おまえが つらい目に会ったり、悲しい思いをしたりした時、おまえを慰めて、励まして、『それでも死ぬな』と言ってやる。 瞬の夢の中の氷河の願いは――それは おそらく瞬自身の願いだったのだろうが――その夜以降、確実に叶えられた。 瞬が厳しい修行についていく自信をなくし、つらい思いに苛まれた時、深い孤独感に襲われ、これ以上は耐えられそうにないと挫けそうになった時、そうして、それらの修行によって 我が身に備わっていく力が悲しくてならなかった時――瞬は必ず夢の中で氷河に会うことができたのである。 『自分は夢の中に逃げているだけなのかもしれない』『自分の夢の中で優しい氷河を作って、幻影の氷河に甘えているだけなのかもしれない』と思い、それは良くないことなのではないかという不安に襲われることは幾度もあったのだが、それでも瞬は 夢の中の氷河に頼らずにいることはできなかった。 瞬が すがっていくたび、夢の中の氷河はいつも、瞬には思いもよらぬ方法で 傷心の瞬を立ち直らせ、そして前進する力を与えてくれたから。 幼い頃は それでよかった。 つらいことがあれば、夢の中の氷河に優しく励ましてもらい、立ち直る。 その繰り返しを“良いこと”と思うことはあっても、優しい氷河の存在に恐れを抱くことはなかった。 だが、大人になるにつれて、瞬は自分の夢の世界に存在する氷河に 危ういものを感じるようになっていったのである。 夢の中の氷河が 本当に自分の作った氷河なのであれば、自分は自分が突き当たった壁を自分の力で乗り超えていることになる。 そうなのであれば、問題はない。 だが もし夢の中の氷河が、自分の中ではなく自分の外にあるものであったなら――たとえば、本物の氷河が本当に自分の夢の中に紛れ込んできてくれているのだとしたら――もし彼が失われてしまった時、自分はどうなってしまうのか。 瞬は、それが不安でならなかったのである。 夢の中の氷河は、瞬と同じように、そして おそらく現実世界にいるのだろう氷河と同じように、その姿も考え方も、時間の経過に伴い、大人のそれになっていた。 「僕、アンドロメダの聖衣への挑戦権をかけて、仲間と戦わなければならなくなったの。レダを倒せば、僕はアンドロメダの聖衣を手に入れて、日本に帰ることができる」 「そのレダとやらに 勝てる自信がないのか」 暗い面持ちで氷河に告げる瞬も、少し皮肉めいた目をして瞬に尋ね返してくる氷河も、既に幼い子供の姿をしてはいなかった。 氷河は背が高くなり、氷河ほどではないが、瞬自身の身長も伸びている。 丸みを帯びていた子供の頃とは違って、その体型も 6年分 大人のそれに近づいていた。 瞬には まだ少年のそれと言っていい華奢な部分が多く残っていたが、氷河は、肩幅や手足の比率はほぼ成人のそれで、あとはもう少し身長が伸びれば、完全に身体ができてしまうだろうというところまで、成長を終えている。 大人になった氷河が大人の声で問うてきたことに、瞬が答えずにいると、氷河はその口許を僅かに歪めた。 「勝つ自信があるから、戦いたくないというわけか。実に おまえらしい」 「氷河」 それが皮肉でも嫌味でもないことを、瞬は知っていた。 少なくとも、その言葉や表情ほどには皮肉でも嫌味でもない。 氷河に そんな言葉を言わせ、そんな表情を作らせてしまうのが、自分の煮え切らなさ――人と戦うことを第一義とする聖闘士にならなければならないという思いと、人と争い傷付けたくないという思いの間で揺れ動き、覚悟を決めることができずにいる自分の煮え切らなさ――だということも、瞬は知っていた。 もう長い付き合いなのである。 氷河は、泣き虫で臆病な仲間に生き延びてほしいのだ。 生き延びさせるために、彼は、わざと そんなことを言う――言ってくれる。 氷河の皮肉めいた言葉の真意はわかっていたが、瞬は、つい弁解に走ってしまっていた。 そんなことは起こらないと思いはするのだが、万に一つの可能性でも、氷河に誤解される事態だけは、瞬は絶対に避けたかったから。 「ぼ……僕は、思い上がってるわけじゃないよ。レダを侮ってるわけでもない。でも、今のレダが今の僕に勝つことは、ほぼ不可能だよ。レダは、勝ちを取りにいく気持ちが強すぎて、気持ちだけが先走りして、攻撃力が その気持ちに追いついていない。レダの心と技の間のずれは 致命的だ……」 瞬は幾度か、その点をレダに さりげなく忠告してみたのである。 しかし、レダは、それを、ライバルの意気を殺ごうとする瞬の悪意から出たことと思ったらしく、瞬の忠告に耳を傾けてはくれなかった。 瞬は、レダの心技のずれを矯正できないまま、彼と、アンドロメダ聖衣への挑戦権を懸けた勝負に臨まなければならなくなってしまったのだ。 相手はまだ一人の闘士として未熟な状態にあるというのに。 もっと強くなる可能性を有している者を、そのベストの状態に至る前に倒してしまうのは 卑怯なことのような気がして、瞬は気が重かった。 「なら、勝て。わざと負けてやるようなことはするんじゃないぞ。それは、そのレダとやらを侮辱することになる。おまえは生きて日本に帰ってきて、俺に『ごめんなさい』を言わなければならないんだ」 「うん……」 「おまえのことだから、敵に塩を送るような真似をしたんだろう? ライバルの弱点を ご親切にも教えてやった。だが、そいつは おまえの忠告をきかなかった」 「氷河って、僕のこと何でもお見通しなんだね」 「俺たちが何年 一緒に つらい修行に耐えてきたと思っているんだ。いいか、そういう素直でない奴には、一度 完膚なきまでの敗北を経験させてやった方がいいんだ。敗北を経験することで謙虚な気持ちになり、人の忠告を素直に聞こうという気になることもある。その馬鹿野郎を強くしてやりたいと思っているのなら、負けを経験させてやれ。それが本当の優しさというものだ。へたな同情だけはするんじゃないぞ。一輝との約束を果たすためにも」 「うん……」 俺たちが何年 一緒に つらい修行に耐えてきたと思っているんだ――。 氷河の言葉に、瞬は胸の中で答えた。 『6年だよ』と。 少年期・思春期の6年間。 その6年の間に、氷河は――氷河だけが、どんどん大人になっていった。 おそらくは、煮え切らない泣き虫の仲間を生き延びさせるために。 瞬は、今は、自分の不甲斐なさを嘆いている余裕はなかった。 そんなことは後まわしにして、今はただ、勝つことだけを考えなければならない。 泣き虫の仲間を守るために一人だけ先に大人になってしまった氷河のためにも、瞬は今は負けるわけにはいかなかったのだ。 「そうだね。もう一度、本物の氷河に会って『ごめんなさい』を言うために――僕は勝つよ」 もう、そうするしかない。 生き延びて、聖衣を手に入れ、日本に帰国する。 瞬が採るべき道は、もはや それ一つしか残されていなかった。 |