氷河が“地上で最も清らかな魂を持つ者”に選ばれたことがギリシャ全土に知れ渡ると、ギリシャの多くの国々が氷河に対して臣従の意思を表明してきた。
氷河の力というより、神の祝福を受けた者の機嫌を損ねることを――つまりは神の力を――恐れて。
氷河の許に 臣従の意を示すためにやってきた各国の領主や将軍たち、王の代理人たちは、氷河の出自や 彼の ささやかすぎる領地・城砦を その目で確かめて、むしろ氷河と氷河の国を侮る気持ちを強めることになったかもしれなかった。

とはいえ、だからといって 彼等が 氷河に与えられた力を疑うようなことはなかったのであるが。
彼等は、氷河の国の国力・軍事力は 恐るるに足らずと思ったろうが、氷河と 地上で最も清らかな魂を持つ者の姿形には――社会的にも軍事的にも何の価値も意味もない容姿には――素直に驚嘆してくれたのである。
瞬の清楚で華奢な佇まいは、塵界に生き慣れた者たちの目には 人間離れした清澄と映ったろうし、瞬の澄んだ瞳は 奇蹟の具現にも思えただろう。
そして、氷河は、汚れた塵界に生きる人間が望み得る限りにおいて――つまりは俗世における成人男性としては ほぼ理想的な容貌姿態に恵まれていた。

天上の美と 地上における最高の美によって成る一双。
美しいものを偏愛するギリシャの神々は、この美しい二人に惜しみない愛情と祝福を与えるに違いない。
彼等は、そういう納得の仕方をしたようだった。

「神の祝福か……」
氷河だけが、瞬が普通の人間だということを知っていた。
愛撫されれば 喜び喘ぎ、貫かれれば 痛がり涙を流し、その痛みが快楽に転じると 我を忘れて乱れ狂喜し、嵐の時が過ぎ去れば、己れの淫らと混乱を恥じる気持ちを取り戻す。
瞬はごく普通の人間だった。
氷河の心と身体は尋常でなく深く瞬に惹かれ溺れていたが、それでも瞬は一人の普通の人間だった。

「おまえが 本当は 素晴らしく美しいだけの ただの人間だと知ったら、神託に踊らされている者たちがどう出るか」
「ひょ……が……もう、そこ、やめて……」
「神々は ギリシャに平和をもたらそうと考えているのではなく、まるで人間というものを試し遊んでいるようだ」
「ああ……いや……氷河、もう……」
「俺たちにではなく、直接 神々への帰順を促せば、瞬時に平和の実現と神々の権威の強化は成るのに、神々はいったい何を考えているんだ」
「いや……もう、指はいや……」
「瞬。急に俺を受け入れたら、いくらおまえが慣れてきたといっても、おまえの身体が傷付くんだ。もう少し――」
「僕、もう平気……僕、傷付いてもいいの。氷河、早く……」
当の瞬にそう言われても、快楽を急いで求めたあげくに瞬の身体を傷付けるわれにはいかない。
氷河は、性急な瞬の唇を 自分の唇と舌で なだめ あやしながら、手と指での愛撫を続けた。

瞬は ごく普通の ただの人間。
ごく普通の ただの人間である瞬が選んだ相手も当然、特別な力も持たず、特別な運命を担っているわけでもない ただの人間である。
それどころか、神ならぬ身の瞬が選ぶ相手を間違えているということも、大いにあり得るのだ。
その事実が 自分こそがギリシャの覇者になるという野心に燃えている者たちの知るところとなったなら、どんな事態が現出するのか。
そういう輩の前で、一度 神々が奇蹟の実演でもしてくれたなら、また事態は変わってくるだろうに、神々は二度の神託を下した後、どんな行動も起こす気配がない。

氷河自身も、望むものは争いのない世界で、自ら争いを求めたことはなかったので、外部からの敵の襲撃が途絶えた今、自分がすべきことがわからなかった――自分が ギリシャ統一のためにどういう行動に出ればいいのかが わからずにいた。
たとえば、ギリシャ全土の国々に同盟を呼びかけてみてはどうかというようなことも考えることは考えたのである。
だが、これまでは結ばれても破棄されるばかりだった同盟という約束事に、ギリシャの王たちが重きを置くかどうか。
考えるほどに、氷河は自分が為すべき行動に迷うばかりだった。

「攻めてくる敵を撃退することは容易なのに、平和な世界を築くことが これほど至難なことだったとは」
今が、ギリシャ全土から争いをなくす好機なのである。
今ほど特別な時間は、ここ数百年間 ギリシャには存在しなかった。
その千載一遇の好機に 何もできずにいる自分に、氷河は憤りと焦りを覚えていた。
このまま何もできず、やがて“地上で最も清らかな魂を持つ者”に選ばれた男は ただの無能な男だということが周知のこととなり、自分から瞬を奪おうとする者が現われるのではないかと、氷河はその事態も恐れていた。
氷河に その恐れを忘れさせてくれるのは、瞬と交わり、瞬が自分のものだということを実感できる時だけだった。

「あああああっ!」
やっと指ではないものを与えられたことに歓喜した瞬の身体が大きく反り返り、喘ぎというより歓声に近い声を寝室内に響かせる。
瞬の中は温かく熱く、優しく情熱的、そして淫らで優雅。
それが瞬の喜悦の表情や潔癖な肌の感触と相まって、氷河を優しい気持ちにも残酷な気持ちにもする。
戦いは単純な行為で その結果も明瞭だが、平和というものは複雑で、その築き方も維持の方法も結果の見極め方すらわからない。
それは、瞬自身にも 瞬を愛する行為にも似ていた。
求めずにはいられず、魅惑的なものであることは確かなのだが、理解することは難しく、それを己れのものだと実感することもまた難しい――のだ。

「氷河……僕をここに連れてきたことを後悔してるの?」
苛立ちと迷いを紛らわせる道具のように扱われ、あげく 浅ましい欲望の捌け口にされたというのに、その事実には触れもせず、瞬が気遣わしげに尋ねてくる。
心から欲しているし、手放す気もない。
もちろん後悔もしていない。
ただ、その思いをうまく言葉にすることができなかった氷河は、答える代わりに もう一度 瞬に身体を開かせた。






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