春風のささやき






十二宮最後の宮である双魚宮から教皇の間のある教皇殿までは、傾斜のきつい長い石の階段があるのだが、教皇殿からアテナ神殿までは申し訳程度の石段があるきりである。
それは、黄金聖闘士たちは外敵を撃退する役目を担う者たちであるが、教皇は アテナの側近くで彼女を守り、補佐し、聖闘士たちを統べる役目を担う者だからなのだろう。
そういう意味で、教皇殿は、聖域の砦ではなく、アテナ神殿に付属する別宮、あるいは内玄関のようなものなのかもしれなかった。

アテナ神殿と教皇殿の間にある申し訳程度の石段。
その階段に腰をおろし、石の手すりに上体を預けるようにして、なかなかやってこない待ち人を待ちながら、氷河は うたた寝をしていた。
季節は春。
陽光は暖かく、聖域を通り抜けていく微風は花の香りを含んでいる。
だから、氷河は気付かなかったのかもしれなかった。
花の香りを帯びた人が、彼のすぐ側までやってきたことに。
ほとんど影を作らない位置にある太陽。
光の中で うとうとしていた氷河の上に身体を屈ませて、花の香りを含んだ唇が、閉じられている氷河の瞼に そっと触れる。
その優しい感触に惹かれ、氷河の意識はゆっくりと夢の世界から現実の世界に戻ってきた。

「いい起こし方だな」
目覚めた氷河の前には、香りだけでなく姿までが花のような人がいて、その人は 夢幻の花霞のような微笑を 氷河に見せてくれた。
戦闘時の存在感は鮮やかなほど強大なのに、他の場面では 驚くほど控え目で 密やか。
まるで 自分の持つ輝きや美しさを自覚していない春の野の小さな花のようだと、氷河は思ったのである。

「いい日和だったんでな。おまえが戻ってくるのを待っていたら、つい うとうとしてしまった。夕べ 頑張りすぎて寝不足だったのかもしれん。沙織さんの話は何だったんだ?」
「うん……」
瞬が、答えになっていない答えを返してくる。
小さな白い花に影がさしたような その様子を見て、氷河は眉を曇らせた。

「よくない話だったのか」
「あ、ううん。大した話じゃないよ」
「どこかに敵の気配でも感じるとか?」
言いかけて、それなら瞬だけを呼ぶはずがないと考え直す。
その事実に気付いてしまったせいで、氷河は、実に不愉快な神の名を口にしなければならなくなった。
「ハーデス絡みのことか」
問われたことに答えるのを避けているようだった瞬が、初めて はっきりと首を横に振る。
「そういう深刻な話をするのに、『聖衣 不着用で』なんて、わざわざ指示してこないでしょ。神とか敵とか戦いとか、そういう楽しくない話じゃなくて、何てことのない……戯れ言みたいな世間話だったよ。僕を呼んだのは、どっちかっていうと、アテナじゃなくて沙織さん」
「……」

確かに瞬は、アテナからアテナ神殿に来るように言われて 聖域の統治者の許に赴いたにもかかわらず、その身に聖衣をまとっていなかった。
瞬は、普段着――聖域での正式な・・・普段着というべきか――何よりも動きやすさを重視した、丈の短い貫頭衣を身に着けていた。
現代の文明人のセンスで表現するなら、ミニのワンピース。
この手の服は、瞬が身に着けるから目の保養になるのであって、ごつい体格の むさくるしい男たちが その格好で聖域を闊歩しているのは公害以外の何物でもないと、氷河が普段から放言して はばからない、いわゆる修行服。

アテナの許に赴く際に聖衣を身に着けなくていいということは、すなわち『ブラックタイ着用に及ばず』ということである。
瞬を呼びつけたアテナの用件が、ごく私的な、片肘を張らなくていいような話だったというのは、おそらく事実なのだろう。
僅かに緊張させていた肩から、氷河は力を抜いた。
瞬が、そんな氷河の隣りに、腰をおろす。

