「聖域の奴等は誰だって、そう言っている……瞬」
瞬にすがりついていた腕から力を抜き、氷河が 瞬の顔を恐る恐る覗き込んでくる。
図体ばかりが大きくて可愛らしい恋人の その臆病な仕草に、瞬は切なく微笑した。
氷河の瞳を覆う涙の膜が、瞬に瞬の使命を思い出させる。
氷河の涙は、瞬が自分の使命を全うできていない事実を示すものだった。

「氷河、泣いているの」
「な……泣いてなど」
「嘘つき」
この可愛らしい嘘つきをどうしてやろうかと、自分も涙で瞳を潤ませたままで、瞬は思ったのである。
彼がいちばん喜ぶ ご褒美と罰が何であるかを思い出して、瞬は、氷河に気付かれぬように心臓の鼓動を速めることになった。
目を閉じたままで、瞬も氷河の身体の地図を描くことができた。
どんなふうに喘がれるのが好きで、どんなふうに恥じらってみせれば、氷河を一層 猛らせることができるのか。
彼が恋人の身体を思い遣ることを忘れて獣になるタイミングまで、瞬は憶えていた――思い出してしまっていた。

「僕は、僕のせいで氷河を泣かせるようなことは絶対にしないって、決めていたの。そんなことをしたら、僕を置いていってしまった氷河が悲しむって わかっているのに、僕が自分から忘却の椅子に座ったりなんかするはずないでしょう」
「瞬……」
「僕、自分から この椅子に座ったりしなかったよ。僕、憶えてる。あの時、ハーデスは一瞬 僕に憑依して、僕の身体をあの椅子に運んだんだ」
「瞬……思い出したのか……?」
「氷河に泣かれてしまったら、思い出さないわけにはいかないよ」
「瞬……!」
まだ僅かに濡れている瞳を輝かせて、氷河が 再び瞬を抱きしめようとする。
『それはあとで』と言葉にはせずに 氷河を制して、瞬は、無憂の国の王の方に向き直った。
氷河が露骨に不満そうな顔をしたが、彼の機嫌を直す方法も思い出してしまっていた瞬は、あえて彼の不満を無視した。

「ハーデス」
この国に来て忘却の椅子に座らせられたあとに、この国の王が瞬の首に掛けてくれた金のペンダントを外して、ハーデスの手に渡す。
そのペンダントを受け取ることで 瞬がすべてを思い出したことを悟り、無憂の国の王は その整った顔を僅かに歪めた。
あるいは、彼の顔を歪めたものは、瞬が彼に返したペンダントではなく、瞬が忘れたはずの過去を思い出した事実でもなく、彼のプライドだったのかもしれない。

「あなたは僕をこの国にさらってきて、氷河を思って泣いている僕に言った。あなたも一人で寂しいって。だから、僕に側にいてくれって」
「余がそのようなことを言うはずがない。余はそのようなこと、決して言わぬ」
「うん。多分、あなたは僕を忘却の椅子に座らせるつもりでいたから――僕がすぐに忘れると思って、本当の気持ちを口にしてしまったんだろうね」
「余は……」

瞬は、自分から大切な記憶を奪ったハーデスを恨んではいなかった。
彼が、彼らしくない油断で洩らした その一言を憶えていたから。
誰にも聞かれなかったことになるはずだった その一言。
その一言を 人間ごときに憶えられていることが、神であるハーデスには たとえようのない屈辱なのだろうことはわかっている。
それでも瞬が その一言に言及したのは、ハーデスのため。
“一人で寂しい”神のためだった。

「あなたは、この椅子を使って、自分の国の民を増やした。人は誰でも、生まれたばかりの赤ん坊でない限り、つらい思い出や悲しい思い出を必ず持っている。だから、そういう人たちに、忘れることの甘美を吹き込み惑わすのは 容易なことだったでしょう。僕も、一度は 自分の意思で その椅子に座りかけたもの。でも、座れなかった。僕には氷河がいたから――仲間たちがいたから。僕は彼等を忘れるわけにはいかなかった」
「……」
「あなたの国は憂い無き国と言われている。でも、あなたの国には偽りの民しかいない。偽りの民、偽りの忠誠心、偽りの平和、偽りの繁栄――。ハーデス。人は、自分から愛さないと、愛してもらえないの」
人が――人に限らず、心を持つ者が――“一人で寂しい”者でなくなるには、他に方法はない。
自分から愛することしか。
それで同じ愛を返してもらえなかったとしても、自分から人を愛し始めた その瞬間から、人は孤独なものではなくなるのだ。

ハーデスのために、瞬は あえて その事実を口にしたのだが、彼は 瞬の助言を言下に撥ねつけた。
「余は神だ。愛さずとも愛されて当然、非力な人間たちが余に忠誠を誓うのも当然のことなのだ」
「でも、あなたのしもべたちは誰もが一度はあの椅子に座った人たちばかりでしょう。苦しみや悲しみに負けて 忘却を選んだ、弱くて悲しい人たちばかり……」
そんなふうな偽りの心しか持たない者たちに かしずかれる王は、はたして自らを誇らしく思うことができるのか。
自身を幸福な者だと思うことができるのか。
「人が過去の忘却を望むことがあるのは仕方のないことだと思う。そして、そんな人たちが あなたの国の民になるのを選んだことに、もしかしたら あなたはどんな責任を負う必要もないのかもしれない。でも、真実の友や本当に愛する人が欲しいのなら、たとえ神様でも、やっぱり自分から愛さなければならないと思うの……」

彼の心からの笑顔を見たことが一度もなかったから――瞬は、ハーデスのこれからが心配でならなかったのである。
瞬はもう、彼の側にいて 彼の孤独な心を慰めてやることはできなくなるから。
ハーデスが最も言われたくない言葉、彼が最も聞きたくない言葉を、自分が口にしているのだという自覚はあった。
最悪の場合、ハーデスは、彼のプライドを傷付ける人間の存在を この地上から消し去ろうとするかもしれない。
瞬は、その覚悟さえしていた。
何がハーデスの逆鱗に触れることなのかを、彼に仕えている間に、瞬はすっかり心得ていたのだ。

瞬のその言葉が、無思慮から出たものではなく、相当の覚悟の上に生み出されたものだということが、ハーデスには見てとれたのだろう。
不幸なことに、彼は暗愚な男ではなかった。
だから――。
「余に説教を垂れる者などいらぬ! この城から――この国から出ていけ!」
だから、彼が そう言って瞬を突き放したのは、彼の矜持のゆえだったろう。
ここで瞬の命を奪うことを――人間である瞬に哀れまれたまま、その人間の命を奪うことを――ハーデスの誇りが許さなかったのだ。

「……はい。あの……氷河がいない間、あなたが僕に優しくしてくれたことを憶えています。ありがとう」
「出ていけ! 今すぐにだ! この無憂の国を出て 修羅の巷の中に戻り、再び 悲嘆と惨苦の生涯を生き始めるがいい!」
愚かな人間に感謝の言葉など言われてしまっては、神としての最後の誇りまでが瓦解する。
鋭い声で、それでも瞬に『生きろ』と言ってくれる無憂の国の王に、一度 深く腰を折って、瞬はその部屋を、彼の城を、彼の国を――出たのである。
世界で最も美しく富める国の王。
人に哀れまれることに耐えられない孤独な王の誇りに 痛ましさを覚えながら。






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