「まあ、氷河にしては殊勝な心掛けじゃないの。自分だけでなく、瞬にも幸せになってほしいだなんて。恋ほど人間を変化成長させるものはないわね。素晴らしいことだわ!」 本来なら物語の最後の最後に登場するのが常道なのだろうマッキントッシュ・アテナ。 しかし、彼女は、彼女の聖闘士たちが引き起こしたトラブル解決計画に 序盤から参画できることを 至極喜んでいるようだった。 そんなアテナとは対照的に、氷河は、アテナの大絶賛を実に複雑な顔で受けとめている。 氷河としては、自分の自信喪失と迷いをアテナに知られることは、不本意だったのだろう。 アテナに文句を言うわけにもいかなかったらしい氷河は、この場をセッティングした紫龍と星矢を苦々しげに睨んできた。 瞬は、そんな氷河の後ろで、身体を縮こまらせ小さくなっている。 複数の人間が集まって一つの事業を成し遂げようとする時、最も活力に満ち 最も強い意欲を有している者が最も直近の参加者であることは 組織の常。 その場で最も明るい顔をしているのは、もちろん 女神アテナその人だった。 無責任と思えるほどに、彼女は明るかった。 女神アテナの明るさに 嫌な予感を覚えつつ、何はともあれ このミーティングをセッティングした責任者として、紫龍は議事進行の作業にとりかかろうとしたのである。 あいにく、彼が彼の仕事を実行に移す前に、開会宣言も為されていない議場で星矢が勝手に発言をしてしまったせいで、その場は 問題解決を話し合うミーティングの場から、好き勝手に自分の意見を言い合うブレーンストーミングの場になってしまったのだが。 「俺、本音を言うとさー、みんなが大仰に集まって こんなことすんのは無意味だし 馬鹿らしいって思ってるんだ。瞬は優しくて綺麗で どんな小さな不満もないなんて、んなの、ただの のろけだろ。んなこと、フツーに もてない男たちの前で言ってみろ。即行で氷河は袋叩きだ」 この会合の発起人の一人が、開口一番『こんな会合は無意味で馬鹿らしい』。 セオリーを無視した星矢の発言に 紫龍は少々頭痛を覚えたのだが、星矢が言ったことは確かな事実で、紫龍としても、その意見に賛同しないわけにはいかなかった。 「まあ……一輝の前で言ったら、氷河は瞬殺だろうな」 「そうねえ。確かに、氷河のこれは 贅沢病の一種かもしれないわね。恋人が素晴らしすぎて困っているだなんて」 からかうような口調でアテナに言われ、氷河が露骨に不満そうな顔になる。 悩みを抱えている人間の常として、彼は自分の悩みを軽々しいものだとは考えていなかったのだろう。 事は瞬の人生に関わる重大問題、それを 個人の節制で解決可能な贅沢病と同列に語られることに、彼は多大な不満を覚えたようだった。 「贅沢病を治すには、贅沢から足を洗わせるしかないだろ。こうなったら荒療治でさ、氷河の悩みの原因である瞬を氷河から取り上げちまうってのはどうだ? それがいちばん いい解決策だろ。瞬の幸せのためなんだから、氷河も我慢するだろうし」 「それは確かに、そうするのが最も 手っ取り早くて根本的な解決方法でしょうけど、瞬はそれでいいのかしら?」 「あ……」 氷河の悩み自体が寝耳に水で、今ひとつ現況を把握しきれていなかったのだろう。 突然 沙織に尋ねられた瞬は、気後れしているような視線を その場にいる仲間たちに向けてきた。 「僕は……氷河がそんなふうに思っているなんて、考えたことも――」 瞬の 答えになっていない答えに、氷河が口許を引きつらせる。 ここで瞬が一瞬の逡巡もなく『僕は 氷河から取りあげられたくない』と答えてくれれば、それだけで氷河は これまでより はるかに強い気持ちで瞬を信じることができるようになっていたはずなのだ。 いつも、どんなことでも、こうであればいいと期待していた以上のものを、惜しげもなく与えてくれていた瞬。 その瞬に、初めて期待外れのことをされるのが、よりにもよって こんな場でとは。 瞬に期待外れのことをされるのに慣れていなかった氷河の表情が、ひどく険しいものになる。 氷河のその様子を見てとって、紫龍は慌てて二人の執り成しに取りかかった。 