「ずっと前に、王子様とお姫様が出てくる映画を観たの」
「……なに?」
ふいに瞬が口にした話題が あまりに想定外のものだったので、虚を衝かれ、氷河の反応は一瞬 遅れた。
「ううん。王子様と、お姫様と、もう一人、王子様でも何でもない普通の――平民っていうか、庶民っていうか、普通の男の人が出てくる映画」
「――」
氷河には唐突と思われる話を――瞬も、それは自覚はしているのだろうが――それでも瞬は さらりと続けた。
なぜ今 そんな話が出てくるのか、その訳を知るためには、瞬の話を最後まで聞くしかなさそうだと考えた氷河が顎をしゃくって 瞬に話の先を促し、瞬は ごく浅く頷いて、そんな氷河に答える。

「ストーリー自体は他愛のないものだったよ。それまで お城で何不自由なく暮らしていた お姫様が お城を出て、自分の流儀の通じない下々の暮らしを経験する。いろんな人に会って、お城の中にいたら経験できなかっただろう いろんなことを経験して、いろんなことを知って、お姫様は人間的に成長していく――そんな話。その映画のラスト近くで、お姫様は悪い魔女に魔法をかけられて深い眠りに落ちてしまうの。魔法をかけられてしまった お姫様を目覚めさせることができるのは、真実の愛の口付けだけ」
「驚くほど ありがちな話だな」
極めてオーソドックスな その展開に、氷河は つい瞬の話の腰を折ってしまったのだが、氷河の正直な感想を当然のものと思ったのか、瞬は氷河の横槍に 気を悪くした様子は見せなかった。
むしろ、小さく微笑して、話を続ける。

「うん。だけど、お姫様のフィアンセだった王子様がキスしても、お姫様は目覚めなかったんだ。お姫様に恋してた もう一人の、王子様でも王様でもない庶民の男の人がキスしたら、お姫様は目を覚ました」
「そこは 少し新しいか」
瞬が記憶に留めているほどの作品を『ありがち』の一言で片付けるわけにもいかない。
映画ではなく 瞬に敬意を表して、氷河は、物語の展開に新たな評価を加えた。
瞬の微笑が、僅かに苦笑の色を帯びる。

「別に、王子様に邪心があったとか、王子様がお姫様を愛してなかったとか、そういうんじゃないんだよ。王子様は誠実に 心から お姫様を愛してた。王子様でも何でもない庶民の男の人もとってもいい人で、お姫様が大好きだった。魔法をかけられて眠りに就くまで、お姫様は二人の間で迷ってたんだ」
「迷うのは、二人の男のどちらにも恋をしていないからだろう。本当に恋をしているのなら、普通は迷わない。自分が誰に惹かれているのか、考えたり迷ったりする前に 感じるはずだ。同時に二人の相手を同じ程度に恋しているなんてことは ありえない」

自分の考えが間違っているかもしれないなどと疑いもせずに、氷河が断言する。
氷河の主張に、瞬が異議を唱えなかったのは、『氷河なら そうなのだろう』と思ったからだったのか、瞬自身がそうだったからなのか。
ともかく、瞬は、氷河の主張に 素直に頷いた。
「そうかもしれない。どっちにしても、魔法で眠りに就いている お姫様に意識はない。それが真実の愛の口付けだと決めたのは お姫様の意思じゃない。神か、天か、運命か、そんなもの」
「――」
「ファンタジーなんだからって言えば、それだけのことなんだけど……。もし、『これが あなたの真実の恋で、あなたの真実の恋の相手は この人です』って、人間の意思とは関係ないところで決められてることって ありえるのかなぁ……って、思ったんだ。恋とか愛とか、そういうことで色んな問題が起こるのは、運命の恋の相手じゃない人を好きになっちゃったからで、神様が定めた運命の恋の相手となら、人は必ず幸せになれるのかもしれない――とか、そんなこと」
「瞬」

自分が恋している相手が誰なのかが わからないような人間が存在することなど ありえない――と思っていた氷河には、そんなリアリティのないファンタジー映画を真顔で語る瞬の意図が わからなかったのである。
設定がファンタジーのそれであろうが、スペース・オペラのそれであろうが、物語の登場人物の心情に現実味のない作品は、氷河には駄作以外の何物でもなかった。
「何が言いたい。俺たちの恋が、真実の――運命の恋か、そうでないか?」
瞬に問う口調が、つい刺々しいものになる。
瞬は、力なく首を横に振った。

