「そこでだ。国王陛下は、王女を貧乏貴族に嫁がせて 完全に臣下として遇することで、王妃の憎しみを和らげようと考えたんだ」
「なに?」
何か、嫌な予感がする。
「とはいえ、彼女が国王陛下の娘であることは疑いようのない事実だ。いつか有効な外交カードとして使うことのできる日がくるかもしれない。フランス国王の ただ一人の実子というカードは、捨てるには惜しすぎるカードなんだ」
「それは……そうだろうが……」
「そこで、陛下は、表向きは 王女をいずこかの貴族と結婚させることで、いわゆる臣籍降下の体裁をとることで王妃の心を和らげ、その内実を白い結婚とすることで、王女の身の安全と価値を守ることにしたのだ」
「……白い結婚とは つまり――」
「つまり、肉体関係を持たない結婚ということだ。ルクレツィア・ボルジアとペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァのものが有名だな」

その 有名な白い結婚でさえ、二人の仲が本当に“白い”ものだったのか否かで、泥沼の争いが起きている。
苦し紛れに 何という策を思いついたものかと、ヒョウガは内心で苦い顔を作ったのである。
妻が、実質的結婚が不可能なほど若い――幼いか、男が欲望を抱くことが不可能なほど醜いか。
そのいずれかでないと、社会は その結婚の白さを認めようとはしないだろう。
王女は既に16になっているということだったから、よほどの醜女でない限り、偽りの夫婦の白さを余人に認めさせることは不可能である。
叔父は、それを国王の考えのように言うが、国王にその考えを入れ知恵したのが叔父であることは明白。
そして、この叔父が、ルクレツィア・ボルジアとペーザロ伯の前轍を踏むような愚行を為すことは考えられない。
となると、不幸な王女は、世間を納得させられるだけの醜さを その身に備えているということになる。
不幸な王女へのヒョウガの同情は、更に深まることになった。

「その相手を誰にすべきかで、陛下は大いに悩まれた。有力貴族は駄目だ。それもまた王妃の気に入られないかもしれないからな。となると、独身の貧乏貴族。大層な野心もなく、そして、白い結婚の約束を間違いなく守ることのできる男。はじめは そちらの能力を失った老人をと考えたのだが、それでは あまりに王女がお気の毒だろう。できれば、王女と歳が近くて、それなりに話も合い、王女の無聊を慰めることのできる青年がいい。私は、国王陛下に おまえを推挙した」
嫌な予感が当たった。
やはり、そういうことだったらしい。
世界から見捨てられているような王女の不遇不幸には同情するが、王室の そういった面倒事には関わりたくない。
そして、そのために自分の人生を捧げるようなことは死んでもしたくない。
そんな計画に加担することはできないと、もちろんヒョウガは一瞬の迷いも逡巡もなく 自分の答えを出したのである。
が、ヒョウガの叔父は、甥の出した答えの内容など、この計画には考慮する必要のないことだと考えているようだった。

「宮廷に出て 陛下の機嫌取りをすることもせず、舞踏会に出て 裕福な貴族の令嬢を掴まえる努力もしない ぐうたらなおまえを世話してきてやった叔父の恩に、今こそ報いろ」
「だから、俺はマザコンなだけで独身主義者なわけではないと言っただろう。偽装結婚でも結婚は結婚だ。形ばかりでも妻を持ってしまったら、本当の結婚ができなくなる」
「その点は大丈夫だ。白い結婚は、公にすれば結婚自体が無効になる。おまえとの隠れ蓑が必要でなくなったら、その事実を公にすれば、二人は晴れて赤の他人に戻り、それぞれに再婚もできる。どんな問題もない」
「一生 公にできなかったら、どうなるんだ! そんな危険な賭けに協力できるかっ」
「陛下は、この計画に協力してくれたら、アミアンのサン・ルーの領地と、50万リーブルの年金を生涯に渡って おまえに与えると言っている」
「なに……?」

