それは飾り気のない椅子だった。 粗末な椅子と言ってもいい。 凝った彫刻が施されているわけでもなく、上質のビロードが張られているわけでもない。 材質が金属なのか、磨き込まれた木なのかもわからない。 人の心の闇を すべて吸い取ったような漆黒の椅子。 そこに座る者を縛りつけるためにあるような高い背もたれと左右の肘掛け。 そんな椅子が一脚 置いてあるだけの灰色の広い部屋。 ハーデスがなぜ 自分をそんな部屋に呼びつけたのかが、氷河にはわからなかったのである。 瞬もわかっていないようだった。 怪訝な目をして不気味な黒い椅子を見詰める二人の人間に、黒衣の神が ゆっくりと、そして静かに語り始める。 「ミノタウロスを退治したテセウスと テセウスの盟友ペイリトオスが 冥界で座った忘却の椅子の話を聞いたことがあるか。これがその椅子だ」 「忘却の椅子……?」 氷河は神々の逸話には あまり つまびらかではなかったが、その椅子の話は聞いたことがあった。 人間では オルフェウスとシーシュポスしか入って戻ってこれたことのない冥界のタルタロス。 冥府の王ハーデスを侮って、そこに侵入したペイリトオスとテセウスは、そこで忘却の椅子に捕らえられ、すべてを忘れてしまった。 数年後、ケルベロス退治のために冥界にやってきたヘラクレスによって、二人は忘却の椅子から救い出されたとか、いや、英雄ヘラクレスの力をもってしてもペイリトオスを救い出すことはできなかったのだとか、その真実の結末は知らなかったが、そういう逸話を持つ椅子が冥界にあるということだけは、氷河も聞いたことがあった。 では この椅子がその椅子なのかと、氷河は改めて、その漆黒の椅子を見おろしたのである。 なぜハーデスが その椅子の前に自分を連れてきたのか、その真意を疑いながら。 否、それは考えるまでもないこと。 ハーデスの目的は、アテナイの使者を この椅子に座らせ、無憂の国侵攻の考えを忘れ去らせることであるに違いない。 そう、氷河が思い至った時だった。 ハーデスが、氷河と、そして瞬に、思いがけないことを語り出したのは。 「瞬がこの国に来たのは1ヶ月前だ。つらいことがあって、その記憶を消すために、瞬は自ら この椅子に座った」 「……」 「余は、そんな瞬を哀れみ、瞬が自分に過去の記憶がないことを不安に思うことのないよう、2年前から余に仕えていたという偽りの記憶を瞬に与えた。そういうことだ。もし瞬が かつてはそなたの恋人だったのだとしても、瞬はその事実を憶えていない。自ら望んで――自分の意思で、瞬は己れの過去を捨て去ったのだ」 「僕が……?」 ハーデスが語った話は、氷河にとっても衝撃的なものだったが、それ以上に瞬の心を乱すものだったらしい。 自らの過去を忘れただけならまだしも、僅かに残っている記憶さえも、他人によって作られたものだったというのである。 瞬の混乱は当然のことだったろう。 それは、自分が何者であるのかを示す根拠が何もない――ということなのだから。 「そなたも この椅子に座れ。そして、この国の民となって、瞬と共に余に仕えよ。それで そなたは、そなたが恋人に忘れられた屈辱を忘れることができ、そなたの幸福を取り戻すことができるのだ」 ハーデスが何やら馬鹿げたことを言っていたが、それは全く氷河の心に響くものを持っていなかった。 恋人に忘れられた屈辱とハーデスは言うが、氷河は、自分が瞬に屈辱を味わわされたとは思っていなかった。 むしろ、ハーデスのその言葉に傷付いているのは、恋人に屈辱を与えた(とハーデスに言われた)瞬の方。 瞬の瞳に浮かんだ罪悪感でできた翳りにこそ、氷河の心は動じることになったのである。 「瞬は……俺が戦いで死んだと思ったんだ。共に戦っていたのに、救えなかったと」 「そう、大切な人を失ったと言っていた。親しい者たちに心配をかけたくなかったのか、聖域の外れで人目を避けて、一人で泣いていた。余は、悲しみに打ちひしがれ 生きる力さえ失っているような瞬の様子を哀れに思い、瞬を余の国にさらってきたのだ。この忘却の椅子が瞬を救うことになるだろうと考えて」 「俺は死ななかったんだ。重症を負って、聖域に帰ることができず、帰った時には、既に聖域から瞬の姿は消えてしまっていた。聖域と仲間たちの前から忽然と消えてしまった瞬の行方を、誰も知らなかった。誰にも見付け出すことができなかった……」 氷河は、アテナに 彼女の神の力で探してもらって やっと、瞬がこの無憂の国にいることを つきとめることができたのである。 「この椅子に自分の意思で座った者は、失った記憶を取り戻すことはできない。この国には、そういう者たちが大勢いる。つらい記憶を忘れ、忘れることによって幸福を手に入れた者たちが。あの三巨頭もそうだ」 「三巨頭――彼らも……?」 憂いのない国と呼ばれているハーデスの国。 では、この国は、そういう仕組みで作られてた国だったのだ。 