シュンにそう告げられた時、氷河は、自分が その言葉を喜んでいるのかどうかが、自分でもわからなかった。 ついに この時がきた。 自分はついにオリュンポスの神々に優越した存在になることができるのだと歓喜したのかどうかが。 ただ、シュンに上手に優しくできるたび嬉しくて、すっかり当初の目的を忘れかけていた氷河に、シュンのその言葉が、以前の緊張感と紆曲した心情を思い出させることになったのは 紛れもない事実だった。 今日はどんなふうにしてシュンを喜ばせてやろうか。 どうすれば、シュンは笑ってくれるだろう。 そんなことばかりを考えて過ごすようになっていた氷河の心に、シュンを疑う心が蘇ってきたことは。 氷河には口にするのが難しい『ありがとう』を いともたやすく言えてしまうシュンは、『氷河のためにできることをしたい』という決意も、ごく軽い気持ちで為すことができてしまうのかもしれない。 その決意が 自分にどんな犠牲を強いることになるのかも考えず、シュンは いつものように気軽にそう言っただけなのかもしれない。 氷河は疑わずにいられなかったのである。 シュンが『氷河のためにできることをしたい』と申し出るのは、シュンが氷河を愛していること――その愛がどういう種類のものであれ――地上で最も清らかな者が、北風の神に愛を感じるようになったということだったから。 愛を求めるのは容易。 だが、その愛を信じることは至難。 氷河は、特に、これまで 愛というものに触れた経験がなかったので、なおさらだった。 「それは おまえにしかできないことだ」 「なに? どんなこと?」 シュンの決意の程を試すつもりで そう告げた氷河に、シュンが嬉しそうな笑顔を向けてくる。 氷河の心は、すっかり北風の神ボレアスのそれに戻っていた。 ボレアスの冷ややかな心で、彼はシュンに告げたのである。 「おまえの身体を俺にくれ。俺が翼のない人間に戻るということはそういうことだ。この身体を捨てて、おまえの身体を俺のものにする」 と。 「え……」 氷河が告げた『氷河のためにできること』は、シュンには想定外のものだったのだろう。 氷河にかけられた呪いを払うために必要なものが、自分の身体そのものだなどということは。 「僕の身体を氷河にあげて……そうしたら、僕の心はどうなるの。どこにいくの」 「消える」 「そうするしか方法はないの」 「ない」 どうして こんな冷たい声しか出てこないのか。 もっと優しい声で誘わなければ シュンは その決意を翻してしまうかもしれないのに。 自分の冷淡に、氷河は自分で驚いていた。 その冷淡の理由に氷河が気付いたのは、シュンの決意が軽々しいものでないことを知らされた時。 長い沈黙の後に、シュンが意を決したように、 「僕の身体、氷河にあげます」 と言ってきた時だった。 「なに?」 氷河は やはり、信じきれていなかったのだ。 シュンの決意の重み、シュンの優しさ、シュンの愛、シュンの心を。 猜疑心が、氷河の声を 極北の大地を覆い尽くす凍気より冷たいものにしていた。 「その代わり、僕に優しくしてくれた人たちに、僕の代わりに『ありがとう』って、お礼を伝えてください。その人たちに、僕ができなかった分も氷河が優しくしてあげて」 シュンは本気なのか。 「約束する」 「ありがとう」 本当に本気で、シュンは、つい ひと月前まで見知らぬ他人だった者のために 自らの命を投げ出そうとしているのか。 もし本気なのだとしたら、なぜ そんなことができるのか。 「僕、どうすればいいの」 「そこに……寝台に横になって、目を閉じろ」 かすれた声でシュンに命じながら、氷河はシュンの決意を 未だ信じられずにいた――理解できずにいた。 「うん」 氷河の指示に大人しく従って、シュンが寝台の上に身体を横たえ、目を閉じようとする。 目を閉じる前に、シュンは、哀れな生け贄を高みから見おろしている有翼の神に、 「氷河、これまで優しくしてくれて、ありがとう」 と言った。 何が? 何が『ありがとう』だと、氷河は苛立ったのである。 そんな言葉は、本当に優しい者に――下心を持って偽りの優しさを装う卑劣な神にではなく、本当に優しい者に――手渡すべき言葉だと。 シュンは、事実も真実も何も知らずに、そんな言葉を口にしている。 そんなシュンは、いざとなったら逃げ出そうとするだろう。 必ずシュンは逃げようとする。 そう 自らに言いきかせながら、氷河は、目を閉じて寝台に横たわったシュンの頬に その手をのばしていった。 軽く指先が触れただけなのに、シュンが身体をびくりと震わせる。 自分の身体が他人のものになり、自分の心が消えてしまうことを、どう考えても シュンは恐がっていた。 当然である。 それは単純な死ではない。 そんな経験をした人間は、未だかつて この地上に存在したことがないのだから。 だから、シュンが恐がるのは当然のこと。 そして、シュンが恐がっているということは、すなわち、シュンが氷河の手から逃げる気がないということだった。 本気でシュンが自らの心の消滅という稀有な事態に挑み耐えようとしているということだった。 やわらかく優しいシュンの肌。 「シュン。逃げるなら今だ。俺は、おまえにひどいことをする」 その頬に、唇に触れながら、氷河は かすれた声でシュンに忠告していた。 目を閉じたまま、シュンが首を横に振る。 「平気。氷河のためだもの」 誰のためでも、こんな犠牲を己れに強いる必要はない。 そんなことはしなくていいのだと、声には出さずに訴えながら、氷河はシュンに自らの身体を重ねた。 「あ……」 その重みに 驚き怯え、シュンが小さな声を洩らす。 その声に触発され、氷河は自分の身体の中に ふいに激しい熱を生むことになった。 