異なる次元が積み重なってできている天界の広大無辺に比べることは無意味だが、地獄もまた決して狭い世界ではない。
青い海と緑色で覆われた幾つかの大陸と無数の島々から成る地獄界は、地獄のはるか高みにある天上界から眺めている分には美しい土地だった。
神々も、おそらく、この美しい世界を“地獄”と呼ばれる場所にしているのは、そこに生きている者たちの醜さだと承知していて、この美しい世界を消滅させることまでは考えていないだろう。
そう、氷河は踏んでいた。

その美しく醜悪な地獄を治める王の気配は、天界への玄関口であるオリュンポス山のある大陸の片隅にあった。
たとえ醜悪な地獄を治める王でも、王は王。
地獄の住人たちのそれとは全く違う特別な気配は、地獄の腐敗した空気に紛れることなく明瞭に、王の居場所を氷河に示してくれた。
その気配を目指して、氷河は、生まれて初めて下界に下りていったのである。

地獄の王の城は、驚くほど こじんまりとした建物だった。
天界の神々の神殿とは比べようがないのは当然としても、アテナ神殿内にある氷河の部屋の更に10分の1の広さもない、あばら家と言っていいような建物。
土台はかろうじて石のようだったが、壁ははにを塗り固めたもの。
屋根は藁なのかとまなのか判別の難しいものでかれている。
城というより、打ち捨てられた物置小屋のような、その風情。
醜悪卑小なことに価値のある地獄では、このみすぼらしさこそが王の力を示すものと言えるのかもしれないと、氷河は 無理に思おうとした。
もちろん、そう思ってしまうことは不可能だったのだが。
王の気配のある建物――小屋――の周囲には、同じような建物が7、8軒並んで建っていた。
その中の一軒だけが王の力の象徴なのだと説明づけることは、どれほど無理な理屈をこねても できることではなかったのだ。

しかし、王の気配のする小屋に入っていった氷河は、そこで、一目で王とわかる人物の姿を認めることができた。
圧倒的な、その存在感。
周囲の空気は、王の発する透明な光で輝き、王自身もまた まばゆいほどに輝いている。
地獄の王の澄んだ瞳は、地獄はもちろん天界にすら たとえられるものがないほど。
実際、氷河は、澄み切った王の瞳を『これが地獄の王の瞳なのだ』と思うことしかできなかった。
アテナの言葉通り、地獄の王の姿は、完全に氷河の好みに合致して 嫌味なく整っており、可愛らしい少年の姿をしていた。
身に着けている衣装は 住まいと同様みすぼらしいものだったが、とにかく、地獄の王が美しく高潔な心の持ち主であることは、疑うことが罪に思えるほど 確かな事実だった。
だから、氷河は、地獄の王の前に素直に跪くこともできたのである。
この王の前にあっては、“天界からやってきた神の使い”という特権など、どんな意味も権威も有していないと、思わないわけにはいかなかったから。

「御尊顔を拝する栄誉に浴し、光栄に存じます。地獄の王よ。天界より危急の用があって まいりました。私は――」
地獄の王は、従者らしき少年と粗末な木製の卓に着いていた。
石も木も敷かれていない土のみの床に膝をつき、氷河は、自らに課せられた職責を、至って真面目に、かつ作法にのっとって果たそうとしたのである。
アテナ以外の神々が、腐臭漂う醜悪な場所と評していた地獄は、確かに天界のように神聖犯さざる秩序は感じられなかったが、話に聞いていたほど悲惨醜悪な場所にも思えなかった。
地獄を覆う空気も清澄とはいえなかったが、息ができないほどに濁り淀んでいるわけでもない。
それどころか、地獄の王の周囲の空気と光は、氷河には 天界のそれよりも美しく快いものに感じられた。
この王に、『彼の治めている国は地獄だから』などという理由で無礼を働くことは許されない。
氷河は、そう思った――そう感じたのである。

