「これはどういうことだっ !? 」
煙のように あっけなく消えてしまった奇蹟の時。
それから約10分後、瞬の姿が消えてしまったラウンジで はっと我にかえった氷河が最初にしたことは、その存在を今は信じるに至っていた朝顔の精の許に怒鳴り込むことだった。
ピンク色の衣装の小さな少女が、夏の真昼の強い陽光のせいでしぼんでしまった花の下で、氷河の怒声と剣幕に怯えたように 身をすくませる。

「私、言ってなかった? 私の魔法は、朝、私の花が開いている間しか有効じゃないのよ」
「なんだとぉ〜 !! 」
こんなチビの起こす奇跡など所詮その程度のものなのか。
なまじ幸せな夢を見せられたあとだっただけに、氷河の落胆は小さなものではなかった。
そして、その大きな落胆が激しい憤りに変わるのに、大した時間はかからなかった。
「やっぱり、朝顔の花なんて 何の役にも立たないじゃないか! おまえなんか、今すぐ 引っこ抜いてやる!」
「そ……そんなことしないで! 確かに時間に制限はあるけど、一日一回 花が咲いた時に願いを言ってくれれば、その願いは必ず叶うのよ。ねえ、長く続かなくてもいい願いを願えばいいだけのことでしょう。花が咲いている朝のうちは、私、どんなことだってできるんだから!」
「む……」

言われてみれば、その通りである。
ここで、この朝顔の精を消してしまうことは、一日一個の金の卵を一気に手に入れようとして、金の卵を産むガチョウの腹を裂いてしまったイソップ童話の愚かな農夫と同じ振舞い。
何といっても、彼女には奇蹟を起こす力が確かにあるのだ。
要するに、永続しなくても実りがあると思えるような願いを叶えてもらえばいいだけのこと。
たとえば、
「瞬が俺にキスするようにしろ」
というようなことを。

翌日 氷河が願ったその願いは、見事に(呆れたことに)実にあっさりと叶ってしまった。
本当にそんな願いが叶うのかと半信半疑で、だが期待に胸膨らませて瞬の登場を待っていた氷河の許にやってきた瞬は、そこが氷河以外の仲間たちもいるラウンジだということに頓着した様子も見せず、その上『おはよう』の挨拶もせず、むしろ それが『おはよう』の代わりだと言わんばかりに自然な様子で、自分の唇を氷河の唇に重ねてきた。
不幸にして その場に居合わせてしまった星矢と紫龍は、瞬のその大胆な行動に感謝すべきだったろう。
おかげで彼等は、セブンセンシズを会得した時の百倍も鮮やかに千倍も明瞭に、目を覚ますことができたのだから。

「しゅ、しゅ、しゅ、しゅ、瞬! おまえ、急に なに始めたんだよ!」
「何って……。僕、どうしても氷河にキスしたくなったの」
「どうしてもキスしたくなったって、おまえ……」
どうしてもしたくなったからと言って、それは突然 当の本人に断りもなくしでかしてしまっていいことだろうか。
瞬に対する氷河の気持ちを知っている星矢たちは、氷河を一方的な被害者と思うこともできなかったのだが、それにしても瞬の振舞いは常軌を逸している。
一般的でもなければ常識的でもなく、むしろ、異常、言語同断、狂気の沙汰の振舞いである。
あまりに瞬らしくない振舞いに唖然とし、星矢と紫龍は言うべき言葉を失ってしまったのだった。

無論、氷河は氷河で、降って湧いたような この僥倖に やにさがっていたのである。
午前中の数時間だけ有効な魔法。
だが、それは確かに使いようだと、氷河は思っていた。
朝、朝顔の花が開いてからしぼむまでの時間があれば、キス以上のことも余裕でできるではないかと。
とはいえ、氷河のその邪まな考えは、時刻が11時をまわって正気にかえった瞬に、
「あれ? 僕、何したの?」
と言われてしまった瞬間に、一瞬で消え失せてしまったのだが。
キス以上のことをした そのあとに、同じセリフを瞬に言われてしまったら、これほど空しいことはない。
キスのあとで言われても、それは十二分に苦く空しい言葉だった。
瞬は魔法の力に操られて それをしたのであり、そこに瞬の意思はなかったのだから。


中途半端に幸せな夢を見てしまっただけに、瞬のキスのあとに氷河が感じた空しさと苦さは並大抵のものではなかった。
どうせ消えてしまうものなら、どんな実りも期待できないものなのなら、最初から そんな夢など見ずにいた方がましである。
「やっぱり、朝顔の花なんて ただの役立たずだ! おまえなんか、今すぐ引っこ抜いてやる!」
そこに瞬の心のないキスをされた日の午後、再々度 朝顔の精にその言葉を告げた氷河の声は、ひどく力ないものだった。
悪いのは、朝の数時間しか魔法の力を保てない朝顔の精ではなく、瞬の意思を無視した願いを願ってしまった自分の方なのだと、氷河も さすがにわかっていたから。

午後になって しぼんでしまった花の下から、朝顔の精が そんな氷河の覇気のなさを心配顔で見上げてくる。
「お願いだから、そんなことしないで……! もっと別の願いはないの。大金持ちになりたいとか、世界の支配者になりたいとか」
「朝の数時間だけ?」
それこそ無意味な願いの極致である。
だが、それが無意味なのは、大金持ちや世界の支配者でいられるのが朝の数時間だけだということではなく、その願いが自分の努力で実現したものでないからなのだ。
今では氷河にも それがわかっていた。

「ねえ。でも、私を引っこ抜いたりしないで。ちゃんと考えたら、たった数時間でも叶えば嬉しい願いはあるかもしれないでしょう? 私、明日もあなたの願いを叶えてあげる。よく考えて。きっと素敵な願い事があるわ」
懸命に そう訴えてくる小さな朝顔の精に、氷河は虚ろな笑みを返すことしかできなかった。






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