瞬が治めるべき世界に新たな騒ぎが起こったのは、偽りの王の出陣があった日から 更に数日が経ってからのこと。 騒ぎの原因は、またしても あの母子だった。 それでなくても痩せこけているのに、体質や心労もあってか、いよいよ 赤ん坊に与える乳が出なくなったらしく、彼女は我が子のために 山羊を飼っている村人の家畜小屋に忍び込み、その乳を盗むことを企てたらしい。 それは未遂に終わり、彼女は山羊の飼い主である男によって、村の広場に引き出された。 彼は、皆の前で、彼女の罪の裁きを求めたのである。 数日前は、王の権威さえ吹き飛ばしてしまうほどの勢いで泣き叫んでいた赤ん坊が、今日は、周囲の村人たちのざわめきにも反応せず、母親の腕の中で冬眠中のウサギやリスのように静かだった。 彼女の赤ん坊には、もはや泣くだけの体力も残っていないということなのだろう。 切羽詰まり、我が子を救いたいの一心で他人のものを盗みに入った母親の気持ちは、氷河もわからないではなかった。 同感も共感もできなかったが、その心を察することはできた。 我が子を見殺しにする罪と、他人のものを盗む罪。 二つの罪の間で迷い悩み、最終的に 彼女は後者を選んだ――ということなのだろう。 氷河に本当に わからなかったのは、それを罪と呼んでいいのかどうかということの方だったかもしれない。 「あの山羊は、俺が汗水垂らして育てた麦で贖ったものだ。毎日 餌をやり、ここまで育てたのも俺だ。それも これも、俺の子供たちに美味い乳を飲ませてやりたいがため。死にかけたおまえの赤ん坊を救うために、俺の子たちは乳を飲めずに渇いてもいいというのか? おまえは、あの山羊の飼い主じゃない。あの山羊の世話をしたこともない。あの山羊に対して、どんな権利も持っていないというのに」 飼い主の主張は尤も至極。 広場に引き出された母親は、彼に一言の反論もしなかった。 彼の言うことは正しい。 完全に正しい。 ただ、不公平ではあった。 山羊に対して どんな権利も持っていない、山羊の世話をしたこともない――というのは、彼の子供も、哀れな母親の赤ん坊も同じなのだ。 『でも、これは仕方のないことだからな。たまたま俺たちには親がいなかった。それだけのことなんだ』 以前 星矢が瞬の不遇に憤る神の使いに言った言葉を、氷河は思い出したのである。 仕方のないことだから――親が貧しいから、彼女の赤ん坊は死ななければならないのだろうか。 正当な王が王位に就いていないこと、瞬の魂の清らかさ高潔が この世界の誰にも認められていないこと――に、氷河はずっと憤っていた。 そんなことが まかり通る世界だから、この世界は神々に『地獄』と呼ばれているのだと、氷河は思っていた。 だが、今、氷河は、そうではなかったことに初めて気付いたのである。 我が子を愛しているだけの母親が罪人として責められる世界だから、どんな罪も犯していない赤ん坊が死ななければならない世界だから、ここは地獄なのだということに。 痩せこけた母親は、事ここに至って、母子して死ぬ覚悟を決めたようだった。 彼女は、既に泣く力もない赤ん坊より無力なものになっていた。 これが地獄。確かに、ここは地獄だ――。 氷河が自らに そう言いきかせた時だった。 氷河の隣りに、そこにいる気配も感じさせずに ひっそりと立っていた瞬が、突然 山羊の飼い主の前に飛び出ていったのは。 「ルツさんは悪くないんです! 赤ちゃんを死なせたくないなら、そうするしかないって、僕がルツさんを そそのかしたんです! ルツさんは、乳を分けてほしいって、ボアズさんに頼んでみるって言ったの。ボアズさんは親切で愛情深い人だから、心を込めて頼めば、きっと分けてくれるって。でも、僕が、ボアズさんは乳を分けてくれるだろうけど、それはルツさんがボアズさんが与えてくれる仕事を1週間かけて終わらせてから、労働の代価としてだろうって言ったの。その1週間が過ぎる前に、赤ちゃんは死んでしまうだろうって言ったの。慣習と約束事に固執して冷酷で融通がきかないボアズさんのせいで赤ちゃんを死なせたくないのなら、盗むしか道はないって、僕がルツさんに言ったの!」 瞬の訴えは、もちろん嘘だった。 王の進軍騒ぎ以来、瞬はルツに一度も会っていない。 瞬と出会ってから、片時も瞬から目を離さずにいた氷河は、それを知っていた。 つまり、この世界で最も清らかな魂の持ち主が、氷河の前で虚言を吐いたのだ。 それも、罪人を庇うために。 氷河は その事実に衝撃を受け、そして迷った。 はたして これは罪と呼ぶべき行為なのだろうかと。 瞬に冷酷な人間と断じられたことに、山羊の飼い主は、多くの村人の前で面子を潰されたと思ったらしい。 彼は、手にしていた太い木の杖で、瞬の右の肩を力任せに打ちつけた。 「俺のどこが冷酷だ! 俺は俺の正当な権利を主張しているだけだ!」 打ちつけられた痛みに顔を歪めた瞬を見て、氷河は悠長に迷ってなどいられなくなったのである。 正しいのは、もちろん山羊の飼い主の方だった。 だが、氷河が庇い守りたいのは、偽りの証言をするという罪を犯した瞬の方だったのだ。 「瞬!」 よけようと思えばよけられた痛みを甘んじて我が身に受け、その場に片膝をついた瞬の許に、氷河が駆け寄る。 ほぼ同時に、星矢が、山羊の飼い主に向かって、大声を投げつけていた。 「やめろ! 瞬がそんなこと言うはずないだろ! 