「地獄の王と同衾することなどできない」 そう言って、氷河は瞬の親切な申し出を退けた。 瞬は、麦畑での出来事を見て、氷河を 女神アテナの使いだと信じるようになったらしく――少なくとも、普通の人間ではない、普通の人間より高次の存在だと認めるに至ったらしく――そのせいもあって、氷河の拒絶を、自分が地獄の住人であるせいなのだと思い込んでしまったようだった。 事実は決してそうではなく――氷河は決して 瞬を地獄の住人だと見下していたわけではなく、かといって、一つの世界を統べる王である瞬の申し出を畏れ多いと思ったわけでもなく――ただ、なぜか 瞬の申し出を受け入れてはいけないと感じただけだったのだが。 その事実を瞬に告げ、『なぜ そんなふうに感じるのか』と問われることを避けるため、氷河は、 「俺は眠りを必要としないものなんだ」 と告げることで、瞬の誤解の解消と、なぜか感じる危険の気配の回避を図った。 実際、氷河は、眠ろうと思えば眠ることもできるのだが、どうしても それを必要としているわけではなかった。 天界で 神々の飲食物である ともあれ、そんなふうな口上で氷河が危地を回避した翌日から、瞬は その宣言通り、幾人もの善男善女を氷河に引き合わせてくれた。 瞬の友人・隣人たちは、その ほとんどが痩せていて顔色が悪く、身に着けているものも粗末なものであることが多かった。 外見は必ずしも美しいものとはいえなかったが、氷河の感性と価値観で判断しても、確かに彼等は地獄の住人にふさわしい醜悪な心の持ち主ではなかったのである。 彼等は、自信に満ちあふれ、己れの人生に対して積極的能動的に対峙している者たちではなかった。 だが、少なくとも、他者に危害を加えることで自分の人生を豊かなものにしようなどということは考えてもいないような者たちばかりだったのだ。 そんな彼等にとって、神とは、ただ すがり 庇護を願う対象で、彼等は彼等を貧しく虐げられた存在にしておく神を、特に恨んでも憎んでもいない。 神々にとっても世界にとっても、有益な存在とは言い難かったが、有害なわけでは なおさらなく、もちろん邪悪なわけでもない。 瞬は 特に善良な人間だけを選んで 神の使いに会わせているのかと 氷河は疑ったのだが、そうでないことはすぐにわかった。 瞬の周囲には、瞬の言葉通り、非力で善良な者しかいなかった。 とりたてて有益ではないが、とりたてて有害なわけでもない。 貧しく小心で善良な者たちばかりがいる この世界を、なぜ天界の神々は地獄と呼び、あまつさえ滅ぼし去ろうと考えているのか。 徐々に、氷河は、神々の真意を疑うようになっていった。 そんな氷河が、無害で善良ではない地獄の住人に初めて会ったのは、彼が天界から地上におりてきて 数日――地獄での数日――が経った頃だった。 「おい、氷河。おまえ、これから本物の王様を見れるかもしれないぞ。王が隣りの国に戦に行くんで、この村を通るらしいんだ!」 女神アテナの使いを、図々しくも友だち扱いし始めていた星矢が、その日、そう言って 息せききって瞬の家に飛び込んできた。 「本物の王?」 それは、氷河にとって、聞き捨てならない言葉だった。 瞬こそが この地獄で最も清らかな魂の持ち主と見定めた 神の使いの判断を否定するのかと、氷河は星矢を怒鳴りつけようとした。 そうしようとした瞬間に、氷河は、自分の許に 何か嫌なものが近付いている 星矢が もたらした情報は、王の予定ではなく、王の現況を伝えるものだった。 あるいは、事実が情報に あまりに早く追いついてしまった――と言うべきか。 嫌なものが近付いてくる 「おい、家の中にいた方がいいって!」 