「しかし、氷河が確かめたがっていることは、確かめようのないことだ。瞬自身、自分は氷河を好きなんだと思い込んでいるのだとしたら、真実は 瞬自身にもわからないことなんだからな。それこそ、デウス・エクス・マキーナに ご登場いただいて、瞬の心を開いて見せてもらうくらいのことをしないと」 それは不可能なことなのだから、瞬を信じるか信じないかは、氷河が自分の意思で決めるしかないことなのだと、紫龍は言おうとしたのである。 瞬を信じることと信じないこと。 そのどちらかを選べと言われたら、大抵の人間は『信じる』方を選ぶだろうと考えて。 実際 氷河は『信じる』ことを選ぶしかなかっただろう。 そうなっていたはずだった。 紫龍の発言を受けたマッキントッシュ・アテナが、横から、 「確かめる方法はないでもないけど――」 などということを言い出しさえしなければ。 「なに?」 氷河と紫龍と星矢が、ほとんど同じタイミングで、同じ言葉を口にする。 瞬は――瞬も――沙織の言葉に驚き、氷河の陰で 声もなく瞳を見開いていた。 「運命の糸というでしょう。ギリシャ神話でも、運命の三女神が人間の運命の糸を切ったり、繋いだりしていて――ストラドヴィックの絵とかで見たことがあるかしら? 人の運命というのは、最初から ある程度決められているのよ。つまり、誰の許に生まれるかという運命ね。それは、どんな人間も自分の意思で決めることはできない。もちろん、それはそれだけのことよ。その程度のこと。一度 この世界に生まれ落ちてしまえば、人間は、基本的には、自分の死期さえ自分で決めることができるのだから」 「それが瞬のほんとの気持ちと どう関係あるんだよ」 沙織の長い前置きに焦れた星矢が、脇から口を挟む。 星矢の性急を視線でたしなめて、沙織は一気に本題に突入した。 「人間の人生には、誰の許に生まれるかということの他に もう一つ、個人の意思ではどうにもならないイベントがあるわ。それが恋。恋という感情は、運命というか、天啓というか――人間の意思や理性だけではどうにもならないところがあるものでしょう。恋には人智の域を超えた運命の力が作用しているのよ。その運命を確かめられる場所があるの。自分が誰に結び付けられているのか、自分が本当に愛すべき相手が誰なのか、運命で定められたパートナーを確かめられる場所が。もちろん、そこで確かめることができるのは 今の瞬の心ではなく、瞬を最も幸せにできる人間は誰なのかということなのだけど、氷河が知りたいのはそれなんでしょう? 確かめられるわよ。行って確かめてみたい? 氷河?」 「……」 アテナに意味ありげな表情で問われたことに、氷河はすぐには答えを返さなかった。 そんな氷河の様子を見て、 「そんな場所があるなんて 信じられないという顔ね。それとも、定められた運命を知るのが恐いのかしら?」 と、アテナが皮肉げに笑って言う。 「もちろん、やめておいた方がいいと思うのよ。私は。そこで、瞬の運命の恋の相手は他にいたなんてことがわかったら、あなたもつらいでしょう。ええ、もちろん、やめておいた方が無難。あなたの今の幸福を守りたかったらね。瞬の幸せのためなんて格好をつけて、自分の幸福を犠牲にすることはないわ」 言葉では『やめておけ』と言いながら、沙織のそれは どう考えても挑発だった。 瞬の強大な力に圧倒され、自信を失い、平生の判断力まで失ってしまっている氷河が、いとも たやすく、その挑発に乗る。 「行ってやろうじゃないか。瞬の運命を確かめられるという、その場所へ」 アテナと自分の人生に挑むような目をして 氷河がそう告げるや、氷河を圧倒するほど強大な力の持ち主は泣きそうな顔になった。 「氷河! そんな、売り言葉に買い言葉みたいな子供じみたことを言うのはやめて。そんな場所あるはずないでしょう。沙織さんは からかってるだけだよ。ね、やめて」 「だとしても、ここまで こけにされて、後に引けるか」 「そんな理由で、そんな訳のわからないところに行くっていうのなら、氷河は絶対に行くべきじゃないよ。ね、氷河、わかるでしょう?」 「瞬の言う通りだ。やめておけ。