瞬は俺を庇っているんだよ! 山羊の乳を盗めって、ルツを そそのかしたのは俺だ!」 瞬のみならず、星矢までが、多くの村人たちの前で偽りの言葉を吐く。 だが、これを罪と言っていいのだろうか。 瞬と星矢は、地獄の住人にふさわしい罪人なのか。 我が子の命を救いたいという気持ちから盗みを働こうとした母親は罪人か。 ――罪人なのだろう。 彼等は誰も。 だが、瞬の魂は相変わらず清らかで、優しく澄んだ光を放っている。 その清らかさは、むしろ、罪を犯す前より増し、強くなっていた。 それは、星矢の明るさも同様で、彼の魂もまた、瞬のそれに勝るとも劣らない強さをもって、そこに存在していた。 氷河の迷いは深まるばかりだった。 氷河は、罪の何たるか、汚れの何たるかに迷っていた。 ただ、彼は、瞬の身と心を守りたいという気持ちにだけは迷いを感じていなかった。 だから、彼もまた罪を犯したのである。 「瞬と星矢は嘘をついている。その母親に盗みを勧めたのは、この俺だ」 ただ瞬を守りたいという気持ちだけに突き動かされ、偽りの言葉を告げることで。 哀れな母親に盗みをそそのかしたのは自分だと告白する者が3人も出てくると、さすがに村人たちは、彼等の罪は、哀れな母親に盗みをそそのかしたことではなく偽証だということに気付くことになったらしい。 「ボアズさん。ここは あんたがルツに山羊の乳を分けてやって、あんたが頑固で冷酷な男でないことを証明してやるのが、いちばんいい解決策だと思うが、どうかね」 そして、村の長老らしき人物に そう言われた山羊の飼い主は、彼の助言に従うのが 最も適切な解決方法だということに賛同しないわけにはいかなかったらしい。 むしろ彼は、長老の提案にほっとした様子で、哀れな母親に その手を差し延べた。 「あ……あの……本当に?」 一瞬 希望に その瞳を輝かせた母親は、しかし、氷河に支えられて かろうじて立っている瞬の姿を認め、瞬を傷付けた男の厚意に甘えることに ためらいを覚えたらしい。 「よかったですね。赤ちゃんのために、急いで」 目許に微笑を浮かべた瞬にそう言われると、哀れな母親は その瞳を涙でいっぱいにして、一度 深く 瞬たちに頭を下げ、家に戻ろうとしている山羊の飼い主のあとを小走りに追いかけていった。 地獄の住人は、赤ん坊のための乳が出ないような時にも涙を流すことはできるのだと、氷河は不思議な気持ちで、我が子のために罪人になろうとした母親を見送ったのである。 そうしてから、氷河は、杖を振り下ろされた肩に触れるのも痛そうにしている瞬の上に視線を戻した。 「俺は癒しの力を持っていなくて……何もしてやれん。すまない」 呻くような氷河の謝罪に、瞬がゆっくりと首を左右に振る。 そして、瞬は、おそらく自らの無力を嘆く氷河のために微笑を作った。 「氷河が言う地獄の住人は、みんな、誰かを守るために悪い事をしてしまうの。悪いことだって わかってるんだよ。いけないことだって、わかってる。でも、どうしようもないんだ。自分の大切な人が、自分の目の前で苦しんでいたら、誰だって助けてやりたいって思うでしょう。氷河だって、そう思うでしょう?」 瞬の その言葉に、氷河は頷くしかなかった。 氷河の今の気持ちは、まさに瞬の言う通りのものだったから。 瞬が二度と こんな目に合うことがないように、今からでも あの山羊の飼い主を打ち据えに行ってやりたいと、氷河は思っていた。 彼は自分の権利を守ろうとしただけで、どんな罪も犯していないというのに。 瞬が、そんなことを望んでいないということは、わかりすぎるほど わかっていたのに。 「俺は、今でも、この世界は おまえが治めるべきだと思っている。おまえこそが、この世界の王だと思っている。おまえが王の地位を望まないのなら、せめて他の望みは全部叶えばいいのにと思う。なのに俺は、おまえの望みを叶えるためのどんな力も持ってはいないんだ。俺は、それがとても悲しい。俺はおまえに幸せになってほしいのに」 自身の無力への悔しさに顔を歪めた氷河の頬に、瞬がその手で そっと触れてくる。 そして、瞬は寂しそうに微笑した。 「みんな、そう思ってるの、この世界では。自分の大切な人の願いを叶えてやりたいって。その願いは 叶わないことが多いけどね」 瞬のこの寂しげな微笑を、一片の翳りもない笑顔にしたいと、氷河は心から思ったのである。 その思いが、氷河に、氷河自身にも思いがけない言葉を言わせた。 「俺が この世界におりてきて、これからもずっと――いつまでも おまえの側にいて、おまえの願いを叶える手助けをしたいと言ったら、おまえはどう思う?」 「氷河がずっと僕の側にいてくれたら、僕はとっても嬉しいよ。何となく――氷河は、僕や星矢と 魂のどこかが似ているような気がするから。僕たちはきっと、何か同じものを求めているんだよ」 瞬の言う“何か”が何なのかが、氷河にはわからなかった。 地獄など消し去ってしまった方がいいと考えていた自分の魂と、この世界に生きる人々の幸福を願う清らかな瞬の魂に 似通った部分があるという瞬の言も、すぐには信じることができなかった。 ただ、いつまでも瞬の側にいたいと願う氷河の心は真実のもので、そして、その思いは、氷河自身にも抑え難く強いものだったのである。 氷河は、瞬の側にいて、いつまでも瞬と瞬の清らかな魂を見守っていたかった。 |