自分が 氷河が捜している恋人に どれほど似ているのだとしても、瞬にとって 氷河は見知らぬ他人だった。 他人の空似だと はっきり言い、他人に対する態度を貫いている者を、なぜ氷河は自分の恋人だと信じて疑わないのか。 瞬は、ハーデスの考え以上に氷河の気持ちが理解できなかったのである。 瞬が己れの職務を遂行するために氷河の許を訪れると、そのたび氷河は、あの冷たく熱い眼差しで瞬を見詰め――否、彼の瞳には もう冷たさは存在していなかった。 そこにあるのは、異様なほどの熱っぽさと、異常なほどの馴れ馴れしさだけだった。 「瞬、愛している。おまえが俺のことを忘れたなんて嘘だろう?」 「僕は、あなたに会ったこともありません」 「俺は、おまえのことなら何でも知っている。生い立ちも、癖も、おまえの夢、おまえの理想、おまえの好きな花も、おまえが誰をいちばん愛しているのかも――すべて知っている。星矢たちも待っている。帰ろう」 『おまえが いちばん愛しているのは俺だ』と確信しているように、氷河の腕は瞬の身体を抱きしめようとする。 そのたび瞬は 彼の腕を払いのけるのだが、氷河と氷河の腕は懲りるということを知らなかった。 「い……いい加減にしてください!」 「瞬。確かに俺はおまえに心配をかけ通しで、おまえが俺に腹を立てるのも仕方のないことだとは思う。だが、俺だって、好きであんなことになったわけじゃないんだ。そのことは いくらでも謝る。だから、俺を忘れた振りをするのは もうやめてくれ」 「ですから、僕は――」 氷河が害意を持った敵で、自分の命を奪おうとしている闘士なら、いくらでも反撃する術を知っている。 しかし、害意も敵意もなく、ただ 抱きしめ愛撫するためにのばされてくる手を、どうやって撃退すればいいのか。 瞬は、その方法を知らなかった。 そういうやりとりに慣れた者なら、微笑でも浮かべて、悪ふざけはやめろと たしなめることもできるのかもしれない。 だが、そういうことに慣れていない瞬は、毎回 生真面目に氷河の手から身を引き続けることしかできず――そうして瞬は、自分がいつのまにか壁際に追い詰められていることに気付いた。 「あ……」 氷河は やはり わざと自分に負けたのだと、その時 瞬は確信した。 氷河が、おそらく聖闘士の力で周囲の空気の温度を下げている。 そのせいで空気が薄くなり、瞬は自分が うまく呼吸できなくなっていることに気付いた。 氷河が瞬の両手首を掴み、瞬の身体を壁に押しつける。 抵抗できずにいる瞬の脚の間に、あろうことか氷河は彼の膝を割り込ませてきた。 「瞬。機嫌を直してくれ。本当は憶えているんだろう? おまえが俺を忘れるはずがない。俺たちはいつも一緒だった。俺は、目を閉じたままで、おまえの身体の地図を描けるくらい、おまえを知っている。どこに触れられるのが好きで、どんなふうに交わるのが好きか。どれほどの強さと速さで攻めれば、おまえが達するか」 「あ……あなたは何を言っているの! 放して! 放せ、嫌だっ」 こんなふうに動きを封じられ、立ったままで交わることを、彼の恋人は好んでいたのだろうか。 それならそれで勝手にすればいいと思う。 ただし、本物の恋人と。 昨日今日知り合ったばかりの他人に――しかも、この国に攻め込むと脅してくるような敵に――そんなことをされてしまってはたまらない。 呼吸が苦しくなっている状態で、瞬は必死の思いで声を作り、そして氷河の腕から逃れようとした。 「瞬……」 ふいに呼吸が楽になる。 いったい何が起こったのかと訝って、瞬が氷河の顔を見上げると、そこには 熱も冷たさも消えた氷河の瞳――ただ青いだけの氷河の瞳があった。 「まさか……本当に忘れているのか……?」 氷河は、今の今まで瞬を彼の恋人だと本気で信じ、瞬が彼のことを忘れた振りをしているだけなのだと、本気で思い込んでいたようだった。 呆然とした様子で、彼は瞬を見おろしていた。 彼は、彼を知らない恋人に無理強いをするつもりはないらしい。 視線を瞬の上に据えたまま、彼は瞬の身体を解放してくれた。 彼は雪の匂いがする――と、雪の匂いなど嗅いだこともないのに、その時 瞬は思ったのである。 少し頭痛がした。 |