守るべきものがあって死ぬわけにはいかない兵たちは 今夜のうちに城から出るように手配しろと、それだけを紫龍たちに指示して、氷河は瞬の許に向かった。 「アテナイが攻めてきた !? 」 いつものように 自分がもらえるものは氷河の愛撫と信じていたらしい瞬が、代わりに与えられた その知らせに 瞳を見開き、寝台の横で棒立ちになる。 「明日には国境に到達するようだ。兵の数は、まあ、この国の全人口と同じくらいだな。もっとも、そのうちの五千は資材や食料の運搬兵だろうが。アテナイの王が直接 指揮しているらしい」 瞬を怯えさせないように、氷河は努めて落ち着いた口調で、そして 婉曲的な言葉を選んで、アテナイの軍が臣従の意を示すための使節でないことを、瞬に知らせた。 瞬は こうなることを全く考えていなかったらしく、想定外の事態に驚くのに手一杯で、怯える余裕までは持てなかったようだった――氷河にとっては幸いなことに。 瞬が恐怖にかられる前に。 そう考えて、氷河は、急いで言葉を継いだ。 「俺がアテナイに負けたら、アテナイの王は 当然、おまえを自分のものにしようとするだろう」 「そんなことは――」 「もちろん、俺が負けなければ、それがいちばんいい。神々の意思が俺の上にあると信じるしかなくなるような圧倒的な勝利を全ギリシャの者たちに見せつけることができれば、日和見主義の国々の臣従も 形ばかりのものではなくなるだろう。だが、それは現実的に無理な話だ。何と言っても、アテナイを庇護する戦いの女神アテナが、アテナイより俺に味方することは考えられないからな」 『神々は 僕の願いを何でも叶えてくれると約束したわけではない』と、瞬は言っていた。 そして、戦いの女神は確実にアテナイの側につく。 この城に兵が五百 残ったとして、氷河の軍がアテナイ軍に勝つためには、一人の兵が百人の兵を倒さなければならない。 それはどう考えても無理な話――起こるはずのない奇蹟だった。 だから、氷河は 瞬の身の安全を図らなければならなかったのである。 同時に、ギリシャの未来を考えなければならなかった。 「俺の軍が負けたら、おまえは大人しくアテナイ軍に降れ。そして、アテナイの王のものになれ。アテナイの王も、よもや おまえを殺すようなことはしないだろう。皮肉なことだが、それで、おまえに会うまで 俺がギリシャにとって最善と考えていた状況が実現する。本当は、戦わずに俺がアテナイに降伏するのが いちばん犠牲の少ない対処法なんだが、それでは おまえに選ばれた俺の価値が下がるからな。俺の価値が下がるということは、一時的にでも俺のものだった おまえの価値が下がるということで、それはギリシャの今後のために よくない。おまえの聖性や おまえに神の恩寵があることが疑われることは、ギリシャ統一のための求心力が失われることを意味する」 氷河が何を言おうとしているのか、瞬はすぐに理解したらしい。 瞬に、 「僕の価値を損なわないために、ギリシャに平和をもたらすために、氷河が犠牲になるつもりなの」 と問われて、氷河は、瞬の聡明に安堵した。 「俺はそれほど潔いわけではないし、格好をつけたいわけでもないんだが、まあ そういうことだ」 「氷河……」 瞬の瞳が 切なげな輝きを宿して氷河を見詰めてくる。 氷河は、そんな瞬に、意識して軽佻な素振りで両の肩をすくめてみせた。 「俺を買い被るなよ。俺は崇高な志とか 高邁な理想とかに衝き動かされて そうするわけじゃないからな。ただ、俺は――」 「氷河は?」 「俺は幼い頃に母を失った。故国を持たない賊が徒党を組んで、俺と俺の母が暮らしていた村を襲ってきた時に、母は俺を賊から守ろうとして死んでいった。俺の周りには そういう子供がいくらでもいて――俺の国は、最初は、そういう子供等が生き延びるために身を寄せ合ってできた小さな集団だったんだ。俺は――俺たちは、俺たちの周囲だけでも争いをなくそうと思った。そのための防衛組織を作り――そのあたりは紫龍が上手くやってくれた。何年も経つうちに仲間はどんどん増えていき、土地も武器も手に入れて、俺たちの組織は結構な勢力になった。だが、どれほど力を増しても、国と呼べるほどのものを作っても、むしろ俺たちが力を増せば増すほど、その力や国を奪おうとする新たな敵が次から次に現われるだけだった。争いのない世界なんて作ることはできないんじゃないかと絶望していたところに、あの神託だ。