この国は、憂いのない地上の楽園なのではなく、不幸だった者たちが つらい過去を捨て去った悲しい場所。 そこに住む住人たちは楽園の住人なのではなく、自らの心を捨て去った哀れで空虚な者たち。 そして、自分が そんな哀れな人間の一人であるという事実に、瞬は呆然とした。 身体と心の重心を見失い、その場に崩れ落ちそうになる。 そんな瞬の身体を支えてくれたのは 無憂の国の王ではなく、貪欲で好戦的な人間。 ハーデスは、人間たちとの間に距離を置いたまま微動だにせず、哀れな人間たちを 無感動な目で見詰めているだけだった。 「貴様は嘘をついている。瞬が 自分の意思でそんな椅子に座るはずがない。もし俺が本当に死んでいたのだとしても、瞬は その悲しみを乗り越えるだけの力を持っている」 「氷河……」 「おまえが自分の意思で、俺や おまえの仲間たちを忘れることを選ぶはずがない。大丈夫だ。おまえは おまえを信じていろ」 瞬の肩を抱き、その身体で瞬の心と身体を支え、氷河が断言する。 貪欲で好戦的な人間。 自分の望みを叶えるためになら平和な国に戦乱を持ち込むことさえ厭うことのない人間。 そう思っていた氷河の唇から、思いもよらないほど強い信頼を物語る言葉が 瞬に与えられる。 その言葉を聞いて、瞬は泣きたくなってしまったのである。 彼の言葉が事実だったなら、どんなにいいか。 だが、瞬には、自分に対する氷河の信頼の根拠さえ思い出すことができないのである。 なぜ 彼は これほど自分を信じてくれるのか、その理由さえわからない――思い出せない。 その事実が、瞬の胸に痛みを運んできた。 ハーデスが、氷河の信頼と 瞬の胸の痛みを嘲り哀れむように冷ややかな笑みを その目許に刻む。 「選んだのだ。瞬は、忘れることを。だが、それも これも、瞬が そなたを愛していたからこそ。そう思えば、そなたも瞬を許すことができるだろうし、諦めることもできるだろう。諦めよ。そして、そなたもすべてを忘れ、余の国で瞬と共に新しい生を――」 「確かに、瞬は俺を愛してくれていただろう。だが、俺の瞬はそんなに弱くない」 「人の心は弱い。愛する者を失えばなおさら。そなたには、そなたを失った時の瞬の深い絶望がわからぬのか」 「……」 氷河が唇を噛みしめたのは、瞬に その絶望をもたらしたのが、他の誰でもない彼自身だったから。 その事実を認めないわけにはいかなかったからのようだった。 そして、だが それでも氷河は、ハーデスの言葉を頑として退け続けた。 「それは……瞬は、悲しんでくれただろう。多くの涙を流してくれただろうとも思う。だが、瞬は聖闘士なんだ。瞬には、高い理想があって、叶えたい夢があった。信頼できる仲間もいた。一時の感情で それらすべてを捨ててしまうなんてことをするほど、俺の瞬は愚かじゃない。まして、貴様のそんな甘言に乗せられるほど、俺の瞬は弱くない」 「あ……あ……」 瞬は思い出したかったのである。 これほど自分の強さを信じてくれる人の心に応えたかった。 それが事実でなくても――かつての自分が 彼の信頼に値しないような弱い人間だったのだとしても、今は彼の信頼に応えたかった。 「なぜ思い出せないの……! 僕は本当に自分から忘れることを選んだの……胸が痛い……苦しい……」 胸の痛みが、瞬の瞳に涙を運んでくる。 氷河は、彼の恋人の強さを信じているというのに、瞬は 今、彼の前で泣くことしかできなかった。 涙ででしか自分の弱さに抗えない自分を、瞬は悲しまずにいられなかったのである。 こんな自分は、氷河の信頼に応えることなどできない人間なのかもしれない。 ハーデスの言うように、弱い人間だったのかもしれない。 そう思うほどに新しい涙が生まれ、止めることができない。 そんな瞬の涙を認め、氷河が――瞬よりも氷河の方が――苦しげな呻き声を洩らす。 それ以上 瞬の涙を見ていることに耐えられなくなったかのように、氷河は瞬を抱きしめてきた。 驚くほど強い力で瞬を抱きしめているのは氷河の方なのに、彼は まるで彼の恋人の小さな身体に すがり救いを求めているようだった。 氷河の声が、悲痛な響きを、そして 涙を帯び始める。 「瞬……瞬、俺はおまえを愛している。俺はおまえを信じている。頼む、思い出してくれ。おまえが、おまえの意思で俺を忘れようとするなんてことがあるはずがないと言ってくれ。おまえが――俺のせいで、俺の愛したおまえが この地上から消え去るなんてことはあってはならない。俺の瞬は、強くて優しくて綺麗で聡明で――俺を愛したことだけが玉に瑕と言われるほどだったんだ。そのたった一つの些細な欠点のせいで おまえがおまえでなくなるなんて、そんなことは絶対に――」 「ひどい。誰がそんなことを言ったの」 氷河を愛したことだけが玉に瑕とは、ひどい言いようである。 それは、瞬が過去を忘れる以前にも聞いたことのなかった巷説で――つまり、瞬が今 初めて聞いた、自分に対する世評だった。 |