天上界では、地上の人間たちの傲慢と醜悪を憂う神々が増えていた。 人間たちは神々に庇護されている者であるにもかかわらず、神々を祀り敬うことをせず、我欲に走り、謙虚の気持ちを忘れている。 人間たちの傲慢を このまま捨て置けば、いずれ 地上は デュカリオンの洪水以前の醜悪な世界を再現することになるだろう。 この事態を打破する方法はないものか、打破できる神はいないのか。 強大な力を持つ神々の中の誰かが、さほど遠くない時期に、驕り高ぶった人間たちに大いなる罰を与えることになるだろうと、多くの神々は考えていた。 その役目を自らが負おうとする神は、なかなか現われなかったが。 自分がその仕事をやり遂げてみせようと ボレアスが決意したのは、だが、彼が地上のありさまを憂えたからではなかった。 北風の神ボレアス。 金髪で、背に雪の色の翼を持つ暴風の神。 彼は、一つの海に浮かぶ船を 一度にすべて沈め、一つの大陸で実りかけた作物を すべて凍らせることができるほど強大な力を有する神だったのだが、オリュンポスの神々の大部分は、彼の力を認めてはいなかった。 彼はオリュンポス神族ではなく、オリュンポスより はるか北の地方から出た異邦の神だったから。 その強大な力にもかかわらず、神々の間では ごく低い地位に置かされている自身の不遇に、彼は不満を募らせていたのである。 ここで、オリュンポス神族の誰にもできずにいることを成し遂げれば、オリュンポスの神々も彼をないがしろにはできなくなるだろう。 彼は、そう考えたのである。 だが。 オリュンポス神族の一柱に数えられることはないといっても、神は神。 神は、『神には人間を滅ぼすことはできない』という制約に縛られるものだった。 かつて、地上にデュカリオンの洪水を起こして人類の粛清を果たした大神ゼウスは、その際、洪水から生き残ったデュカリオンに、『神は、二度と人間たちを滅ぼすことはない』という誓いを立てていた。 神が立てた誓いは、決して破られてはならない――破られることはない。 神は、不遜な数百数千の人間の命を奪うことはできても、地上に住む すべての人間を根絶やしにすることは決してできないのである。 つまり、ある神が地上の人間をすべて滅ぼそうとしたら、その神は、一時的にでも神ではないものに――人間に――ならなければならなかった。 人間の身体に憑依して、人間として、人類粛清の大事業に取りかからなければならなかったのである。 しかし、その大事業を成し遂げるには問題が一つ。 神が憑依できるような人間は限られていて、ごく稀にしか地上に姿を現わさないのだ。 地上で最も清らかな魂を持ち、もちろん、その身体も心も清らかでなければならない。 その上、その人間に憑依しようとする神は、神の魂を その身に受け入れていいという、清らかな者の承諾を得なければならなかった。 無理にその身体を支配しようとすると、神の魂と 清らかな者の魂が 人間の身体の中で相争い、最悪の場合、清らかな者の命を奪うことにもなりかねない。 そうなれば、神は、神の魂を受け入れられるほど清らかな人間が再び地上に出現するまで、何百年もの時を待たなければならなくなるのだ。 はたして 今、地上に、神との融合が可能なほど清らかな人間は存在するのか。 ボレアスが、常に空にあって地上のすべてを見詰めている太陽神ヘリオスに尋ねたところ、彼はボレアスの計画を危ぶんでいる様子を隠そうともせずに、だが、『いる』という答えを返してきたのだった。 「一人だけいる。アテナイの国に。まだ10代の少年だ。早くに両親を亡くして、アテナイの神殿で育てられていたんだが、その愛らしい姿が王の目にとまり、10年ほど前、王女の遊び相手として王宮に召し上げられた。長じてからは王女の護衛を務めていて、王女も可愛がっているようだな。歳は、王女より4歳年下で、そろそろ16。名前はシュン。幼い頃には相当 苦労したようだが、その心と身体を汚れに犯されることなく、今も奇蹟のような清らかさを保っている」 「シュン――アテナイの王女の下僕か」 地位や権力を持たない者なら 「君は、本気で人間たちを滅ぼすつもりでいるのか? 人間たちは――あれはあれで可愛いところのある生き物だぞ。それに――シュンは現在の自分の境遇を、周囲の人間たちの優しさによって得たものと考え、それらを与えてくれた人間たちや運命に感謝して生きているような子だ。たやすく 君の計画に加担することはあるまい」 「俺に協力すれば、おまえだけは生き残ることができると、話を持ちかける。そうすれば、どれほど清らかな魂を持つ者でも、自分が生き延びるために、俺の言うことをきくようになるだろう」 「清らかな人間というものは、そういうものではないんだ。へたをすると、君自身が破滅することになる」 「俺は永遠の命を持つ神だ。破滅など したくてもできない」 だからこそ――破滅など望みようもない存在だからこそ――オリュンポス神族でないというだけで他の神々に認められない境遇に、自分は永遠に耐え続けなければならない。 永遠の命を持つ神には、屈辱の時が終わる時はこないのだ。 己れの力で オリュンポスの神々の優位に立つ何事かを成し遂げない限り。 オリュンポス神族ではなくティターン神族であるヘリオスも、ボレアス同様 オリュンポスからは冷遇されている。 ボレアスの憤りが わかるから――彼はボレアスに対して、それ以上は何も言わなかった。 同じ立場の仲間を案じるヘリオスと別れ、ボレアスは その足で――というより、その翼で――アテナイの国に向かった。 そして、凄まじい風の力で周囲の木々を薙ぎ倒し、多くの草花を宙に巻き上げながら、王女オレイテュイアと共に春の野に出ていたシュンの身体を掴みあげた。 その身を抱き上げた時、ボレアスは、その華奢な身体と あまりに軽い手応えに、自分は間違って少女をさらってしまったではないかと懸念したのである。 幸い、それは一瞬の杞憂だったが。 金と宝石で作られた 見るからに華やかな髪飾りをつけた王女が、翼のある神の手の中にある華奢な人間を、 「シュン……!」 と呼び、翼のある神の手の中にある華奢な人間が 地上に残された王女を、 「王女様……!」 と呼ぶ。 自分が抱き上げたものが、間違いなく、この地上で最も清らかな魂を持つ人間だという確信を得たボレアスは、もはや いかなる躊躇もなく 大きな翼を羽ばたかせて初夏の青空高く舞い上がった。 |