そう言って引きとめる星矢の声を振り払って、氷河は家の外に出た。 途端に、氷河の耳に飛び込んできたのは、けたたましい赤ん坊の泣き声。 おそらく殺気だって駆けてきた馬の気配に驚き慌てた母親の心に感応してしまったのだろうが、火のついたような その泣き声は、先触れの兵の馬の蹄の音も、それに続いてやってくるのだろう兵士たちの盾や槍が響かせる音も、王の権威ですら撃砕してしまいそうな力と激しさを有していた。 その泣き声を隠そうとするかのように母親が赤ん坊を抱きしめるのと、いったんは母子の前を通り過ぎた先触れの兵の馬の前脚が宙に泳いだのが ほぼ同時。 先触れの兵は、戦場に向かう王の耳に 赤ん坊の泣き声が入らないように、その不吉な音を消去しなければならないと考えたらしい。 彼は、左の手で馬を操り、右の手に槍を構えて、泣きやまない赤ん坊を抱きしめたまま その場から動くこともできずにいた哀れな母親――瞬が先日、特に多く落穂を分けてやった あの寡婦だった――の前に戻ってきた。 彼が母子に何をしようとしているのかは一目瞭然で、そうと悟るや、氷河は母子を庇うために すぐに動いた。 もっとも、氷河が兵と母子の間に割って入るより先に、こうなることを見越していたらしい星矢が、驚くべき敏捷と力で赤ん坊ごと痩せこけた母親を炊きかかえ、まるで獲物を捕えた猛禽類のように素早く 街道脇から飛びすさってしまっていたのだが。 結果的に、氷河は、いつのまにか母子がいた場所にやってきていた瞬と 兵の間に立つことになった。 手にしていた槍を振り下ろす先を見失い 苛立った兵が、次にどういう行動に出るのかと身構えた氷河の後ろから、瞬が無防備に顔を覗かせる。 瞬の無防備に慌てた氷河に気付いた素振りも見せずに、瞬は、全く緊張感を感じさせない無邪気な声で、馬上の兵に笑顔で尋ねていった。 「王様は、今度は誰を退治に行くの? 僕、ここで王様が通るのを見ていてもいいかしら? 僕、一度 王様のお顔を近くで見てみたかったの。村の年寄りたちは そんな畏れ多いことしちゃいけないって言ってたんだけど、それくらいのことで王様は怒ったりしないよね? 王様は、僕を王様の軍隊に入れてくれないかしら。王様の軍隊に入れたら、僕は毎日 水汲みなんかせずに済んで、食べるのにも苦労しなくてよくなるんでしょう? 僕、水汲みや薬草摘みなんかより、もっと 勇ましい仕事をしたいんだ」 瞬が先触れの兵に向かって 「おまえのような貧相なガキが、兵営の厨房の下働きにだって雇ってもらえるはずがないだろう!」 自らの役目を思い出したらしい兵が、身の程知らずの子供の相手などしていられないとでもいうかのように、さっさと馬の首の向きを変える。 兵の視線が街道の先に移ると、瞬は小さく安堵の息を洩らし、近付いてくる王の軍隊になど関心もない様子で、氷河に家の中に戻るよう、視線で示してきた。 瞬が関心を抱いていないものに 関心を抱くことはできなかったので、氷河はすぐに瞬の指示に従ったのである。 近付いてくる“王”の気配だけで、氷河は既に感じ取ることができていたのだ。 これから自軍を率いて、地獄のいずこかを戦場にしようとしている王の魂は、瞬の100分の1ほどの高潔さも持ち合わせていない。 その心はひどく俗っぽい欲に満ち、その目は濁り、真の意味での力など かけらほどにも備えていないということを。 瞬の粗末な城に入る時、身なりと馬と馬具だけは豪勢な中年の男が 彼の兵を従えて道を進む姿が、氷河の視界の端に映った。 瞬と違って、心惹かれるものが何もない、ある意味では地獄の王にふさわしい淀んだ空気が、彼と彼の軍兵たちを包んでいた。 |