「ああ、瞬、ここにいたのね」
その場の険悪な空気に気付かなかったのか、気付いていながら あえて無視したのか――おそらく後者だろう――彼女は勝手に自分の用件に取りかかり始めた。
「今朝、警備室から報告があったんだけど、あなた、ここ数日、まるで夢遊病患者みたいな足取りで夜中に屋敷の中を徘徊しているそうじゃないの。何日か前なんて、自分の部屋に戻らず、紫龍の部屋に入っていって、朝まで出てこなかったとか。いったい どうしちゃったの」
「夢遊病……?」

たった今 星矢が思いついたばかりの解決策を、沙織さんが知っているはずはない。
しかし、彼女は確かに その病気の名を口にした。
もしかしたら、星矢の窮余の策の思いつきは 正鵠を射たものだったんだろうか?
奇妙な符合に、俺たちは少なからず驚くことになったんだ。
星矢が、おそらくは、瓢箪から駒を期待して――最善の妥協策が真実であったなら、それに越したことはないからな――声を弾ませる。
「やっぱ、そうだったのか! 瞬、おまえ、疲れてんだよ。戦いの連続で神経がまいってんの。ちょっと休養した方がいいかもな」

望まぬ戦いを強いられて、瞬が神経に異常をきたしている。
それは決して喜ばしいことではなかったが、『瞬が明瞭な意思をもって、氷河以外の男のベッドに潜り込んだ』もしくは『龍座の聖闘士が無理矢理 瞬を自分のベッドに引きずり込んだ』という事態に比べたら、はるかに ましな事態である。
少なくとも それは解決することが可能なことであり、取り返しのつかないことでもない。
最善の解決策が事実であるならば、氷河も その事実を認め 受け入れ 納得するしかないんだ。
星矢の声が明るく弾むのは当然のことだったろう。
もっとも、星矢に その情報を運んできてくれた沙織さんは、星矢の意見に全面的に賛成というわけではないようだったが。

「あら、夢遊病の原因がマイナス方向へのストレスが原因とは限らないわよ。もし本当に瞬が夢遊病に罹っているのだとしても、これまで平気だったのに、比較的平和な今になって突然 症状が出てくるなんて おかしなことでしょう。むしろ、バトル以外の何かの原因があるのだと考えた方が理に適うわ。睡眠時遊行なんて、興奮して神経が昂ぶったまま眠れば、誰にだって起こし得る症状なんだから。遠足の前日に興奮して眠った子供が夢遊病の症状を起こした症例もあるくらいなのよ」
「それって、遠足が楽しみすぎて夢遊病になったってことか? んなことあるのかよ? 瞬、おまえ、何か嬉しいことでもあったのか?」

『瞬の意思とは関係なく起こった夜中の徘徊』は、『瞬が明瞭な意思をもって、氷河以外の男のベッドに潜り込んだ』や『龍座の聖闘士が無理矢理 瞬を自分のベッドに引きずり込んだ』より 好ましい事態である。
そして、『瞬の意思とは関係なく起こった夜中の徘徊』の原因が、『望まぬ戦いのせいで生じたストレス』ではなく『興奮して神経が昂ぶるほど嬉しい出来事』なのであれば、それはなおさら よいことだろう。
星矢に尋ねられると、瞬は、僅かに首をかしげ、改めて自らの失われた記憶の奪還に努め始めたようだった。
数分後、まだ確証は持てていないようだったが、小さく頷く。

「そう言われてみると、すごく嬉しいことがあったような気がする……」
「嬉しいこと?」
瞬のその呟きに最初に反応を示したのは氷河だった。
それまで親の仇でも見るような目で俺を睨んでいた氷河が、突如 俺の存在を忘れたように、その視線を瞬に――瞬だけに――向ける。
暫時 何事かを ためらっているようだったが、まもなく氷河は思い切ったように口を開いた。
そして、氷河は、震える声で、奴の声が震える事情を語り始めたんだ。
俺たちが そこにいることを少々 気にしているように。
奴にしては卑屈な――臆病にも見える態度で。

「あの夜――紫龍の竹林話を聞いた日の夜、俺とおまえはラウンジに残り、俺たちの将来の夢について話していたんだ。おまえは、それは平和の実現だといった。そして、俺は、おまえといつまでも一緒にいることだと言った」
「え……?」
「あの夜、俺は おまえに――おまえが好きだと告白したんだ。お……憶えているか」
氷河が、らしくもなく どもりながら、瞬に尋ねていく。
俺たちが驚いたのは、だが、氷河が らしくもなくどもっているからではなく、氷河が らしくもなく おどおどしているように見えるからでもなく、もちろん、氷河の告白――告白の告白のせいだった。

「あ……あ……」
最初は、氷河の告白の告白に ぽかんとしていた瞬が、やがて、急速に――否、瞬時に――頬を真っ赤に染める。
そうして瞬は、憶えているとも 憶えていないとも答えずに、その場で もじもじし始めた。
その様子から察するに、瞬は、自分が氷河に告白されたことを 今の今まで忘れていたが、たった今その事実を思い出した――のだろう。
瞬を夢遊病にするほど興奮させ、その神経を昂ぶらせ、あげく、その記憶を奪うことまでしてのけたのは、氷河の恋の告白だったらしい。
つまり、氷河の告白には それほどのインパクトがあったということか。
まあ、それが瞬でなくても、男に『好きだ』と告白されて平然としていられる男は少ないだろうからな。

氷河自身は全く価値を置いていない社会のルール、自然ではなく人間が制定した倫理道徳。
瞬はそれらの事柄を重んじているだろうと考えて、氷河は告白を思いとどまっているのだと、俺は思っていたんだが――実際 思いとどまっていたんだろうが、あの日、あの夜、氷河は ついに瞬に告白していたというわけだ。

