幸い 一つの家具も壊さずに(とはいえ、それらは原型を留めているだけで既に壊れていたのだが)、瞬を除くアテナの聖闘士たちは無事に階下のラウンジに移動することができた。 「ここなら安全だ。いったい何があったんだ」 ラウンジのいつもの席に落ち着くと、紫龍が再度、氷河に事情説明を促す。 どうやら氷河は、我が身を襲った災難を非常に理不尽なものと考えているらしい。 彼は、その肩と声を怒らせながら、彼が彼の部屋の床に転がる羽目に陥った経緯を、仲間たちに語り始めた。 「それは、つまり、だから――ラウンジを出て自分の部屋に戻ろうとする瞬を、俺は『大事な話がある』と言って、俺の部屋に呼んだんだ」 「大事な話って何だよ?」 「大事な話は大事な話だ」 そこまで説明する義理も義務もないと言わんばかりの態度で、氷河が星矢の質問を すげなく撥ねつける。 星矢は両の肩をすくめて、不満そうに その口をとがらせることになった。 「で、『そこに座れ』と、俺は俺のベッドを指し示したんだ。他に椅子はあったのに、瞬は俺に言われた通りに俺のベッドに腰をおろした」 「それで?」 氷河は、“大事な話”の内容より、瞬が腰をおろした場所の方が重要だというのか。 少々の引っかかりを覚えはしたものの、星矢は話の先を促した。 瞬の着席の次のアクション以降に、今夜の大惨事(?)を招くに至った何らかの出来事があるのだろうと考えて、星矢は先を急いだのである。 が、なぜか氷河は その場で足踏みを始めてしまった。 「簡易の応接セットに、ライティングデスク用の椅子、ベランダに出すことのできるロッキング・チェア。他に椅子はいくらでもあったんだぞ。なのに、瞬は俺のベッドに座った」 「だから、それは聞いたって。その続きだよ」 「当然、それはOKという意味だと思って、俺は瞬にのしかかっていった」 「なに?」 「そうしたら、瞬が急に暴れだして、このざまだ……!」 「……」 「……」 星矢と紫龍の盛大な沈黙。もとい、絶句。 彼等は その時、比喩ではなく本当に 頭の中がからっぽになっていた。 そもそも何を考えればいいのかが わからない。 氷河が口にする日本語が、それぞれの単語には聞き覚えがあるのに 意味をど忘れしてしまったような、あるいは、氷河の口にする日本語が どこか見知らぬ異世界の言葉にしか聞こえないような、そんな錯覚に二人は囚われていた。 それでも何とか気を取り直し、彼等は氷河の語った文章の意味を理解しようとしたのである。 彼等の努力は報われたのかもしれない。 『スターウォーズ』に『風と共に去りぬ』の字幕がついた映画のような氷河の説明が表わす情景を、とりあえず彼等は その脳裏に思い描くことができたのだから。 瞬と氷河がラウンジを出てから、星矢と紫龍が強大な小宇宙の爆発を感じるまで、僅か10分足らず。 その10分間に何が起こったのかを、一応、星矢と紫龍は知ることができた。 知りたくはなかったが、知らされてしまった。 自分に非はないかのように氷河は言うが、要するに 彼は、了承を得ずに 瞬をベッドに押し倒そうとして、瞬の逆襲に合ったと言っているのだ。 氷河が、罪悪感を かけらほどにも抱いていない様子で、むしろ、自分は真昼の太陽のように正しいことしかしていないと言わんばかりの口調で、更に言い募る。 「繰り返すが、椅子は他にいくらでもあったんだぞ。だが、瞬は、俺のベッドに座った」 そんな氷河を、星矢と紫龍は まじまじと見詰めることになってしまったのである。 「なんだ、その目は」 「なんだって言われても――」 「俺が悪いとでも言う気か? 普通、OKだと思うだろーが!」 「いや、それはさあ……」 瞬はおそらく――否、確実に――自分の行動が『OK』の意思表示になるなどということは考えてもいなかった。 そんなことは毫も考えず、ただ ベッドに座るよう言われたから、そこに座っただけなのだ。 示された場所に座らないことで、氷河が気を悪くすることがないように。 しかし、氷河は、ベッドに座るという行為は、いかがわしい行為に及ぶことを許すという意思表示だと 信じているようだった。 