夫婦とその子供が2人が余裕で眠れるほど、ベッドは広かった。
同じ方向に2度寝返りを打っても、互いに全く触れずにいるのが容易なほど。
強く命じられれば逆らうことのできないシュンの立場を利用した感はあったが、ヒョウガは何とか誰も椅子で眠らずに済む状況を作り出すことに成功したのだった。
とはいえ、シュンは、何もそんなところまで逃げなくてもいいだろうと言いたくなるほど、ベッドの端の端に その身を置いていたが。
それでも、まるで奴隷同様の自分の立場に甘んじているようだったシュンを、その主人と同じ寝台の上に乗せることができただけでも 結構な進歩なのだろうと考えて、ヒョウガはある種の満足感と共に目を閉じたのである。

優雅なものではあったが、長旅のあと。
気温は、ヒョウガが危惧していたほど高くはない。
安らかな眠りの中に身を委ねることができるだろうと、ヒョウガは思っていたのである。
部屋の灯りを消し、目を閉じて、最初の5分間ほどは。

事態が そう上手く運ばないことにヒョウガが気付いたのは、彼から2ルートル近く離れたところにいるシュンが静かすぎることに違和感を覚えた時だった。
呼吸の音さえ聞こえないのに、心臓の鼓動の音が聞こえてくるような静寂。
灯りを消しても、シュンが眠っていない――眠ろうとしてさえいない――ことは明白だった。
息を殺して、シュンはヒョウガの様子を窺っている。
本当に性的奉仕をしなくていいのか信じきれずにいるのだろう。
シュンの身体は微動だにせず、シュンは呼吸の回数も意識して減らしている。
自身の気配を消そうとして――シュンは、凄まじいほどの緊張感で その身体を覆っていた。

シュンは、息を殺して怯えていた。
肉食獣が自分に気付かずに通り過ぎてくれることを祈って、草むらの中に隠れている小さな草食動物のように。
おそらくシュンは、今夜がこんな夜になるとは考えていなかったのだろう。
むしろ、シュンは、今夜 自分が 違う大陸からやってきた白人に犯される覚悟を決めていた。
その覚悟が無駄になったことで、逆にシュンは 覚悟を決める以前の恐怖と緊張を取り戻してしまったのかもしれなかった。
シュンの 痛いほどの緊張感が伝わってくる。
その緊迫した空気を振り払うように、より一層固くヒョウガは目を閉じたのだが、それは無意味な行為だった。
シュンの緊張が、ヒョウガの心身までを緊張させる。
二人は まるで 一触即発の前線にいる敵兵同士のようだった。

朝まで こんな状態が続いたら、神経がもたない。
いっそシュンの期待通りに(?)シュンの身体に覆いかぶさっていってしまえば、二人は この緊張感から解放され 楽になれるのではないかとさえ、ヒョウガは思ったのである。
そうなってもシュンは、それを自分に課せられた務めと割り切って、どんな抵抗もしないのだろう。
その様子を想像し、ヒョウガは腹を立てようとしたのである。
吐息で空気を震わすことさえ許されないような緊張より 怒りの方が、よほど心身にかかる重圧を減らしてくれるだろうと考えて。
それが間違いだった。

最初にヒョウガの脳裏に思い浮かんできたのは、シュンの澄んだ瞳。
無性の妖精のような不可思議な美しさ、清潔さ、身にまとう空気。
美しいフランス語を紡ぎ出す薔薇色の唇、甘い声。
その声で『ヒョウガ』と名を囁かれたら、どんな気持ちになるのか――。
自分は、この緊張感から逃げ出す逃げ道を間違えたと気付いた時には、もう遅かった。
ヒョウガの身体が、自分が想像したものに反応し、変化を始める。
その趣味は断じて ないと、たった今も言い切れるのに、ヒョウガの身体は、相手がシュンなら抱けるとヒョウガに主張し始めていた。
ヒョウガは、暗闇の中で頭を抱えてしまいたい気持ちになったのである。

このあからさまな肉体の変化を、もしシュンに気付かれてしまったら、自由も平等も共和制も人権宣言も何もあったものではない。
知られるわけにはいかなかった。
いや、既にシュンは気付いてしまっているかもしれない――。
そう思った途端に耐え切れなくなって、ヒョウガはシュンのいるベッドから逃げ出した。
眠っている(ことになっている)シュンを起こさないように気遣っているふうを装って、そっと静かに。
そうすることで、自分が平常心を保てずにいることを シュンに知られてしまうとは思ったのだが、そうでもしなければ、ヒョウガは自分の肉体の変化に耐えられそうになかったのだ。
欲望を覚えていることをシュンに知られてしまっても、せめて同時に、自分がその欲望を抑えようと努めたことだけは わかってほしい。
今となっては、それだけが、ヒョウガに望むことのできる ただ一つの望みだった。

ベッドを出て、室内にある長椅子に横になる。
今とここが、真冬のパリでなくてよかったと、心から思う。
今ここが真冬のパリだったなら、ヒョウガは 室内で凍え死ぬことになっていたに違いなかった。

眠った振りを続けている手前、シュンもヒョウガを止めることはできなかったらしい。
これだけ距離を置けば、シュンの緊張感は少しはやわらいでくれるのか。
浅ましい主張を始めた肉体は、その欲望を満たすことを諦めてくれるのか。
そうなってくれと祈りながら、ヒョウガは再び その目を閉じた。
今夜は 長い夜になりそうだった。






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