彼の常識/世界の常識






季節は、あと ひと月もすれば夏も終わろうという頃。
時刻は、あと1時間もすれば今日が終わろうという時。
場所は日本。
星矢と紫龍が その音を聞いたのは、城戸邸ラウンジ。
氷河と瞬は それぞれ、10分ほど前に 自室に引きあげたところだった。

「敵襲かっ !? 」
もちろん、星矢と紫龍は、まず最初に その可能性を考えたのである。
というより、他の可能性は考えられなかった。
まるで地中でガス管が爆発したような 腹に響く低く大きい音が、城戸邸全体を大きく揺るがしたかと思うと、かつて出会ったこともないような強大な小宇宙が 城戸邸全体を包む。
この状況で、他の可能性を考えることは ほぼ不可能だった。
これはかなりの力を持った敵である。
おそらく、城戸邸に起居するアテナの聖闘士全員でかからなければ 勝機は望めないほどの。

そんなふうに 敵の力の大きさを把握した星矢と紫龍は、この敵襲の間の悪さに舌打ちをしたのである。
氷河と瞬は 少し前にそれぞれの部屋に戻ったばかり。
もし二人が風呂にでもつかっていたら、アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士は 戦闘態勢を整えるために 数分以上の時間がかかるだろう。
敵の力は侮れない。
戦闘に入るまでの数分の時間のロスが命取りにもなりかねない。
あと10分早く 敵が襲来してくれていていたらと、星矢と紫龍は 今更望んでも詮無い望みを その胸に抱いたのだった。
ちなみに、不気味な爆音を知覚してから、彼等が空しい望みを抱くまでに費やした時間は 約2秒。
空しい望みを望みつつ、彼等の行動は迅速だった。

「2階だ!」
星矢と紫龍が、間に合ってくれ、手遅れにならないでくれと祈る気持ちで、強大な小宇宙を生む敵の存在を感じる方に向かって駆け出す。
駆けつけてみると、そこは氷河の部屋だった。
その部屋のドアの前で、星矢と紫龍が、もしかすると氷河は既に敵に倒されてしまったのかもしれないという不吉な思いを抱いたのは、彼等が氷河の小宇宙を全く感じることができなかったから。
大地を揺るがすような“敵”の強大な小宇宙が、その場に駆けつけた天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士を圧倒するほどの存在感を示しているというのに、その小宇宙に抵抗しようとしている いかなる力も、彼等は感じ取ることができなかったのだ。
その上、風呂に入っていたのでもなければ、1階にいた星矢たちより早く この場に駆けつけていていいはずの瞬の小宇宙も感じられない。

最悪の場合、自分たちは仲間を二人欠いた状態で、この強大な小宇宙の持ち主と戦わなければならない。
星矢と紫龍が そう考え、全身の緊張を一気に増した時。
氷河の部屋のドアが開き、中から瞬が廊下に出てきた。
瞬からは、強大な力を持つ敵に対抗して攻撃を加えようとする気概も感じられなければ、強大な力を持つ敵に打ち負かされて傷付いた気配も感じられない。
その足取りは、言うなれば“いつも通り”。
だが、“いつも通り”の足取りは、この非常事態の中では、むしろ異様である。
これほど強大な小宇宙の力に、瞬は脅威も感じていないようだった。

「瞬っ、敵が――小宇宙が!」
仮にもアテナの聖闘士が、この強大な小宇宙を感じ取れていないなどということがあるだろうか。
これほどの力を持つ敵に対して、なぜ瞬は平気で背中を向けていられるのか。
解せぬ気持ちで、それでも星矢は大声で 瞬に注意を喚起したのである。
しかし、瞬は、仲間の声に含まれている緊張にも焦慮にも、聖闘士らしい反応を全く示さなかった。
たった今 彼が出てきた部屋の中を、完全には振り返らず ちらりと一瞥を投げて、
「小宇宙? 敵? 人類の敵なら、部屋の中に転がってるよ」
と言っただけで。
瞬は、そして、そのまま隣りの自分の部屋の中に姿を消してしまった。

「……」
まさか、これほど強大な小宇宙の持ち主を、瞬は一人で倒してしまったというのか。
だとすれば、その愚かな敵は、瞬を本気で怒らせるような真似を――つまり、瞬の仲間の身体のみならず心までを傷付けるようなことをしたに違いない。
そう、星矢と紫龍は思った。
天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士が無傷でここにいるのだから、敵が傷付けた相手は、当然のことながら白鳥座の聖闘士ということになる。
氷河が その心身を傷付けられたというのに 瞬が平然と構えているのは、これまた奇妙なことだったが、ともかく敵が何者なのかを確かめれば、瞬の不可思議な態度の訳もわかるだろう。
そう考えた星矢と紫龍は、緊張を完全には解かずに、氷河の部屋の中へと足を踏み入れてみたのである。