「そうでないことは わかってるよ。僕も氷河も男なんだもの。神様がそんな恋を奨励するはずないでしょ」
「瞬!」
それが瞬の言いたいことなのだろうか。
そんなことが言いたくて、瞬は詰まらぬ映画の話を持ち出してきたのか。
だとしたら瞬は、心無い誰かのせいで その心を乱されているのだと、氷河は思った。
瞬が、今更 そんなことで胸中に迷いを生じることなど あるはずがないのだから。

「それを決めるのは俺たちだ」
神も天も運命も、その力が及ぶのは、人間が この世界に生を受けるまで。
その後のすべては、それぞれの人間が、それぞれの考えで、それぞれに責任を持ち、自分の意思で決めること。
神も天も運命も お呼びではない。
――というのが、氷河の信念にして持論だった。
であればこそ、自分は、女もとで 人間のために戦うこともできているのだということが。

「まさか、沙織さ――アテナが、それで文句を言ってきたわけではないだろな」
「ううん。そこまでは……。アテナは、人と人の間にある愛情に関しては、びっくりするくらいリベラルだもの。アテナは、愛情や思い遣りから出たことなら、何だって許しちゃうようなところがある。アテナが嫌いなのは、そこに愛がないことでしょ」
その通りである。
そうなのだと、氷河は思っていた。
だからこそ、彼は、アテナに従って、アテナの聖闘士としての戦いを続けてきた。
だが、『そこまでは』とは。

瞬が人間として全く自然でない心を持つ オヒメサマの話を持ち出してきたのは、どう考えてもアテナの呼び出しのせいである。
そして、氷河の知っているアテナは、人間の中に生まれる愛情や恋情について非難したり、文句をつけたりする神ではない。
そんなアテナを知っているからこそ、氷河は、瞬が何を言おうとしているのかが わからなかった。

「ならなぜ、急にこんな話を」
「そんな恐い顔しないで。大した意味なんかないよ。氷河が僕のキスですぐに目覚めてくれたから、嬉しかっただけ」
「本当にそれだけか」
「本当にそれだけ」
「……」

本当に“それだけ”であるはずがない――と、氷河は思ったのである。
氷河は瞬を心から好きだったが、瞬を心から信じてはいなかった。
瞬は、人に心配をかけないため、人に迷惑をかけないためになら、平気で――そうすることが自然で当然のことなのだと信じているように平気で――嘘をつく。
そうすることのできる人間なのだ。
アテナの影響というわけでもないのだろうが、愛や思い遣りから出たことであるならば、小さな虚言を言う程度のことは悪事ではないと、瞬は考えているようだった。
瞬は嘘を言っている。
おそらくは、そうすることが、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間であり恋人でもある男のためなのだと信じて。

そういう瞬に、本当のことを白状させるのは難しい。
“愛”という鍵をうまく使わないと、瞬の本心の入った箱の蓋はなかなか開けることができない。
どうやって瞬の心の蓋をこじ開けてやろうかと、その方法を模索して、氷河は探るような視線を瞬に向けた。
が、瞬は、自分が切り出した話を それ以上続けたくなかったらしい。
氷河の視線を避けるようにして その場に立ち上がり、一度 自分の足元に視線を落としてから作った笑顔を、瞬は氷河に向けてきた。

「行こ。アテナとの話が済んだら石切り場に来いって、星矢たちが言ってたでしょ。ウエイト・トレーニングを兼ねて、石切り場に転がってる邪魔な石を片付けようって」
「ん? ああ。どうも、聖域の石工たちは、段取りが悪いというか、後のことを考えないというか、必要な石を切り出したら、使わない石を その辺りに放っておくらしくて、次に来た者たちが石を運び出す作業の邪魔になっているらしい」
「今更、僕たちにウエイト・トレーニングも何もあったものじゃないような気がするけど……。むしろ、段取りってものを教えてあげた方が、あとあとのためになるよね」
「その段取りを実践させるには、まず現在の滅茶苦茶な状態を整備して基盤を整えてやらなければならないだろう」
「そっか。じゃあ、それは有意義な仕事だね。行こ」
「……」
うまく口車に乗せられてしまったような気がしたのだが、その作業は必要なものだと 瞬に言ってしまったのは、他ならぬ氷河自身である。
差し出された瞬の手をとって、氷河は仕方なく その場に立ち上がった。






【next】