その翌日。
氷河が氷河らしくない分、星矢は実に星矢らしい行動に出た。
つまり、アスガルドに向かった氷河が仲間たちの許に戻ってくるのを じりじりしながら待つという不毛なことをやめ、彼自身がアスガルドに向かうことにしたのである。
もちろん、紫龍と、そして 渋る瞬を従えて。
氷河に一足遅れてアスガルドに着いた氷河の仲間たちは、ひとまずフレアの許を訪ね、彼女に話を聞いてみることにした。
アスガルドにいるアテナの聖闘士の知り合いは彼女だけだったので、他に行き先を求められなかったというのが、実際のところだったのだが。

崩壊したワルハラ宮の跡に、奇蹟のように出現したユグドラシルの樹。
その大樹の足元に小さな木の家を建て、フレアは そこで樹を見守り、兄の菩提を弔う日々を過ごしていた。
彼女は、アテナの聖闘士たちを、二度と会えないわけではないが、また会うこともない人たち――と考えていたのだろう。
ユグドラシルの樹の下の家で アテナの聖闘士たちを出迎えたフレアの顔に浮かんだものは、再会できた友人への懐旧の念ではなく、軽い驚きの色。
その驚きには 微妙な翳りがあって、その翳りを認めたアテナの聖闘士たちは、彼女はもしかしたら自分たちに会いたくなかった、あるいは、会うことを恐れていたのではないかと思うことになったのだった。

だから――挨拶も そこそこに紫龍が用件に入ったのは、長居をするつもりはないのだということを彼女に伝えるためであり、星矢に議事進行を任せて事態が紛糾することを避けるためだったろう。
「今日 伺ったのは、他でもない、ここにいない我々の仲間のことで訊きたいことがあって――」
「ミッドガルド――氷河さんの……?」
フレアは、アテナの聖闘士としての氷河を見ていた時間より、ドルバルの神闘士ミッドガルドとしての氷河を見ていた時間の方が長いのだ。
その事実を思い出させるフレアの反問に、紫龍は浅く頷いた。

「氷河は、ミッドガルドとしてワルハラ宮にいた時、特別懇意な――つまり深い仲になった相手がいたような気がすると言っているんです。その人を探して、幾度もアスガルドに来ている。その相手に心当たりはありませんか」
「あの……それは……」
紫龍は、訪問客としての一応の礼儀を守り、穏やかな態度を示していたが、その横にいる星矢は いかにも機嫌が悪そうに口をへの字に曲げ、瞬はフレアの前に立った時からずっと顔を俯かせたまま。
そんな二人に気後れしたように、フレアは言葉を濁らせた。
「それは……言えません」
「言えないって、知ってるのかよ、氷河の相手!」

場所がどこに変わっても、星矢の攻撃ポイントはいつも的確である。
「あ……」
星矢の鋭い攻撃に、フレアが驚き、ひるみ、そして最後に瞼を伏せる。
「いえ……あの……」
彼女は、自分に対しても 自分以外の人間に対しても、嘘をつくことを罪悪と感じる女性なのだろう。口ごもる彼女は、嘘をつきたくなくて、嘘をつかずに この場をやりすごす方法を胸中で模索しているように見えた。
知っていることを知らないと言えば、それは嘘になり、だが真実は言いたくない。
その二律背反が、彼女を動けなくしているのだ。

フレアが結局 重い口を開くことになったのは、彼女が知っていることを聞くまでは、てこでも この場を動かないという顔の星矢のせいだったかもしれない。
口ごもり、いかにも しぶしぶといったていで、彼女は彼女の知っていることを、氷河の仲間たちに語り始めた。
「その方は、その……ドルバルの洗脳によって本来の自分を忘れていたミッドガルドに――氷河さんに乱暴されたも同然で……あ……あの時のことは思い出したくないだろうと思うのです。ですから、今更 あの時のことを蒸し返すのは……」
「乱暴? それ、何の冗談だよ。氷河はそんなことする奴じゃないぜ!」

しどろもどろのフレアとは対照的に、星矢が どんな逡巡もなく きっぱりと断言する。
決してフレアの言葉を疑うわけではなかったが、彼女の言うことは、星矢には到底 信じられないことだった。
星矢の知っている氷河は、瞬を困らせないために自分の思いを口にせず、ひたすら『忍』の一字の状態を耐えている男だった。
思いを募らせていた瞬にできなかったことを、知り合ったばかりの他の相手に あっさりしでかしてしまうようなことができる男ではない。
それが星矢の知っている氷河だったのだ。
フレアは、しかし、遠慮がちにではあったが、首を横に振った。

「ミッドガルドはドルバルに洗脳されていていたんです。善悪の判断も、ドルバルが植えつけた価値観に従って行なっていたでしょう。あの時のミッドガルドは氷河さんではなかった。氷河さんも思い出さない方がいいと思うのです。忘れた方がいいと……」
「でも、氷河は、忘れきれていない。忘れきれずに、思い出せない自分をもどかしがってて――」
そして、その忌まわしい記憶を取り戻すため、北の大地を当てもなく さまよっているのだ。
そんな氷河の彷徨を やめさせたくて、氷河の仲間たちは このアスガルドにやってきた。
そのせいで フレアに言いにくいことを言わせてしまったことを、星矢は――紫龍も――申し訳なく思っていた。
誰よりも そんなことを忘れたいと願っていたのはフレアだったのだろうに、彼女に無理を強いたことには罪悪感さえ覚える。
だが、それはそれとして、星矢と紫龍は気付いていたのである。
言いにくいことを言わされている間、彼女がずっと、瞬を見まいとして、瞬ばかり見ていたことに。

「瞬、おまえ、なんか顔色悪いぞ。今にも倒れそうだ。先に宿に帰ってろよ。俺と紫龍は噂のユグドラシルを見物してから帰るから」
「え……? あ……でも……」
「これ以上、フレアに訊くこともねーし、とりあえず事情はわかったんだから」
「俺たちが聞いて楽しい話も出てこなさそうだしな」
「あの……う……うん……」
星矢と紫龍が、今にも倒れそうな仲間を一人で宿に戻らせようとすることを瞬が奇異に思わなかったのは、そんなことにも頭がまわらないほど、瞬が他の何かに気をとられていたからだったろう。
そして、星矢と紫龍が、今にも倒れそうな仲間を一人で宿に戻らせたのは、もちろん、“これ以上フレアに訊くこと”があったからで、それは“瞬が聞いて楽しい話”ではないだろうことが察せられたからだった。






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