礼を尽くして地獄の王の前に跪いた氷河に対して無礼を働いたのは、どういう権利があってのことなのかはわからないが、地獄の王と同じ卓に着いていた王の従者らしき子供だった。
「なんだよ、こいつ。勝手に ずかずか人んちに入ってきやがって。瞬、知ってる奴か?」
黒い髪と瞳をした従者が、品位の感じられない乱暴な口調で、氷河にではなく この国の王に尋ねていく。
自分がどういう立場の者なのかを名乗ろうとしていた氷河の言葉を遮ったのは、王にその質問を発した当人である。
勝手にずかずか 入り込んだと、無礼な従者は言うが、それは取次ぎの職責を負った者の姿を見付けられなかったゆえの、致し方ない仕儀。
氷河とて、できることなら 作法にのっとった形で 王への謁見を申込みたかったのだ。
従者の言い草に、氷河は少なからず憤りを感じた。

「知らない人だけど……誰かと人違いしてるみたい。ジゴクのオウさん……?」
「ジゴクのオウさんって何だよ。ジゴクって、悪いことした奴が死んだら その罰として落とされる、あの地獄のことか? 人違いにしても、失礼な奴だな。つーか、こいつ、アタマおかしいんじゃないか。おい、にーちゃん」
王が氷河を“知らない人”と断じると、従者の態度は一層横柄なものになった。
氷河は、自分が何者で、誰の命令によって何のために この世界にやってきたのかということを、まだ説明し終えていなかった。
だから、女神アテナの使いに対する彼の無礼は、まだかろうじて我慢することができた。
氷河が我慢できなかったのは――というより、驚き呆れたのは、地獄の王の従者の無礼ではなく、その発言に対してだった。
自分が住んでいる場所が地獄だと知らずにいるとしか思えない その言葉、地獄と冥界の区別もついていないらしい従者の無知に、氷河は呆れ果ててしまったのである。

「死んだ者が行くのは冥界だ。そこで生前の罪は裁かれるが、冥界は冥府の王ハーデスが支配する秩序ある世界だ。この地獄と一緒にするな。貴様がいる この世界こそが地獄、この世界だけが無秩序な世界なのだ」
「ここが地獄って、俺たちを勝手に殺す気か。馬鹿も休み休み言え!」
やたらと無礼で威勢のよい その子供は、本当に地獄と冥界の区別がついていないようだった。
欲望と罪と醜悪と無秩序に満ち、正しく清らかな者が正当に評価されず、野蛮な力を持つ者が 正しい者を虐げるような理不尽が まかり通る世界を地獄と呼ぶのだということ。
つまり、天界でも冥界でもなく、ここ・・こそが地獄なのだということを。

地獄の王の従者の無知と無礼に、氷河はもちろん 良い気分ではいられなかったのだが、彼の はなはだしい無知は、彼がまともに相手をする価値のない者だということを、氷河に教えてくれるものではあった。
なので、氷河は、王の従者を心置きなく無視し、直接 王に語りかけることにしたのである。
「王よ。この無礼な者を黙らせていただきたい。いちいち無知な横槍を入れられたのでは、話を進めることができない」
「どっちが無礼だよ! ここは瞬の家だぞ。瞬に断りなく入り込んでくる方がよっぽど無礼だろ!」

王に沈黙を命じられる前に、またしても 無礼な従者が横から口を挟んでくる。
その魂の清らかさを疑うべくもない地獄の王が、
「星矢。初めて会った人に そんな喧嘩腰はよくないよ。この人がどうしてここに来ることになったのか、事情を聞いてみればいいだけのことでしょう」
と、彼の従者をたしなめてくれなかったら、氷河は黒髪の無礼者に、王の許可も得ずに その無礼への懲罰を加えてしまっていたかもしれなかった。
王にたしなめられて、さすがに無礼な振舞いを続けていられなくなったのか、王の無礼な従者が肩をすくめて黙り込む。

無礼な従者の名前は星矢。
地獄の王の名は瞬。
二人の名前を念頭に置いてから、氷河は改めて、地獄の王の前に再度こうべを垂れたのである。
「まず、私が王の住まいに許可を得ずに入ることになったのは、王への取次ぎの役目を負った者が 自らの責務を怠っていたからだということを申し述べておきます。王はその怠慢な者を きつく罰した方がいいでしょう」
王への無礼を咎める従者への嫌味を込めた前置きをして、氷河は早速 本題に入った。
「私は、天界の女神アテナの使いで 王の許にまいりました氷河と申します。僭越ながら、女神アテナの代理の者として、地獄の王に、女神アテナからの御言葉を伝えさせていただきます。天界の神々は、この地獄の醜悪に立腹し、地獄と地獄に住む者たちの粛清を計画しています。『王の指導で地獄の民の言動を改めさせるように』。女神アテナは、地獄の王に そう進言するよう、私にお命じになりました。アテナの親切を無駄になさらぬよう、地獄の王の賢明な判断と対応を期待いたします」

