ヒョウガの母の後の領主がかなり横暴な男だったらしく、サン・ルーの領民は、新領主としてやってきた旧主の息子を大いに歓迎してくれた。 ヒョウガたちが暮らすことになる城館は、決して豪華華麗なものではなかったが小綺麗で、どこまでも続く緑の農園を見守るように建っている その姿は、おとぎ話の王国の幸福な城のようだった。 ヒョウガは、母が この土地を愛し 懐かしみ続けていた訳がわかったような気がしたのである。 無垢で幸せな少女だった頃や 恋を夢見る思春期を、ヒョウガの母は このおとぎの国のお城で過ごしたのだ。 おそらくは、その人生で最も憂いなく幸せだった時期を。 できることなら、もう一度、母にこの城を見せてやりたかったと、ヒョウガは叶わぬ夢を その胸に思い描いた。 ヒョウガのそんな心を察したのだろう。 シュンが、その小さな手で、ヒョウガの手を握りしめてくる。 シュンは、人の心の痛みを敏感に感じ取り、思い遣ることのできる少女のようだった。 「美しい旦那様に、お可愛らしい奥方様。やっと この城に ふさわしいご主人様がいらしてくださったと、城の一同、喜んでおります」 前の領主に苦労させられていたのか、城の家令や小間使いたちは 新しい領主に極めて好意的だった。 “奥方様”がドレスを着ていないことを奇異に思われるのではないかと、ヒョウガは懸念していたのだが、シュンの“お可愛らしさ”は服装の特異を凌駕するものだったらしく、使用人たちはシュンの男装に眉をひそめるようなことはしなかった。 むしろ、シュンがドレスを身につけないことに不満を かこつことになったのはヒョウガの方だったかもしれない。 城に着けばシュンのドレス姿を見ることができると、ヒョウガはそれを楽しみにしていたのに、シュンは自室に入ったあとも夕食時にもドレスに着替えることなく、ヒョウガがそれとなく尋ねると、なんとドレスを1着も持ってきていないと告白してきたのだ。 「ドレスって、邪魔で……。僕、ずっとパリの館に閉じ込められているようなもので、人前に出る必要もなかったので、いつも身軽な格好でいたんです。運動不足を解消するために、男性の格好で掃除や厨房の手伝いもしていました。この格好の方が落ち着くんです。僕、パンも焼けます。パン生地を捏ねるのって、力がいるんですよ!」 シュンにそう言われて、ヒョウガは正直なところ、かなりがっかりしたのである。 男物のシャツやチョッキも、おとぎの国の王様の小姓のようで可愛いことは可愛いのだが、花には花に、お姫様にはお姫様にふさわしい衣装というものがあるはずである。 何を身につけていてもシュンが眼福であることに変わりはなかったし、ヒョウガも無理にドレスを着ろとシュンに言うことはできなかったのであるが。 「好きにしろ。この館の女主人はおまえだ。それに、男の格好をされていた方が、俺もおまえを女と意識せずに済んでいいかもしれない」 女と意識せずに済んだところで、シュンが美しいことは紛れもない事実である。 シュンが男子の服装をしていることがヒョウガの騎士道精神喚起に本当に役立つのかどうかということは 非常に疑わしい問題だったが、ヒョウガとしてはシュンを責めないために そう言ってやるしかなかった。 シュンは、誇り高き王女というより、寂しがりやの苦労人だった。 そうでなければ生きてこれなかったという事情もあるのだろうが、人の心を読み取る術に長けていて、素早く的確な気遣いを示すことができる。 万事に控え目で、極めて素直。 滅多に人の考えに反対の意を示すことはなく、示すことがあったとしても、その主張の内容はいつも正論で有益。 会話自体も快い。 シュンと過ごす時間が長くなるにつれ、ヒョウガは、シュンを真実の妻にできたら どんなにいいだろうかと、夢想するようになっていった。 白い結婚の約束は、無論守り続けてはいたのだが。 城の使用人たちは、領主夫妻の寝室が別々なことを不思議に思っているようだった。 夜は必ず別々の部屋で休むが、それ以外の時間は ヒョウガはシュンと一緒にいることが多かった。 仲の悪い夫婦に見えないことが、彼等の疑念を大きくしたものらしい。 