シュンに優しくして、その心を解きほぐし手懐ける。
シュンをさらってきた時には、それは容易なことだろうと 氷河は思っていたのである。
なにしろ、相手は、他人を疑う心を持たない人間なのだから。
しかし、まもなく氷河は、人に優しくするということは非常に困難な事業だと気付くことになった。
人に優しくするには、まず相手の価値観を理解し、相手の心情を読むところから始めなければならない。
シュンの気持ちを考えず、自分が こうされたら嬉しいだろうとか、普通の人間は そうされることを望むだろうとか、そんな考えで起こした行動は必ずしもシュンを喜ばせるものではなかったのだ。

神殿の中で最も広く豪奢な家具の揃っている部屋を与えても、シュンは喜ばなかった。
かえって気後れして、質素な部屋を求めてきた。
宝石や上等の衣装を贈っても、シュンは喜ばなかった。
シュンは、むしろ、野に咲く素朴な花を好んだ。
どんな義務もなく怠惰に過ごせる時間を、シュンは喜ばなかった。
逆に、世話になっているのだから何か仕事をしたいと、シュンは言ってきた。
仕方がないので、小間使いのような仕事を与え、シュンがその仕事を片付けるたび、いたたまれない気持ちになった氷河が『すまん』と言うと、シュンは困ったような表情を浮かべる。
なぜ そんな顔をするのかと尋ねると、シュンは遠慮がちに、『すまん』と言われるより『ありがとう』と言われる方が好きだと、氷河に告白してきた。

しかし、それは氷河には言い慣れていない言葉だったので、氷河はなかなかシュンに その言葉を与えてやることができなかったのである。
なるべくシュンを喜ばせたかったので、氷河は懸命に努めたのだが、『ありがとう』という言葉は 自然に口をついて出てくるような言葉ではなかった。
少なくとも、氷河にとっては。
シュンは驚くほど自然に その言葉を多用できていたので、それは慣れの問題であるらしい。
人間はもちろん 花にも陽光にも雨にも風にも感謝しながら日々を過ごしているシュンとは違って、これまで自分は何かに感謝したことがなかったのだと、『ありがとう』という言葉とシュンによって、氷河は気付かされたのである。

そんな日々、そんな時間を積み重ねるうちに、やがて氷河は知ることになったのだった。
シュンが最も喜ぶこと。
それは、自分が喜ぶことなのだと。
氷河が何事かで喜んでみせると、シュンはいつも その倍も嬉しそうな顔になり、氷河を明るい眼差しで見詰め返してくれた。
すると、氷河も嬉しくなる。
氷河がシュンの価値観を知り、その心を読むことができるようになるにつれ――氷河がシュンに優しくできるようになるつれ――、世界の北の果てにあるボレアスの神殿は 寒く沈鬱な神殿ではなくなっていった。
シュンを北の果てに さらってきてから1ヶ月が過ぎる頃には、目を合わせると二人の口許には自然に笑みが浮かぶようになっていたのである。

そして、おそらく氷河の苦心は報われたのだ。
日の出と共に起き出すのが常のシュンが なかなか神殿の主の許にやってこないことに不安を覚え、氷河がシュンの部屋に赴いた その日、思い詰めた目をして寝台に座っていたシュンが、自分から、
「僕、氷河のためにどうすればいいのかを知りたい。僕に何ができるの。氷河、教えて」
と、氷河に言ってきたのだから。






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