「それは認識の違いとしか……」 「命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士で、認識が違うなんてことはありえない。瞬だって、それくらいのことは わかっていたはずだ。とにかく、他に椅子はいくらでもあったんだ!」 氷河は、あくまでも どこまでも、瞬が椅子ではなくベッドに腰をおろしたことに重大な意味があると主張する。 しかし、どう考えても、瞬は、公園のベンチに腰をおろすのと大差ない気持ちで、氷河の指示に従ったのだ。 「いや、だからさ」 「少なくとも俺は、おまえ等の部屋に呼ばれて、ベッドに座れと言われても、断じて断る。他にいくらでも椅子があるのに、貴様等が夜中に一人で何をしているかわからないようなベッドに腰をおろそうとは思わん。それ以前に、貴様等とベッドに座って話すような話などない!」 「そりゃ、俺だって、他にいくらでも椅子があるのにベッドに座れなんて おまえに言われたら、こいつ何考えてんだって思って、ベッドに着席は御免被るだろうけどさあ」 「だろう! 普通はそうだ!」 どう言えば、アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士の認識の違いを 氷河に理解させることができるのか。 うまい説得方法を考えることに気をとられ、つい氷河の主張に同意してしまった星矢に、氷河が我が意を得たりとばかりに 身を乗り出してくる。 だが、この場合、問題なのは、“普通”がどうであるかということではなく、瞬の考えはそうではないということの方だった。 「でも、瞬はかんかんだぞ。どうやって、許してもらうんだよ。あれ、簡単には機嫌を直してくれねーぞ」 「男に押し倒されかけたわけだしな」 「それは、瞬がOKと言ったからだ!」 「言ってねーだろ。瞬は、そんなこと、一言も」 「言ったも同じだ! 俺が夜中に一人で何をしているかわからないようなベッドに、瞬は抵抗なく座ったんだ!」 いったい氷河は 自分のベッドで夜中に一人で何をしているのか。 そこのところを とことんまで追求してやりたい気持ちはあったのだが、今はそんなことをしている場合ではない。 「何でもいいから、さっさと瞬に謝ってこいって。おまえは瞬を怒らせたんだよ。OKもNGもN/Aもない。それが現実なんだって」 「うむ。こういうことは時間を置かない方がいい」 星矢と紫龍は、氷河の仲間として、氷河の今後を考えて、氷河のために、親切心から そう忠告してやったのである。 しかし、氷河は、あくまでも彼の認識の正当性に固執した。 「俺は、許してもらわなければならないようなことはしていない。普通は――」 「だから、それはおまえの普通だろ!」 「だが、おまえらだって、俺のベッドには座らんだろう」 「それはそうだけどさー」 「なら、俺の判断は普通なんだ。俺の普通と常識は、俺だけの普通と常識ではなく、人類全体の普通と常識だ。全く おかしなものじゃない。完全に普遍的な常識だ。ゆえに、俺が瞬に謝るようなことは何もない!」 「……」 戦いというものは、大抵の場合、各人が信じる正義の内容や価値観の相違によって起こるものである。 それは、星矢も紫龍も承知していた。 しかし、まさか、『ベッドに腰をおろすことはOKのサインか否か』などという、情けないほど低次元な認識の違いによって、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士の間に対立が生じることになろうとは。 こんな馬鹿げた事態が起こることを、星矢と紫龍は これまで ただの一度も考えたことがなかった。 だが、その日その夜から、地上の平和と安寧を守るためだけに戦いを為すべき白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士が深刻な冷戦状態に突入することになったのは 厳然たる事実、紛う方なき現実だった。 |