「どういうことか、説明してもらおうか」
氷河が俺を瞬殺しなかったのは、奴に理性があったとか、俺への友情や信頼が奴を押しとどめたとか、そういうことではなかったと俺は断言できる。
絶対零度もかくやと言わんばかりの冷ややかな声、真夏の陽光さえ跳ね返す永久氷壁のように青白く凍りついた氷河の目は、どうやって俺を殺せば最も自分の気が晴れるかを思案している者の声と目だった。
中世ドイツの魔女裁判やスペイン異端審問でさえ、これほど冷たい空気の中で行なわれたかどうか。
不吉なほど明るい陽光に満ちた城戸邸ラウンジで、俺は、俺を有罪と信じる裁判官の尋問を受けていた。

「だから、朝 目を覚ましたら、いつのまにか瞬が隣りにいたんだ」
氷河は俺の答弁など聞いていない。
そんなものを聞くまでもなく、俺にふさわしい居場所は、裏切者が氷づけにされる冥界の嘆きの川コキュートスと信じているようだった。
「貴様、瞬に何をした」
「何もしとらんっ!」
「瞬が隣りに眠っているのに、何もしていない? どうせ嘘をつくなら、信じられる嘘をつけ。そんなことは 絶対にありえない」
「俺を貴様と一緒にするなーっ !! 」
一般に裁判官となる人間は、法の知識の他に、公正、廉直、寛容、忍耐、そして何より人間的な温かさといった資質を備えていることが望ましいとされているものだろう。
だというのに、今の氷河は、偏見と狭量と憤怒と冷酷の塊り。
そんな男が原告 兼 判事 兼 裁判長として、俺を断罪にしようとしているんだ。
俺の命は風前の灯だった。

「瞬、何とか言ってくれ。おまえが寝ぼけて部屋を間違えたんだな? そうだな?」
とはいえ、いくら偏見と害意によって成り立っている裁きの庭とはいえ、ここで俺が諦めて無実の罪を着ることは、それこそ 法と人権と真実を ないがしろにする行為だろう。
俺は僅かな希望にすがって、瞬を弁護側証人として召還した。
「そんなことないと思うけど……。僕、夕べは確か、紫龍の夢のことを氷河と話してて……あれ?」
「どうした」
「うん……どうしたんだろ。なんか、記憶がない……。でも、多分、紫龍の夢や――僕の夢や氷河の夢のことを遅くまで話してて、そのあと、ちゃんと自分のベッドに入ったと思うよ。眠くなるまで話してたのかな……? だから よく憶えてないのかな……?」

俺の命は瞬の証言一つにかかっているのに、だが、俺の無実を証明してくれるはずの瞬の口振りは 実に頼りないものだった。
実に頼りないというのに、
「うん。でも、とにかく今朝 目覚めたら、僕は いつのまにか紫龍のベッドにいたんだ!」
なんてことだけは、明るく きっぱり断言してのける。
途端に、城戸邸ラウンジの気温は確実に5度は下がった。
愛と憎しみという奴は無限のエネルギー源だ。
俺には全く嬉しくないことだが、氷河が俺を 瞬に乱暴狼藉を働いた不届き者と見なして 憎しみの炎を燃やし続けていれば、氷河は電力不足の日本の今夏の冷房分電気必要量を一人で まかなってしまえるに違いなかった。

日本の電力はさておくとして、たった一人の証人である瞬の記憶が はっきりしないとなると、俺は瞬に頼らず自分の力だけで 俺の無実を客観的論理的に証明しなければならないことになる。
しかし、これは難題だった。
昨夜から今朝にかけて 俺と瞬の間に起こった事柄として考えられるのは、瞬が自分で俺の部屋に来たか、俺が瞬を自分の部屋に運んだか、その二つのパターンしかないだろう。
俺は、そのどちらの方が より氷河の気に障らないパターンなのかを考えてみたんだ。
瞬が自主的に俺のベッドに潜り込んできたパターンと、俺が瞬を俺のベッドに引き込んだパターン。
考えただけで、俺の眼前にコキュートスの光景が広がる。
そのどちらでも、氷河が憤激し、俺に全責任を負わせ、俺に有罪を宣告することは確実だった。
「だが、俺は本当に何もしていないんだ……」
物的証拠はなく、状況も極めて俺に不利。
それでも、俺は訴えずにはいられなかった。