シュンが身に着けているものを剥ぎ取り、膝でシュンの脚を割る。 そうして、氷河は、シュンの身体の、氷河自身が異様な熱を帯び始めている場所と同じ場所に手を伸ばし、シュンを刺激した。 「ん……っ」 俺は何をしようとしているのだと、氷河は自らに問うたのである。 だが、氷河は氷河にまともな答えを返してこなかった。 小刻みに身体を震わせているシュンに、逃げろ、俺を拒んでくれと祈り願うばかりで。 だが、その声はシュンには届かない。 シュンは、氷河の手を払いのけようともせずに、その身体を氷河に委ねてしまっていた。 肩、腕、脚、胸、腹、腰、脚――氷河は、シュンの身体の至るところに 手と指をのばし、唇を押し当てていったのだが、それでもシュンは逃げなかった。 切なげに身をよじって、シュンは懸命に『逃げたい』という気持ちから逃げようとしていた。 「あ……あ……氷河……」 「シュン。嫌だと言ってくれ。俺は おまえに何をするかわからない」 声は乾き かすれているのに、声以外の すべてが濡れている。 シュンの唇に唇を重ね 湿った舌で その口中を犯しながら、うっすらと汗を帯び始めたシュンの腿の感触を手の平で味わいながら、更に その奥まった場所に指を侵入させながら、その指の数を増やしながら、氷河はシュンに 逃げてくれと懇願していた。 だというのに――これまでいつも 驚くほど 氷河にも自分の運命にも従順に従っていたシュンが、今に限って 氷河の言葉を無視するのだ。 「あ……ああ、平気。氷河がすべきことをして……ああ……っ!」 シュンの決意は軽々に為されたものではなく、シュンは本気で その身体を不運な人間の幸福のために捧げようとしている。 氷河は その事実を認めないわけにはいかなかった。 そして、だから(あるいは、にもかかわらず)、氷河は それ以上 耐えることができなくなってしまったのである。 「シュン、すまん」 両腕でシュンの身体を押し開き、その身体を残酷なほど大きく折り曲げて、シュンの中に押し入る。 「あああああっ!」 途端にシュンは、ひときわ高い声でできた悲鳴を響かせた。 「シュン……シュン、痛いのか」 「いたい……あ……あ……だいじょ……ああっ!」 苦しげに眉根を歪ませながら、嘘をつけない唇の代わりにシュンが首を横に振る。 しかし、それも1、2度が限度。 シュンは 白い喉をのけぞらせ、そこから かすれた悲鳴ばかりを生むようになっていった。 それは いっそ、浅ましい野心を抱いた神の魂を その身に受け入れてしまった方が はるかに苦しくないことなのではないかと思えるほどで、氷河は自分がシュンに強いている行為を 本当に残酷なことだと思ったのである。 だが、止められない。 どんなにシュンに泣かれても、悲鳴をあげられても、氷河には もう自分を止めることができなかった。 「シュン、愛している。愛してるから、我慢してくれ」 「あ……」 その言葉を聞いた途端に――本当に その言葉がシュンに聞き取れていたのかどうかは 氷河にはわからなかったが――氷河がその言葉を口にした途端に、強張る一方だったシュンの身体からは力が抜けていった。 「ああ……あっ……」 そして、悲鳴が喘ぎ声に変わる。 「シュン、つらかったら、俺の背に掴まれ。それで 力を逃がせば、もっと楽に――」 「んっ……ん……っ」 「シュン、俺に」 「氷河……氷河……ああ……ああっ!」 『愛している』の一言で柔軟さを取り戻したのは、シュンの肢体だけではなかった。 手足同様 強張り硬直していたシュンの内部までが やわらかく優しく熱くなり、恐ろしく なまめかしい動きを始める。 シュンの内部の 自分は このままシュンに呑み込まれ、シュンの中で溶けてしまうのではないかとさえ、氷河は思った。 そうなってしまいたいと、氷河は本気で思った。 氷河が かろうじてシュンの中に取り込まれずに済んだのは、目も眩みそうなほど激しく素晴らしい この快楽が、二人が二人でいるために生じたものだということに、彼が気付くことができたからだった。 二人が別々の人間だから、二人は こんなふうに交わることができるのだ。 シュンに憑依して その身体を自分のものにしてしまえば、あるいは、自分からシュンの中に呑み込まれてしまえば、二人は もう二度と この狂喜を味わうことはできない。 一つになってしまったら、二人はもう 愛し合うことができない。 そんな虚無の中に身を投じることは、今の氷河には思いもよらないことだった。 「シュン、愛してる」 氷河がシュンの耳許に そう言う囁くたび、シュンの身体が小さく、時には ひどく大きく震え、氷河を刺激してくる。 可愛いシュン。 シュンの身体は、どう考えても、その内に氷河を受け入れることを歓んでいた。 この歓喜が自分だけのものではないらしいことに安堵して、氷河は、歓喜を受け取るだけの状態から脱し、自分自身でも歓喜を増すために動き始めた。 言葉だけでなく 肉の刺激まで与えられることになったシュンが、まるでシュンではないように 喘ぎ乱れ始める。 氷河と一つになってしまいたいという誘惑との戦いを始めることになったのは、今度はシュンだった。 氷河は、だが、その時には、その誘惑からシュンを守る術を知っていた。 「氷河……氷河……僕……ぼく、このまま溶けて消えてしまう……!」 このまま自分など溶けてしまえという凄まじい誘惑に、シュンが か弱い力で抵抗している。 「大丈夫だ。俺がおまえを愛しているから」 その言葉で我を取り戻したシュンが、再び 氷河とは別の存在になり、氷河を刺激してくる。 そんなことを幾度か繰り返しながら――二人は二人のまま、快楽の極みを味わい尽くしたのだった。 |