「女神アテナの使い? こいつ、やっぱり、アタマがおかしいぞ、瞬」
王から発言の許可を得ずに またしても従者が横から口を挟み、王は再び、今度は視線で彼をたしなめた。
それから、その視線を困ったように氷河の上に移動させる。
「星矢ってば……。あの、僕は、地獄の王でも何でもなくて、ただの子供です。ここは地獄ではなくて――地上、人間界、何て言えばいいのかな。とにかく生きている人間がいる世界です。あなたは人違いをされていると思います」
「ほんと、見て わかんねーのかよ。瞬が王様なら、俺だって王子様だ」

地獄の王の従者は、どうあっても沈黙の美徳と仲良くするつもりがないらしい。
王にたしなめられて沈黙するに至ったはずの従者が、再々度 横から無礼な口を挟んでくる。
しかし、氷河は、地獄の王の従者の へらず口は、今度は さほど気にならなかった。
そんな無意味な雑音よりも 更に氷河の神経を逆撫でする言葉が、地獄の王の薔薇色の唇から発せられるのを聞いてしまったせいで。

無知は王の従者だけだと思っていたのに、どうやら 地獄の王その人までが、自分の治めている国がどういうものであるのかを知らずにいたらしい。
あるいは、彼は その事実を知らない振りをしている。
それ以上 礼儀をわきまえた神の使いでい続けることができなくなり、氷河は、王の前に跪くのをやめ、苛立ちを隠しきれていない所作で その場に立ち上がった。
そして、氷河は地獄の王を頭ごなしに怒鳴りつけた。

「しらばくれるのはやめてもらおう! おまえがこの地獄の王でなかったら、どこに地獄の王がいるというんだ。一応、言っておくぞ。俺は神ではないが、神に準ずる力をアテナから授かっている。その力で、この地獄で最も清らかな魂を持つ者の気配を探し、ここにやってきたんだ。おまえが この国の王だ。この国で最も高潔な魂を持つ者、この国で最も強い力を持つ者だ!」
「あの……」
それまで 形ばかりは へりくだっていた氷河の豹変に、地獄の王が少し怯えた表情になる。
が、氷河は、委細構わず 彼の言葉を続けた。

「俺からも忠告しておくが、天界の神々は、俺の報告を この地獄を滅ぼすか否かを決定する参考にすると言っている。大人しくアテナの忠告を聞いて、おまえの民に命じろ。ただちに、乱れた性根と生活態度を改めろとな! アテナの忠告に従わなければ、おまえは おまえが治めている国の民を皆 消し去られることになる。当然、この国の王でいることもできなくなるんだ。おまえは それでもいいと言うのか!」
「あの、でも、僕、本当に王様でも何でもないんです……。どうして そんな誤解ができるの」
「責任逃れをやめろといっているんだ! おまえがこの地獄の王だということは、一目 見れば、誰にでもわかる。それとも何か? おまえは、この地獄で、おまえ以上に清らかな魂の持ち主に会ったことがあるとでもいうのか? おまえ以上に美しい者が この地獄にいるとでもいうのか? いるなら、ぜひとも会わせてほしいものだ!」

氷河の剣幕に、地獄の王は完全に怖気おじけてしまったようだった。
王よりは 度胸の持ち合わせがあるらしい従者が、肩をすぼめるようにして――どう見ても、神の使いの剣幕を恐れているからではなく、呆れている様子で――溜め息混じりにぼやく。
「こいつのアタマがおかしいのは確実だけど、こいつ、何気に、おまえのこと褒めまくってないか?」
地獄の王は、彼の従者ほど度胸が座っていない。
叶うことなら この場から逃げ出したいと思っているのが明白な態度で、彼は その視線を気弱に下方に落とした。