「何もしていない? ならば、なぜ瞬が貴様のベ……ベッドにいたんだ !? 瞬が自分から貴様のベッドに行くはずがないだろう! 貴様が瞬を かどわかしたか、無理に引きずり込んだのだとしか考えられない! 瞬の記憶が曖昧だということも怪しい。貴様は、何らかの方法で瞬の正気を奪い、瞬の意識がないのをいいことに、あんなことやこんなことを――」
「しとらん〜っ !! 」
氷河の言う『あんなことやこんなこと』がどんなことなのかは わからなかったが(考えたくもなかったが)、俺は全力をもって氷河の邪推を否定した。
まさか瞬の記憶が不明瞭なことまで、俺の作為にされようとは。
瞬の潔白を信じるために俺の犯意を信じようとする氷河の意思は、第四期洪積世の頃から現在まで融けずにいる永久氷壁のように強固なようだった。

氷河自身は全く価値を置いていない社会のルール、自然ではなく人間が制定した倫理道徳。
瞬はそれらの事柄を重んじているだろうと考えて、言ってみれば瞬のために、氷河は これまで耐え難きを耐え、忍び難きを忍んできた。
その忍耐が こんな形で全く無意味なものにされてしまった(かもしれない)んだ。
氷河の怒り、氷河の悔しさは、俺とて わからないわけではない。
だが、だからといって、これまで命をかけた戦いを共にしてきた仲間を 極悪人の性犯罪者と決めつけていいということにはならないだろう。
そして、だからといって、氷河の決めつけに憤る権利が俺から奪われてしまうわけでもないだろう。
氷河の決めつけに、俺は大いに憤った。
そんな俺でも、瞬が嘘をつくはずはないと、それだけは信じていられたんだが。

「ごめんね。なんだか霧がかかったみたいに 頭がぼんやりしてて、僕、夕べのこと、ほとんど憶えてないの……」
「あ、いや、俺は決しておまえを責めているわけじゃないんだ」
俺と氷河が、ほぼ同じタイミングで、完全に同じセリフを口にする。
その点では――その点でだけ――俺と氷河の意見は完全に合致しているようだった。
だが、二人の男の意見の合致は、この事件の解決には全く役に立たない。
その事実に、俺は空しい溜め息を洩らさずにはいられなかった。

と、その時。
それまで気楽な傍聴人を決め込んでいた星矢が、実に画期的な――この事態を招いた者が俺でも瞬でもない第三の可能性を示唆してきたんだ。
「なあ、あんまり嬉しいことじゃないし、考えたくもないことなんだけど、ハーデスが蘇って瞬に何かしたってことは考えられないか?」
そのパターンがあったかと、俺は色めきたったんだ。
この状況を作った犯人がハーデスなら、瞬の潔白と俺の無実が並立し得る。
氷河も満足、俺も安心。
ハーデス様々、これ以上の犯人はいない、これ以上に望ましい結末もないだろうと。
もっとも、俺の目の前で 夏の夜空に咲く花火のように明るく輝いた その光明は、
「ハーデスが瞬を紫龍のベッドに送り込むと、グレイテスト・エクリップスでも起こるというのか」
という氷河の冷たい声で、線香花火が その短い命を終えるように、儚く消えてしまったが。

そんな経緯を経て、氷河が開廷した裁判は、結局 結審成らずに閉廷した。
俺の有罪が確定しないまま。
だが、それが俺にとって幸運なことだったとは、俺には思えない。
未結審のまま裁判が閉廷した その時から、俺に対する氷河の壮絶ないじめが始まった。






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