「許してやれって。氷河は悪気があったわけじゃないんだ。ちょっとした認識の違いで」 「悪気がない? 悪気がないって、ああいうことをいうの?」 情けないほど低次元な認識の違いによって生じた対立といえど、対立は対立、紛争は紛争である。 そして、人を傷付けることや争い事の類を誰よりも厭い、そんな事態が発生した時には 常に反戦派で穏健な調停役だった瞬が、今回ばかりは やけに攻撃的で峻烈だった。 いつもは人の意見を素直に聞き、従い、何より平和と安寧を愛する瞬が、今回はなぜか 仲間の執り成しに耳を傾けようともしない。 「恐いくらい真剣な顔して、大事な話があるっていうから、僕は、いったい何があったんだろうって、すごく心配して、すごく緊張して氷河の部屋に行ったんだよ。そしたら、氷河は、急に 物も言わずに荒い息して 僕に覆いかぶさって、変なとこ触ってきたんだ! あれが善意や親切で為されたことのはずないでしょう!」 「そりゃ、善意じゃなかったろうけどさー」 男に押し倒されかけたのである。 それでも いつも通り素直な いい子でいろと求めることには無理があると、それは星矢も承知していた。 だが、自分の命を奪おうとしている敵にさえ 理解や温情を示そうとする瞬を見慣れているだけに、仮にも仲間である氷河に対する瞬の険しく頑なな態度に、星矢は意外の念を抱かずにはいられなかったのである。 平生の瞬なら、こういう場合、たとえ氷河への怒りが消えていなくても、わざわざ仲介の労をとってくれている仲間のために、怒りの矛を収めるはずだった。 もちろん、星矢とて、瞬の怒りを理不尽なものと思っていたわけではない。 なにしろ、瞬は 同性の、男の、オスの氷河に押し倒されそうになったのだ。 「許すとか許さないとか、そういうことは、氷河が謝ってきた時に考えます!」 取りつく島もないとは、このことである。 素直で大人しい人間は、いったん怒りのスイッチが入ってしまうと、そのスイッチの切り時や切る方法がわからないものなのかもしれなかった。 だが、星矢としても、いかなる非もない瞬に、『ここは折れて、氷河を許してやれ』と強く言い続けることはできなかったのである。 星矢の執り成し玉砕の様を見て、氷河説得に乗り出したのは紫龍だった。 瞬と違って、氷河には明確な非がある。 瞬説得に比べれば氷河説得は容易なことのはずだったのだが、なにしろ氷河は、瞬と違って、もともとが“素直な いい子”にできていない。 そこが、氷河説得の大きなネックだった。 「悪いことは言わない。今すぐ瞬に謝れ」 と紫龍が言っても、氷河は、 「俺は悪くない」 の一点張りなのだ。 それは、素直な いい子ではない――つまりは、頑固で強情張りの――氷河らしい態度だった。 極めて氷河らしい態度ではあった。 しかし、それはまた、極めて氷河らしくない態度ともいえた。 なにしろ、つい昨日まで、氷河は、絵に描いたような“瞬に恋する男”であり、“瞬に恋する男”の見本のような男だったのだ。 「おまえが悪くなかったら、誰が悪いというんだ。おまえの常識で判断すれば、おまえは悪くないことになるのかもしれないが、世間の常識と おまえの常識は違うんだ。瞬の常識と おまえの常識は違うと言ってもいい。言ってみれば、今回のことは、出合いがしらの交通事故のようなものだ。おまえは自動車の運行者で、瞬は歩行者。車を運転していた方は、自分がどんな些細な過失も犯してないと証明することができない限り、歩行者に対する罪が生じ、賠償する責任が生じる。自動車というのは、危険な凶器の一種だからな。凶器を持っている方が、ただ歩いてるだけの人間の百倍 注意深いことが要求される。それが世間の常識なんだ」 「俺は凶器も持っていなかったし、車にも乗っていなかった」 「自前の凶器で、瞬に何かする気 満々だったくせに、そんな言い訳が通じるか。瞬は善意の歩行者なんだ。そして、おまえは凶器を持った銃刀法違反者。もちろん、非はおまえにある。潔く、自分の罪を認めろ。そして、瞬に謝るんだ。俺は おまえのために言ってやっているんだぞ」 ここまで言われても自分の非を認めることができないようなら、氷河は、その常識と理解力と判断力と国語力に救い難い欠陥を抱えた人間である。 反論できるものなら反論してみろという気持ちで、紫龍は氷河に言い切った。 残念ながら、氷河は、その常識と理解力と判断力と国語力に救い難い欠陥を抱えた人間だったらしく、彼は 全く潔くなく 紫龍に反論を加えてきた。 「凶器を持っていたのが俺だけだったと決めつけるな。俺は、本気の瞬とサシで戦ったら、6:4の割合で俺の方が負けると断言できるぞ」 「そんなことを自慢するな。