50万リーブルといえば、それなりの規模の城を2つ3つ気軽に買うことができるほどの金額である。
たとえば今 フランスとスペインが全面戦争に突入して、敵の大船団を全滅させることができたとしても、その指揮官に与えられる褒賞金は せいぜい1万リーブル程度のものだろう。
その50倍の額を、この先数十年に渡って 敵兵の一人も倒していない青二才に支給し続けるというのは、あまりに法外な――常軌を逸した殊遇だった。
だが、ヒョウガには、そんな大金よりも、自分に下賜されるという領地の方に心を動かされたのである。

「サン・ルーの領地……」
それは、ヒョウガの母が生まれ育った土地だった。
母が いつか帰りたいと言っていた土地、母が いつか二人で行こうと繰り返し語っていた場所。
夫と息子を救うために、母が身を切られる思いで売り払った母の故郷。母の心の帰るところ。
夫と息子のために すべてを捨て、その死の間際 息子に残せるものは思い出だけだった母。
その母の憧れと幸せだった時間の象徴たる美しい場所。
それが、アミアンのサン・ルーの農園と城館だった。

「悪い話ではないだろう」
「……」
確かに悪い話ではない。
「貴族とは名ばかりの、爵位以外に何も持っていない おまえを引き取り育ててやった叔父の恩に報いろ。母親を亡くし、人目を はばかって父である陛下にも滅多に会えない、気の毒な姫君なんだ。仮にも現国王のただ一人の実子だというのに、宮廷に出ることも叶わず、パリの小さな館でひっそりと暮らしている。王女の心を少しでも慰めることができたなら、それは神の御心にも適うこと、おまえの善行は、天国の門を押し開く力になるだろう」
神の御前で誓われた婚姻の外で生まれた王女の心を慰め、偽りの婚姻によって多くの人を欺くことで、本当に天国の門は開かれるのか。
そんなことがあるとは思われず、そんなところに行きたいとも思わなかったが、ヒョウガの前に提示された交換条件は あまりにも魅惑的すぎた。
「本当にサン・ルーの領地を取り戻してくれるんだな」
「無論。義姉上が愛した荘園だ。館も当時のまま残っている。パリから程よく離れていて、場所的にもちょうどいい。おまえは、そこで 時が来るまで王女と静かに暮らしていればいいんだ」
「……」

そうしてヒョウガは、国王と叔父の計画に加担する決意をしたのである。
もともと宮廷は苦手だった。
この世の富や地位の無価値も儚さも思い知っている。
母の愛した美しい荘園で、母の愛した館で、母を思って過ごしていれば、誰もが安らかでいられるというのなら、ヒョウガはそれで何の不満もなかった。

不幸な王女とヒョウガの結婚は、気が抜けるほど あっさりと成立した。
ヒョウガが二人の結婚に際して行なったことは、フランス国王息女シュン・ドゥ・フランスとの白い結婚に同意する誓約書に署名することのみ。
ヒョウガが署名した誓約書には 既に妻のサインが入っていた。
その誓約書にヒョウガのサインが加わることによって、不幸な王女の名は、貴族名鑑にバラデュール侯爵夫人として記されることになったのである。
本来なら、国王臨席のもと豪華な式を執り行ない、多くの廷臣や貴婦人たちから祝福を受けて幸福な妻になって しかるべき一国の王女が、教会で式も挙げず、夫と顔を合わせることもなく、サイン一つで貧乏貴族の妻にさせられてしまったのだった。
(もっとも、50万リーブルの年金は、ヒョウガをフランスで最も裕福な貴族の一人にしてくれるものだったが)

「私は、おまえのしたいことを妨げるつもりはない。兄があんな詐欺に引っかかったせいで、亡き義姉上にもおまえにも苦労をかけた。義姉上は、兄の借金の返済義務が私にまで及ばぬよう、愛していた荘園を手放すことまでした。私は、義姉上が亡くなる時、必ずおまえを幸せにすると義姉上に誓ったのだ。宮廷が嫌なら、そんなところには行かなくてもいい。だが、おまえも いつかは何かをしなくてはならない。でないと、生まれてきた意味を見付けられないまま、おまえの一生は終わってしまうだろう。義姉上の愛した土地で、おまえが何かを見付けられることを祈っている」
数秒で終わってしまったヒョウガの結婚の儀式の ただ一人の立会人であるアヴリーヌ伯爵は、そう言って、ヒョウガの前途の幸を祈ってくれた。






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