城中の者たちが、旦那様と奥方様は仲がいいのか悪いのか わからないと噂していることを知ったヒョウガは、家令長と女中頭を呼んで、真実とは少々異なる夫婦の事情を 彼等に説明する労をとることになった。 「妻は、つい先日までずっと、宮廷にも出ず、人間嫌いで偏屈な老祖父に育てられ、外出も自由にはできないような状況で暮らしていたんだ。そのせいで、少しばかり世間知らずで、常識が欠如しているところがある。身軽だからと言って、ドレスや宝石で身を飾ることもしない。素朴というか、幼いというか――男と女のことも まだわかっていないんだ。だから、俺は、もうしばらく、妻が大人になるのを待つつもりでいる」 「ああ、そういう事情が――」 12、3歳で結婚し、子を産む貴族の娘は、フランス中に数多くいる。 そして、シュンは、実年齢より若く見えるとはいっても、既に16。 ヒョウガが捏造した“事情”は かなり不自然なものだったのだが、家令長と女中頭は その不自然な事情説明を すんなりと受け入れ、納得してくれた。 「奥方様は、本当に 汚れを知らない天使のように澄んだ瞳をしておいでですからね。愛しておいででも、いえ、愛していればこそ、無理を強いたくないという旦那様のお気持ちはわかります」 「前の領主は、見境なく女の尻ばかり追いかけまわしているような下種でしたよ。領内には あの下種にひどいことをされて泣いた娘が何人もいるんです。奥方様は一度もこちらに来たことはなくて、亭主がいないのをいいことに 宮廷でやりたい放題をしていたとか。あれに比べたら――比べるのも失礼ですが、今度のご領主様と奥方様は お美しくて清潔そうでと、みんな喜んでるんですよ。奥方様が旦那様のお気持ちを理解なさる日は必ず来るでしょうから、挫けずに頑張ってくださいまし」 奥方様が旦那様の気持ちを理解する日が来てしまったら、それはそれで困ったことになるのだが、忍耐強い夫に理解を示し激励までしてくれる二人に悪気はない。 内心の困惑をひた隠し、ヒョウガは彼らの好意に感謝し、頷いた。 「何か不都合や困ったことがあったら、城中のことでも農地のことでも 遠慮せずに言ってくれ。母が愛していた場所だ。できるだけのことをしたい。農園ではいい葡萄が採れると聞いた。美味いワインを飲むためなら、投資は惜しまない」 「ありがとうございます。畑の者たちにも伝えておきます。皆、喜ぶでしょう」 この土地の者の気質は母から聞いて知っていた。 基本的に従順で働き者。 自分の仕事に誇りを持っていて、その内容を褒められると非常に喜び、一層励むようになる。 貴族への反感も少なく、一度 信を置いた相手には忠義を尽くし続ける。 ただ、気に入らないことがあると、仕事を怠けることで不満を訴えることがあり、それが少々困りもの――。 幼かったヒョウガに母が語ってくれた様々なエピソードから得た知識、何より母の愛した土地を愛する息子の気持ちが領民たちに通じるらしく、ヒョウガの初めての領地経営は極めて順調だった。 問題らしい問題はほとんど起こらず、起こっても、その問題を皆と語らい解決することで、領主と領民の間には信頼関係が構築されていった。 何の問題もなかったのである。 若く健康で美しい(名ばかりの)妻が、パリを離れて自由を得たせいか、日を追うごとに輝きを増していくこと以外。 ヒョウガにとっては、それが いちばんの大問題だったのだが。 (名ばかりの)妻の美しさに困っているのに、やはりどうしてもドレスを着た姿を見てみたくて、一度 仕立て屋を呼ぶことを提案してみたのだが、それは、 「僕の衣服は、必要と言えばアヴリーヌ伯爵が送ってくれることになっています」 と言うシュンによって、すげなく却下されてしまった。 『着る物のために思い煩うな』とイエスは弟子を諭しているが、若い娘が自分の着る物を全く思い煩わないというのも奇妙なことである。 届けられた衣服に毒が仕込まれていたことがあるという話を 以前 聞いたことがあったので、シュンは用心深くなっているのだろうと、ヒョウガは無理に自分を納得させたのだった。 とても、残念に思いながら。 |