氷河の部屋の中は 滅茶苦茶だった。
一見したところでは どんな被害も被っていないように見えるのだが、確かに その部屋の中は 見事なまでに破壊し尽くされていたのである。
大理石のテーブルにはヒビが入り、ほんの少し指で触れたら、乾いた砂でできた城のように一瞬で粉々に崩れ落ちてしまいそうだった。
照明等の電気機器はすべてがショートして、アブラ蝉の鳴き声のような音を不吉に響かせ、時折 火花を散らしている。
銃弾も通さない強化ガラスは、散弾銃を1万発も打ち込まれたかのように細かいヒビが無数に入り、そのため 本来は透明な窓ガラスが磨りガラスの様相を呈している。

そんな満身創痍の部屋の中央の床に、氷河が仰向けに倒れていた。
相当のダメージを受けているのは明白なのだが、奇妙なことが一つ。
つまり、そこには(瞬に倒されたはずの)敵の姿がなかったのだ。
「氷河…… !? おまえ、いったい誰にやられたんだ !? 」
氷河は意識を失っている。
問いかけても無駄とわかっていたのだが、それでも星矢は問うた。
星矢は問わずにはいられなかったのである。
氷河は倒れているのに、氷河を倒した敵の姿はない。
だとすれば、敵は 既に この部屋から出ていったということになる。
小宇宙の気配がこれほど強烈に残っているのだから、敵がこの部屋を出ていったのは たった今。
では、“敵”は、氷河を倒し、その後、瞬の攻撃を受け、傷付いた身体で素早く この場から逃げ去ったというのか。
瞬の本気の攻撃を受けて、すみやかに逃げ去るだけの体力を残していられるような者が この世に存在し得るのか。
星矢は、事情が飲み込めず、混乱していた。

そんな星矢に、紫龍が複雑怪奇な表情で、
「星矢、落ち着いて、この小宇宙をよく見ろ・・
と告げてくる。
「小宇宙を?」
言われた星矢が、自分の中から焦慮の気持ちを取り除き、神経を落ち着かせて、室内に残留する小宇宙を確かめる。
それは、あろうことか なかろうことか、間違いなく、アンドロメダ座の聖闘士の小宇宙だった――瞬の小宇宙だけだった。
問題の小宇宙を構成する要素の8割方が憤怒だったため、その小宇宙は いつもの瞬の小宇宙と全く違う印象を漂わせていて、そのため星矢は、それが瞬の小宇宙だと すぐに気付くことができなかったのである。

命をかけた戦いを戦っている時にさえ、温かいピンク色の小宇宙を燃やす瞬。
しかし、氷河の部屋に残っている瞬の小宇宙は そんなものではなかった。
烈火のごとき怒りのせいで深紅、もしくは、冷ややかな怒りのせいで蒼白――な小宇宙。
瞬は、いつもと違う小宇宙の燃やし方をしたらしい。
が、間違いなく、氷河の部屋に残る強大な小宇宙は、瞬が瞬ひとりだけで生んだものだった。

瞬と氷河がラウンジを出てから、星矢と紫龍が強大な小宇宙の爆発を感じるまで、僅か10分足らず。
その短い時間に、いったい この部屋で何が起こったのか。
この強大な小宇宙の持ち主に、今 それを尋ねる勇気は持てない。
星矢たちが事情を訊ける相手は、氷河しかいなかった。

「氷河、生きてるかー?」
「いったい何があったんだ」
氷河は、床に倒れたまま ぴくりとも動かない。
だが、あれほどの小宇宙の爆発があったにもかかわらず、奇蹟のように氷河に外傷はなかった。
そして、微かに氷河の小宇宙も感じられる。
意識も完全には喪失していない。
氷河は、どんな負傷もなく、正しく 倒れているだけだった。

「まさか、また、瞬にハーデスが憑依して――」
紫龍が、最悪の事態を口の端にのぼらせると、
「いや、それはない。そうだったなら まだ救いもあったんだが、瞬は瞬のままだ」
と、意外なほど明瞭で 意識もしっかりしているらしい氷河の声が、その可能性を否定してきた。
紫龍が想定する“最悪の事態”は“最悪の事態”ではないと言いながら、氷河が ゆっくりと その場に上体を起こす。
その際に氷河が微妙に顔を歪めたのは、痛みのせいではなく、むしろ 身体にどんな痛みも感じなかったからのようだった。

「瞬がハーデスに憑依されていた方が まだましというのは どういう意味だ。説明してもらおうか」
五体は完全に無事でいるらしい氷河に、紫龍が説明を求める。
そうしてから、彼はすぐに声をひそめた。
「どこか別の場所で。この部屋は危険だ。へたに動くと、何が崩れてくるかわからない」
「壁や天井は大丈夫みたいだぜ。静かに そーっと出れば、怪我はせずに済みそうだ」
仲間たちに そう忠告する星矢の声には、感嘆の響きが混じっていた。
室内の家具や備品だけを完全に破壊し、建物そのものには いかなる損傷も与えていない瞬の小宇宙の燃やし方。
それが 瞬の意図した通りの結果だというのなら、瞬は見事に自身の小宇宙をコントロールしきっている。
それは、星矢には到底 真似のできない芸当だった。






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