おまえを手に入れた者が、ついに俺の夢を叶えてくれるだろうと、争いのないギリシャを作ってくれるだろうと、俺は期待した。なのに、おまえを手に入れたのは俺で、その俺が無力だったために、訪れるはずの平和はやってこなかった。だが、アテナイなら――」 「アテナイなら、氷河の夢を叶えてくれるっていうの !? その夢が叶った時、氷河はもう生きていないかもしれないっていうのに !? 氷河はそれでいいの!」 瞬が激昂して、氷河を怒鳴りつけてくる。 神々が瞬を選んだのは、もしかしたら、その清らかな魂より、その澄んだ瞳より、この可愛らしさゆえだったのではないかと、氷河は思ったのである。 この瞬と同じ場所にいられなくなることは、氷河にとっては つらいことだった。 「そういう夢の叶え方もあるだろう」 氷河は、今は、笑ってそう答えることしかできなかったが。 瞬が そんな氷河の前で、一度きつく唇を引き結ぶ。 「氷河は……氷河は、僕を愛していないの? 今更 僕に 他の誰かのものになれなんて言うのは卑怯でしょう! 一生、平和のために自分の心を犠牲にすると言ったのに! だから僕にもそうしろと言ったのに! 自分ひとりだけ その誓いを破って、逃げて、僕には その務めを果たし続けろと、氷河は言うの!」 『僕を愛していないの』とは。 よもや 瞬の口からそんな言葉が出てくることがあろうとは。 瞬がそう尋ねてくれたのが、アテナイの進攻を知る前だったなら、自分はどれほど浮かれ嬉々として、そして得意げに、その答えを答えることができていただろうと、氷河は切ない気持ちで思ったのである。 だが、氷河は今は、 「おまえは、俺より平和を愛しているんだろう? だから、大人しく俺のものになった」 と答えるしかなかった。 「僕の質問に答えて!」 瞬は、だが、容赦なく氷河を問い詰めてくる。 氷河は、昨日までなら笑って答えることができていただろう真実を、苦い心で告げるしかなくなってしまったのである。 「俺は――俺は、最初から おまえを愛していた。おまえの その澄んだ目に出会った瞬間から。だが、俺は、あの時、判断を誤った。おまえに恋し、おまえに目が眩んで、冷静に振舞えなかった。おまえに会うまでは、おまえを手に入れるべき人物はアテナイの王だと思っていたのに、そう冷静に考えることができていたのに、おまえに出会い、おまえに恋をして、おまえを他の誰にも渡したくなくなって――」 「氷河……! なら、僕を他の人になんて――」 他の誰かに瞬を渡さずに済んだなら、どんなにいいだろう。 氷河とて、できるものならそうしたかったのである。 アテナイの軍を打ち破り――そうすることができなくても、せめて自分の力で 瞬の身を守り切ることができるという確信さえ持つことができていたなら。 「俺は母を奪った争いを憎み、争いのない世界を求めていた。そのためになら、自分の命くらい、神にでも敵にでも捧げていいと思っていた。おまえに、俺の心を犠牲にしろと言われた時、そんな犠牲になら いくらでもなってやると、軽率にも思った。だが――犠牲になるにも資格と力が必要なんだ。俺は力不足だった」 「そんな――」 そんな格好の悪い みじめな事実を、氷河はできれば瞬には知らせたくなかったのである。 自分に そんなつらい事実を言わせた瞬を、氷河は心の中で少し恨んだ。 あまりにみじめで――両の拳を握りしめた氷河を、ふいに瞬の両手がふわりと包んでくる。 氷河の胸に頬を傾けて、瞬は ひどく優しい声で――子供を諭す母親のように優しい声で、氷河に尋ねてきた。 「氷河は平和を望んでいるの?」 「そうだ」 「氷河は僕を好き?」 「ああ」 「なら、大丈夫だよ」 何が大丈夫だというのか。 現実は、こんなにつらい。 氷河は、素直に母親に諭されてしまえない子供のように、瞬に口答えしようとした。 瞬が優しい母のように容赦なく厳しく、氷河の口答えを阻む。 「僕が、好きでもない人に身を任せたと思うの」 容赦なく甘い瞬の言葉。 氷河は、胸が詰まるような思いに囚われたのである。 「その言葉だけで十分だ。ありがとう、瞬」 それが、滅びを決意した無力な男への同情が作った言葉だったとしても――おそらく そうだろう――これで心置きなく、“犠牲”になれると、氷河は心から思った。 今度こそ、自分は、意味のある犠牲になれるだろうと。 「そんなに簡単に諦めないで」 瞬は、だが、また 母のように厳しく、そして切なげに、諦めかけている子供を叱咤してきた。 |