「そ……それで、瞬は何て答えたんだよ?」
氷河に付き合っているわけではないのだろうが、星矢までが どもりながら、男から男への告白の顛末を氷河に尋ねる。
それは、俺や星矢にとっては他人事だが、俺たちのこれからの生活に大きな影響を及ぼしかねない重大事でもあるから――星矢の緊張は、ある意味、自然かつ当然かつ必然のことだったろう。
もっとも、星矢の緊張の質問に対する氷河の答えは、呆れかえるほど間の抜けたものだったが。

「逃げられた」
「へ……?」
「瞬は、何も答えずに逃げた」
「おい、そんなのって ありかよ〜!」
何も答えずに逃げた瞬を責めるつもりはないのだろうが、星矢は、その展開を明らかに不満に思ったようだった。
逃げ出した瞬の気持ちは わからないでもないが、瞬の逃亡に不満を覚えたのは、俺も星矢と同じ。
そういう落ちは最も詰まらない落ち――というより、そもそも落ちになっていないじゃないか。

だが、おかげで俺は、恋の告白当日から翌日にかけての氷河の言動や心情が どんなものだったのかが見えてきたんだ。
勇気を奮い起こして瞬に告白したというのに、いかなる返事をもらうこともできなかったことに、氷河はショックを受け、落胆した。
もしかしたら、己れの告白を後悔することさえしたかもしれない。
衝撃と傷心、不安や後悔。そんなものたちのせいで、心安らかに眠りの中に落ちていくこともできず、あの日、氷河は らしくもない早起きをすることになったのだろう。
いや、氷河は早起きをしたのではなく、眠れなかったんだ、おそらく。
一方、氷河に告白された瞬はといえば、氷河の告白のインパクトが大きすぎ強すぎたせいで、夢遊病の症状を呈し、あげく氷河に告白されたことを すっかり忘れてしまった――。

告白の翌日、他の男の部屋で一晩を過ごしたと、明るい目をして瞬に告げられた氷河のショックはいかばかりだったのか。
氷河は、俺に怒っていたんじゃない。
もちろん、怒ってもいただろうが、それよりも、一世一代の告白をなかったことにされて(なかったことにされたと思って)、傷付いていたんだ。
告白の夜を自分以外の男の部屋で過ごしたことを笑顔で瞬に知らされ、当然、それが自分の告白への瞬の答えだとも思った。
最善の解決策に思われた星矢の夢遊病説を、氷河ががんとして受け入れようとしなかったのは、自分の告白が 瞬にとって それほどの重荷だったことを認めたくなかったから。
しかし、防犯カメラの映像という物的証拠が出てきてしまった今、氷河は その事実を受け入れないわけにはいかなくなったようだった。

「俺のせいなのか? おまえが紫龍の部屋に――いや、夢遊病なんてものに罹ることになったのは? それほど、俺の告白は おまえの負担になったのか……」
氷河が沈鬱な声と表情で、瞬に尋ねる。
真っ赤になって もじもじしていた瞬は、氷河のその言葉に――というより、氷河が自分の周辺に漂わせている暗さと重さに 驚いたようだった。
伏せていた顔をあげ、慌てた様子で氷河に訴え始める。

「ち……違うよ! 違う! さっき、沙織さんも言ってたでしょ。興奮して神経を昂ぶらせて眠れば、誰だって夢遊病になることがあるんだって。僕、きっと……僕、嬉しくて 眠れなかったんだと思うよ!」
「瞬。無理をしなくていいんだ」
瞬の言葉が事実の告白ではなく推量だったから、氷河は瞬の訴えを そのまま受け入れることができなかったらしい。
だが、瞬は、徐々に、忘れていたことを思い出しつつあるようだった。

「瞬、氷河に好きだって言ってもらって、何て答えればいいのかわからなくて、自分の部屋に――ベッドの中に逃げ込んだの。どきどきして眠れなくて、遠足なんかより嬉しくて、でも、そのうち、僕が逃げたことを氷河にどう思われたのか、すごく不安になってきて、明日 氷河に 僕も氷河のこと好きだって言おうと思って、けど、どんな顔して そう言ったらいいのか わからなくて、恐い気持ちにもなって――。でも……でも、僕は あの夜、朝がきたら いちばんに氷河のところに行って、氷河から逃げたことを謝って、そして、僕も氷河に好きだって言うんだって決めて眠ったんだ! ほんとだよ……!」

決死の表情の瞬に涙ながらに訴えられて――事実だったなら嬉しすぎることを訴えられて――、猜疑心の強い氷河も さすがに それ以上、卑屈に拗ね続けてもいられなかったのだろう。
「瞬……!」
氷河は、低く重く、だが感極まった声で瞬の名を呼び、俺や星矢や沙織さんのいるところで、実に堂々と力いっぱい瞬を抱きしめた。
正直 俺は、沙織さんがどういう反応を示すのか、少しばかり――否、大いに――不安だったんだが、沙織さんは、あまりに堂々とした彼女の聖闘士たちのラブシーンに呆れ、驚き、毒気を抜かれてしまったらしく、氷河と瞬の不道徳を責めるようなことはしなかった。

「まあ、私としては、瞬がバトルのストレスで神経に異常をきたしているのでないのなら、氷河と瞬がどういう趣味の持ち主でも 一向に構わないんだけど」
さすがは戦いの女神というべきか、性的紊乱を極めたギリシャの神々の一柱というべきか。
いや、彼女は おそらく、それがどんなものであれ、愛というものに最大の価値と意義を認めているに違いない。
そういうことにしてしまおうと、俺は俺に言いきかせた。






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