言うのなら、そうしていいんだよ」
と告げてくる。

氷河の胸中の怒りは、既に喉許まで せり上がってきていた。
かろうじて、その怒りを爆発させるのを抑え、
「そんなふうに簡単に諦めてしまえるのは、おまえにとって、俺が、自分の許に引きとめようと努める価値もないものだからか」
「そんなことはないよ」
「だが、普通、そういう時、人は、勝手に自分の許を去っていこうとする者を恨むものだ。そういう事態を招いた図々しい女を憎むものだ」

氷河は決して、瞬との関係を解消したいわけではなかった、
瞬に恨みや憎しみなどという感情を抱いてほしいわけでは、なおさらない。
なぜ自分はこんなことを瞬に言っているのか、なぜ瞬は こんなことを自分に言わせるのか。
瞬を問い質しながら、氷河は、瞬にそんなことを言い募っている自分自身をも訝っていた。
瞬が、力なく首を横に振る。
「それは、氷河が誰かに無理強いされて、僕から離れることが氷河にとって不本意なことだった場合のことだよ。氷河が氷河の意思で僕から離れていくのだとしたら、その方が氷河は幸せになれるということでしょう。どうして僕に、幸せになろうとしている氷河の邪魔をすることができるの」
「それで、俺がおまえを顧みなくなっても――俺なしでも、おまえは平気だというのか!」

『平気ではないと言ってくれ』と、氷河は心の中で叫んでいた。
そんな事態に瞬が平気でいられるはずがないとも思っていた。
白鳥座の聖闘士に『俺はおまえが好きなんだ』と告げられた時、嬉しそうに輝いた瞬の瞳。
あれが ただの錯覚だったとは思いたくない。
初めて瞬と身体を重ねた時の瞬の健気な耐えよう。
あれが嘘だったとは思いたくない。
二人が二人でいる時の満ち足りて幸福な思い。
あれが自分一人の一方的な幸福感だったとは、氷河は絶対に思いたくなかった。

瞬を問い質す氷河は追い詰められていた。
そんなつもりは毫もなかったのに、瞬が次に口にする言葉ひとつで、二人の仲は終わってしまうかもしれないのだ。
そんなことは、爪の先ほどにも望んでいなかったのに――たった今も望んでいないのに――瞬の答えひとつで、二人は他人に戻らなければならなくなってしまう――。

氷河は追い詰められていた――自分に追い詰められていた。
だが、それは、瞬も同じだったらしい。
それまで ひたすら穏やかで静かで、そこに本当に瞬の意思はあるのかと疑ってしまいそうなほど 力も抑揚もなかった瞬の声が、急に激しいものになる。
追い詰められている氷河に追い詰められ、おそらく瞬は後がなくなったのだろう。
瞬は急に悲鳴のような声で 氷河を怒鳴りつけてきた。
否、瞬は絶叫した。






【next】