その方がいい」 「おまえ、どうかしてるぞ。それは瞬を泣かせてまで しなきゃなんねーことなのかよ! 沙織さんも、詰まんねー挑発すんなよ! 今の氷河は、まともな判断力 持ってねーんだから!」 瞬の懇願に、星矢と紫龍が同調する。 彼等が この場をセッティングしたのは、氷河の望むものが瞬の幸福だったからだった。 だから、氷河の迷いを晴らしてやろうと思ったのだ。 詰まらぬ意地を張らせて、仲間の恋の破滅を招くために、アテナにお出ましいただいたのではない。 「氷河が そんなことを確かめるために、そんな訳のわからないところに行くっていうことは、氷河が僕を信じてくれていないってことだよ。そうなの? ほんとにそうなの?」 「俺は――」 氷河は、瞬に問われたことに答えられなかった。 瞬の言う通り、彼は瞬を信じていなかったから――信じられずにいたから。 「氷河……」 瞬の潤んだ瞳に抗して無言を貫く氷河に、紫龍が長い溜め息を洩らす。 そうしてから、彼は、 「氷河の贅沢病は貧困病でもあるのかもしれないな」 と呟いた。 「どういう意味だよ」 詰まらぬ意地を通そうとしている氷河に本気で腹を立て始めていた星矢が、吐き出すように反問する。 紫龍は、星矢ほどには、氷河の頑迷に憤ってはいないようだった。 「氷河は幸福でいることの贅沢に慣れていないなんだ。根が貧乏性なのかもしれん。だから、今のあり余るほどの幸せがある状態を信じられないというか、分不相応に感じているというか……。要するに、そういうことなんだろう」 「あ……」 紫龍の言葉の意味を、星矢より早く理解して、瞬が眉根を寄せる。 愛されては、その愛を失う。 そういう経験を、氷河は これまで幾度も繰り返してきた。 氷河の不信――人間を信じられないのではなく、幸福を信じられない不信――の原因は そこにあるのだと、紫龍は言っていた。 「氷河が信じられずにいるのは、瞬の心ではなく、降って湧いたような今の幸福なのかもしれん」 「なに 言ってんだよ! 降って湧いたわけないだろ! これまではそうだったかもしれないけど、瞬は違う。氷河は 散々苦労して、努力して、瞬を手に入れたんだ。運命だの乾麺だの、そんな詰まんないことで、簡単に手放すなよ!」 それでも――瞬に泣かれても、紫龍に理解を示されても、星矢に怒鳴りつけられても――氷河の決意は変わらなかったようだった。 「なら、僕も一緒に行く。一緒に行って、確かめてくる」 仲間たちの前で ひたすら沈黙を守っている氷河に、瞬が そう告げ、 「それがいいかもしれないわね。二人で、自分たちの運命を確かめてみるのが」 沙織は、すかさず それを決定事項にした。 沙織はいったい何を企んでいるのか――。 紫龍と星矢は、むしろ彼等の女神に不信の目を向けることになったのである。 沙織はもちろん、自分に向けられている不信の眼差しになど、気付いた様子も見せなかった。 「先に断っておくけど、あなたたちがこれから行く場所には、神話で語られているように運命の三女神がいるわけではないわよ。神話や昔話や妖精譚にある異界のイメージとは違うかもしれないわ。もちろん、異界ではあるのだけど――。冥界と違って、この世界から通じている道があるわけではないから、私が運べるのは、あなた方の意識だけ。何かあったら、すぐに呼び戻すわ」 「わかった」 「じゃあ、そこに二人並んで座って」 アテナが何を企んでいるにしても、それは、彼女が その企みを二人に必要なことと考えているからこそ。 そう信じることができるから、星矢と紫龍は、彼女のすることに それ以上 口出しすることはしなかった。 彼女はいつも悪気でいっぱいの女神だが、それは悪意とは趣を異にするものなのだ。 「……本当にいいの? 脅すわけじゃないけど、後悔することになるかもしれなくてよ」 悪気でいっぱいのアテナが、どう考えても脅しとしか思えない忠告を氷河と瞬に告げ、二人が頷く。 「じゃあ、いってらっしゃい」 アテナがそう言うと、氷河と瞬の身体は、石のように動かなくなった。 それで、星矢と紫龍には、氷河と瞬の心が、二人の運命を確かめられる場所に向かったことがわかったのである。 |