「悪い人じゃなさそうだけど、でも、言ってることはおかしいよ。僕より清らかな人なんて、いくらでもいるのに……」
「それはどーか知らねーけどさあ……。まともに こいつの相手するの、危なくねーか」
「でも、もしかしたら家のない気の毒な人なのかもしれないし」
「こんな立派な服を着た奴が?」
氷河は、貴人との謁見にふさわしい濃紺の長衣を、たとえ汚らわしい地獄といえど 一国を治める王への敬意を表するために身につけてきていた。
いかにも身軽で簡素な、作業着としか言いようのないものを身にまとっている地獄の王 主従には、それがかえって胡散臭く感じられるものだったらしい。
少なくとも、王の従者の方は、“立派な服”を身につけた氷河を、完全に出自の怪しい不審人物と見なしていた。
地獄の王が 自分より“立派な服”をまとった男をどう思っているのかは 氷河にはわからなかったが、さすがは一国の王と言うべきか、彼は彼の従者よりは実のある提案を、氷河の前に提示してきた。

「あの……この世界に、善良で清らかな人たちが たくさんいることを確かめられたら、あなたの言う神様たちは、この世界を滅ぼさずにいてくれるの?」
自分の治める国を守りたいという気持ちは、地獄の王の中に、とりあえず存在するらしい。
その事実を知って、氷河の憤りは、僅かではあったが和らいだ。
気弱そうな王を、これ以上恐がらせないよう注意しながら、浅く頷き返す。
「それが事実なら、神々は、地獄を滅ぼす大義名分を失うわけだから、その可能性は皆無とはいえないだろう。しかし、良民といえる者たちが ごく少数だったなら、神々は その少数の者だけを助けて、他の地獄の住人すべてを滅ぼすだけかもしれん」
「ごく少数なんてことはあるはずないよ。僕たちは、そういう人たちを いくらでも あなたに会わせてあげることができるもの」

地獄の王――瞬の言葉を、氷河は にわかに信じることはできなかった。
ここは地獄なのだ。
自分の益しか考えず、自分以外の人間も自分と同じ心を持っていることを知らない、あるいは知っていても無視するような醜悪な罪人が ひしめき合う世界だからこそ、この世界は地獄と呼ばれているはず。
しかし、瞬は、自らの言に絶対の自信を抱いているらしく、氷河に“そういう人たちを いくらでも あなたに会わせてあげること”を さほどの難業とは考えていないようだった。
瞬は まるで楽しい遊戯に取りかかろうとしている子供のように、全く緊張感を伴わない笑顔を浮かべている。

「え……と、でも、僕と星矢は、これから落穂拾いに行かなきゃならないの。あなたに みんなを会わせてあげるのは、そのあとでもいいかな」
「落穂拾い? 何だ、それは」
「僕たちみたいに、貧しくて自分の畑がない人たちのために、畑を持っている人が、麦の穂をすべて収穫せずに わざと残しておいてくれるの。それを拾いに行くんだよ」
問われたことに答えてから、瞬は ふと気付いたように、その澄んだ瞳で 氷河の顔を覗き込んできた。
「そういうことをしてくれる人たちも、善良で清らかな人たちって言っていいんじゃないですか?」

“そういうことをしてくれる人たち”が善良で清らかな人かどうかは、“そういうことをしてくれる人たち”に直接会って、彼等の行為の真の目的を確かめてみなければ、そうと認めることはできない。
瞬の問いかけに対する答えはそれだったのだが、氷河は あえて その答えを瞬に伝えることはしなかった。
そんなことより、氷河は今は、全く別のことに驚いていたのだ。
すなわち、
「仮にも、この世界の頂点に立つ王が、人の情けにすがって生きているというのか」
ということに。
「王様だって誰だって、人はみんな、誰かに支えられて生きているんだよ」
瞬は、氷河を仰天させた その事実――事実だったらしい――を、ごくあっさり認め、頷いた。

瞬が事もなげに認めたことに、しかし、氷河は簡単に得心することができなかったのである。
地獄の王には 人の上に立つ者としてのプライドがないのか。
王でなくても――どれほど身分の低い者でも――自分が生きるために他人の力を必要としているという事実は屈辱のはずである。
“そういうこと”は実は弱者への思い遣りから出たことではなく、王に媚びへつらうことで、与えるもの以上の見返りを期待する浅ましい行為なのではないのか。
あるいは、単に、王の力を恐れて、保身のためにしていることなのではないか――。
地獄の王の言葉が、様々な疑念を氷河の胸に運んでくる。
その疑念の解明のために、氷河は、落穂拾いなる作業への同道を申し出たのだった。






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