氷河が自らの心を殺して告げた言葉を 無言で聞いていた“地上で最も清らかな魂を持つ者”が やっと重い口を開いたのは、それから かなりの時間が経ってから。
氷河を見上げ、見詰める地上で最も清らかな魂を持つ者の澄んだ瞳からは、既に 戸惑いと怯えの色は消えていた。
「僕と、誰か強い王が犠牲になるべきだという あなたの考えはわかりました。でも、それは卑怯な考えなのではないの? だいいち、アテナイやスパルタの王に、僕が勝手にあなたを犠牲の相方に決めましたなんて言うことはできないでしょう。アテナイやスパルタの王にも迷惑だよ。平和のために犠牲が必要だというのなら、まず そう言い出したあなたが犠牲になるべきではないの? あなたもあなたの心を犠牲にすべきだよ。あなたの力不足は、神々が補ってくれるでしょう」
「なに?」

氷河は、自分が何を言われたのか、咄嗟に理解することができなかったのである。
数秒の時間をかけて、“地上で最も清らかな魂を持つ者”が、『あなたも あなたの心を犠牲にすべきだ』と言っていることを理解する。
つまり、『あなたもあなたの心を殺すべきだ(殺さなくてもいい)』と。
「それは、俺が おまえを俺のものにすべきだということか」
「他人に犠牲を強いる者は、まず自分が自分の何かを捧げてみせなくては」
「おまえ、自分が何を言っているのか わかっているのか」
地上で最も清らかな魂を持つ者が、こくりと頷き返してくる様を見て、氷河はごくりと息を呑んだ。
それは平和の実現を遅らせる可能性のある選択だと、俺では力不足だと、切ない事実を告げようと思うのに、喉が痛いほど渇いて 声が出てこない。
懸命に力を振り絞って なんとか発することのできた言葉は、だが、氷河自身が言おうとしていたものとは違う言葉だった。

「本当に俺でいいと、おまえは思うのか」
何よりも誰よりも争いのない世界を望んでいたはずなのに、その望みが叶うか叶わないかの関頭に立つ 今この時に、違うものを欲して氷河の身体が反応し始める。
浅ましいとは思ったが、こればかりは意思の力で止められるものではなかった。
幸い(あるいは不幸なことに)、
「さっさと、自分が言ったことの責任を果たして」
という、地上で最も清らかな魂を持つ者の投げ遣りな言葉が、火照り始めていた氷河の身体を一瞬で冷たく凍りつかせてくれたが――氷河に、自分が言ったことの責任を果たす決意をさせてくれたが。

「ここで?」
「いやなの?」
「石の床で痛い思いをするのはおまえだぞ」
「これはギリシャに平和をもたらすための契約なんだから、痛いくらいの方が心身に刻まれていいでしょう」
犠牲を覚悟した者の声は、冷たく厳しい。
なぜ自分たちは こんなところで出会ってしまったのだろうと、氷河は二人のこの運命を呪った。
もし二人が出会ったのが こんな場所でなかったら――それこそ、戦場で敵対し合う者同士として出会ったのだとしても、ここでさえなかったら――俺は おまえの澄んだ瞳に一目で魅入られ 恋焦がれるようになったのだと打ち明け、どれほど迷惑がられても 俺を受け入れてくれとなりふり構わず すがりついていくことができるのに、出会った場所がこんなところだったばかりに、二人は冷たく身体を交えなければならないのだ。

「おまえの名は」
「瞬」
「俺の名は氷河だ」
やっと知ることができた地上で最も清らかな魂を持つ者の名前にも、大した感懐を抱くことができない。
冷たい石の上に瞬の身体を横たえ、石よりも冷めた心で、氷河は瞬の身体に手をのばし、ゆっくりと愛撫を始めた。
きつく目を閉じ 唇を引き結んでいる瞬の肌が、平和の実現のために共に我が身を犠牲にしようと契約した男の指に触れられるたび、ほのかに色づき、熱を帯び始める。
母親の愛撫しか知らない幼い子供のような瞬の肌には、愛情の発露としての愛撫ではなく 身体を性的に興奮させることを目的とした愛撫は、それこそ痛いほど強い刺激だったらしい。
瞬は驚くほど すみやかに氷河の愛撫に反応し始め、熱を増し、その熱は冷たい石の床にまで伝わっていった。

「あ……あ……だめ……やっぱり、だめ……」
瞬の唇が 自身の身体の変化に驚き身悶え、氷河の愛撫から逃れようとして あらぬ言葉を洩らし始める。
瞬は氷河の愛撫に反応しながら、そんな自分に怯えているようだった。
懸命に気丈を装おうとしているのに、その身体のすべてが瞬の決意に逆らい、身体の奥から じわじわと にじみ出てくる官能の感覚から逃げたがっている。
どう考えても、瞬は自分が男に犯されることを恐がっていた。
その恐れを認めた途端、だが、氷河の中には逆に情欲の炎が蘇ってきてしまったのである。
氷河は、できれば 二人のこの交わりを 平和の実現のための冷たい交わりにはしたくないと思った。

「この神殿に寝台はあるか。その方が優しくしてやれる」
瞬の上体を起こし、その耳許に囁くように尋ねる。
「左……通路……奥の突き当たり……」
喘ぐように瞬が答え、
「わかった」
氷河は瞬の裸体を抱き上げた。
恐れを忘れるために、意識して意識を放棄しようとしているような瞬の唇に幾度も自分の唇で触れながら、氷河は瞬に知らされた部屋に瞬を運んだ。
小さな部屋に小さな寝台がある。
瞬ひとりが休むにはちょうどいいのだろうが、氷河には――二人には――少々窮屈な大きさの寝台。
こんなに小さな寝台で、瞬はこれまで一人、その身体と心を委ねる相手を待っていたのかと思うと、氷河の胸は痛んだ。

「俺は、争いのない世界を求めている。そのために、俺の心を犠牲にすることも厭わない。一生 おまえ以外の誰も、この心の中に住まわせないと誓う。だから、我慢して俺のものになってくれ。俺は争いのない世界が欲しいんだ」
白々しい嘘をつくなと 自分自身を責めたかったが、ここで『俺はおまえを愛してしまった』と本当のことを言っても仕様がない。

氷河は本当のことを言わなかったのに――言われなかったからこそ(?)、瞬は氷河の愛撫に屈したように、その身体から緊張を消し去った。
ほんの少し、瞬の膝を掴む手に力を込めただけで、瞬が大人しく 氷河の前に身体を開く。
男を受け入れやすい態勢をとらせ、氷河が瞬の中に身体を進めると、氷河の想像以上に熱く なまめかしい快楽が、氷河に襲いかかってきた。






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