瞬が俺たち相手に本気で戦えないことは、おまえだって知っているだろう。おまえに襲われた時も、瞬はおまえを傷付けまいとしたんだ。だから、おまえではなく部屋の方が滅茶苦茶になった。瞬は、自分に乱暴しようとして浅ましく興奮している男の身を気遣ったんだぞ。それくらいのことは、おまえだって わかっているだろう」 「……」 自分が乱暴されかけている時にも 瞬が仲間の身を気遣っていたことは、氷河もわかっていたらしい。 氷河は、やっと反論の言葉を途切らせた。 紫龍は当然、もう一押しだと意気込んだのである。 残念ながら、それは、 「おかげで、俺は客間で寝起きしなければならなくなった」 という皮肉な愚痴によって遮られてしまったのだが。 『もはや処置なし』と紫龍は思った。 思って、自分もまた仲間の説得に失敗したことを、視線で星矢に報告する。 とはいえ、彼は、自分の説得が失敗したことを、わざわざ星矢に報告する必要はなかったのである。 星矢と紫龍は横並びになっている肘掛け椅子に腰掛けて、ラウンジのセンターテーブルをはさんだ向かい側に並んで座っている瞬と氷河の説得に取り組んでいたのだから。 つまり、1メートルと離れていない場所で、氷河は瞬の言い分を、瞬は氷河の言い分を、己れの耳で聞いていたのだ。 にもかかわらず、この不首尾。 星矢と紫龍は、もはや お手上げ状態だった。 第三者の介入が効を奏さないとなると、あとは当事者同士の自助努力によって 事態を解決するしかないというのに、肝心の当事者の一人が、 「おまえは、もっと素直で優しい奴だと思っていた」 などという、火に油を注ぐようなセリフを平気で吐いてくれるのだ。 氷雪の聖闘士が使い慣れていない火炎技を繰り出すと、その炎は無駄に大きく燃え上がることになった。 「僕が へそまがりで優しくないっていうの!」 いつもは確かに素直で優しい瞬が、普段なら決して買わない売り言葉の購入に踏み切るのも やむをえない成り行きだったかもしれない。 瞬にしてみれば、“非”のないところに煙を立てられて非難されているも同然の この事態。 男に押し倒されかけたあげくに これでは割に合わないと、(いつもは素直で優しい)瞬でも思って当然だったろう。 「いや、そうは言わないが」 「言ってます!」 瞬の背後で 不気味なほど静かに、異様なほど激しい小宇宙が渦巻き始める。 瞬は もしかしたら自分が激していることに気付いていないのかもしれなかった。 星矢は慌てて、そんな瞬を制したのである。 「瞬! いいか、ここには氷河だけじゃなく、俺と紫龍もいる。 「氷河と二人っきりになんて、たとえ この地上に生きている人間が僕と氷河だけしかいなくなったって、絶対に なりません! 懲りました。何をされるかわかったものじゃないもの!」 この地上に生きている人間が瞬と氷河しかいない状況で、二人きりになることを どうやって避けるのか。 地球の裏側に逃げたとしても、二人は二人きりではないか。 そう思いはしたのだが、紫龍は、瞬の壮大な仮定文の矛盾を指摘するという愚行に及ぶことはしなかった。 その代わりに、長い嘆息だけを洩らす。 「まあ、賢明だな。『君子、危うきに近寄らず』だ。瓜田に 「ええ、とてもいい勉強になりました!」 氷河に襲われかけたことで君子の心得を会得したらしい瞬が、そう言って 掛けていたソファから立ち上がる。 そうして瞬は、そのまま すたすたと仲間たちのいるラウンジから出ていってしまったのだった。 「今すぐ、なんとかかんとかって小難しい名前のケーキ屋に行って、なんとかかんとかって 小難しい名前のケーキを買って来い。それを瞬に捧げて、土下座して謝れ」 瞬の姿がラウンジから消えると、間髪をいれずに 星矢は氷河に命じた。 そんなことをしても焼け石に水でしかないかもしれないが、それでも何もしないよりはましというもの。 とにかく瞬は かなり本気で立腹しており、瞬をそんなふうにしたのは間違いなく氷河なのだ。 そして、非は完全に氷河の上にある。 「オーボン・ヴュータンは今日は定休日だ。定休日でなかったとしても、タルト・チュッティ・フリュッティもラ・ジョワ・ド・ノワゼットも、この時間には既に売り切れている」 瞬の気に入りを きっちり把握しているところが 何とも情けなく、氷河らしい。 なぜ氷河は いつもの彼らしく、いそいそと瞬の機嫌取りに努めないのか。 そして、なぜ瞬は、いつもの瞬らしく、敵の事情を気遣って温情を垂れないのか。 いつもの自分でいられないことは、二人にとっては苦痛ではないのか。 自然体で生きることしかしたことのない星矢には、それが不思議でならなかった。 |