- II -






寝苦しいはずの長椅子で、その夜 ヒョウガが いつのまにか深い眠りに落ちていたのは、旅の疲れが出たせいではなかっただろう。
シュンと同じベッドの上にいた数10分間の緊張が、ヒョウガの身体をそれだけ疲れさせ、その緊張から逃れ出ることのできた解放感が、それだけヒョウガの心身を弛緩させたから――に違いなかった。

ヒョウガが目覚めると、そこにシュンがいた――シュンの澄んだ瞳があった。
昨夜は脳裏に思い浮かべただけでヒョウガの心身を とんでもない状態にしてしまった その瞳が、朝の光の中で見ると、ひどくヒョウガの心を凪いだものにする。
これは過酷な試練を乗り越えた者の中に生まれた余裕と自信の為せるわざなのだろうかと、ヒョウガは思ったのである。
だが、彼はすぐに その考えを放棄することになった。
そうではない。
それも この穏やかな気持ちを作った一つの理由ではあるかもしれないが、それは さほど大きな理由ではない。
変わったのはヒョウガではなく、シュンの方だった。

シュンの瞳は、昨日と今日とで全く違っていた。
同じように澄み、同じように美しいのに、そこには 昨日までの張り詰めた輝きがない。
代わりに、すべての人が待ち望み、すべての人が愛するロシアの春の陽光のような暖かさと優しさがあった。
誰もが待ち望み、待ち焦がれる春。
その春の様子をたたえたシュンの瞳の中に、奇妙な場所で朝を迎えることになった金髪の男の姿が映っている。

「旦那様は、僕をどう扱っても構わないのです。旦那様には その権利があるんです」
「そんな権利は誰にもない」
シュンには わかっているはずだった。
スリーピング・ディクショナリーになるために、欧州の政治や哲学を学んだシュンには。
わかっているのに、わかっていることとは真逆のことを口にする。
シュンは、欧州の政治思想や倫理思想とは別に、現実も知っているから。
白人が植民地の人間を 自分たちと同等の人間として見ていない現実を知っているから。
ヒョウガ自身、生粋の白人であったなら、そういう認識で この地にやってきて、どんな疑いも抱かずに 白人としての権利を行使し、この美しい生け贄に食らいついて、自分の浅ましい欲望をシュンの中に吐き出していたかもしれなかった、

「旦那様は、僕を一人の人間として認めてくださいました。僕は、僕の仕える方が 旦那様のように優しく高潔な魂を お持ちの方で、とても嬉しいです」
シュンは何か誤解をしているようだった。
それが解かずにいた方がいい誤解だということは わかっていたのだが、この先 すべての言動に高潔さを求められるのも気詰まりである。
そう考えたヒョウガは、その口許を僅かに歪めてシュンの誤解を解きにかかった。

「おまえは俺を誤解している。俺は、おまえの魅力に抗うことは難しそうだと判断して、おまえから逃げただけだ。紳士的に振舞う男が清廉潔白な男だとは限らない。臆病で弱いだけだということもあり得る」
「え……」
ヒョウガは、自分は それほど大した男ではないと正直に告白したつもりだったのだが――正直に告白しただけのつもりだったのだが――シュンは ヒョウガのその言葉を聞くと、ほのかに頬を上気させて瞼を伏せるという、ヒョウガには想定外の反応を示してきた。
自分が、言わずに済ませられるようなことまで――シュンの魅力に負けそうになってしまったことまで、馬鹿正直に告白してしまったことに 遅れて気付き、ヒョウガは自身の迂闊に舌を噛むことになったのである。

今更という気もしたが、わざと命令口調で、
「旦那様じゃなく、ヒョウガだ」
と、シュンに告げる。
シュンは嬉しそうに瞳を輝かせて、
「誠心誠意、務めさせていただきます」
と言い、それから聞き取るのがやっとの小さな声で、
「ヒョウガ」
と続けた。






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