人間は、その肉体に父祖の遺伝子を引き継いで この世に生まれてくる。
経験主義の哲学者たちが唱えるように、人間は全くの白紙状態で この世界に生まれてくるのではないかもしれない。
だが、いずれにしても、生まれたばかりの赤ん坊は、社会的存在としての知識や知恵を有しておらず、誕生時点では“自分らしさ”などというものを備えてはいない。
それは、個々人が、自分の人生の中で、自分の様々な経験の中から学習し、自分の好みや価値観に合った要素を選択して築いていくものだろう。
その自分らしさがどんなものであれ――たとえ他者の目や社会の標準的価値観から見れば 愚かで損な生き方であろうとも――自分らしさというものは、その人間が自分にとって最も益があると思える生き方なのである。
つまりは、自分が最も楽でいられるスタイルなのだ。

自分が最も楽でいられる状態でいられないこと――自然体でいられないこと――は、誰にとっても苦痛であるに違いなく、それはアテナの聖闘士であっても例外ではない。
当然、いつもの自分でいられないことは、瞬にとっても耐え難い苦痛であるようだった。
喧嘩をし慣れていない、他人に つんけんし慣れていない瞬が、氷河に出会うたび、立腹している表情を作り、いちいち つんとそっぽを向くポーズをとらなければならないのである。
瞬が自身の心身に感じている負担は甚大なもののようだった。
日が経つほどに、瞬は疲労の色を濃くし、愁色を濃くし、氷河のいないところでは常に瞳を涙で潤ませるようになっていた。
どんな非もない善意の歩行者である瞬が、なぜ こんなに苦しむことになるのか。
本音を言えば、星矢には その理由が よくわからなかったのである。
それを、ひどく瞬らしいことのように感じはしても。

「ちょっとした認識の違いなんだからさ、もう許してやれよ。おまえ、かなり つらそうだぞ」
氷河と瞬の間に 情けないほど低次元な認識の違いによる対立が生じてから1週間。
さすがに それ以上は瞬の憔悴ぶりを見ていられなくなって、星矢は瞬に水を向けてみた。
瞬が、1週間前とは かなり様相の異なる反応を示してくる。
「僕だって、許したいよ。こんなの、もう嫌だ。でも、氷河が謝ってくれないんだもの……。これは僕が謝るようなことじゃないでしょう……」
「そうなんだけどさあ。氷河は氷河で、自分に非があるとは思ってないんだよ。『他人のベッドに座る イコール えっちOKのサイン』ってのが世界の常識だって、氷河は頑なに信じ込んでるんだ」
「そんな常識、聞いたこともありません!」
強い口調で言ってから、すぐに瞬が いつもの瞬らしく 気弱に眉を寄せる。

「僕、ほんとに そんなこと知らなかったの……」
切なげに 小さな声で訴えてくる瞬を見て、それはそうだろうと星矢は思った。
言われてみれば氷河の“常識”にも一理あると思えなくもなかったのだが、星矢自身、この騒ぎが起きるまで、そんな常識は見たことも聞いたこともなかったのだ。
だが、せっかく瞬が心弱くなってくれている今、そんなことを瞬に知らせても何の益もない。
星矢はもちろん、そんな無益な振舞いには及ばなかった。
代わりに、
「このままだと、一生 仲直りできないかもしれないなぁ……」
と、さりげなく二人の未来を案じてみせる。
「い……一生?」
星矢のその挑発――挑発だろう――に、瞬は今にも泣き出しそうな顔になった。
瞬が いつもの瞬らしく、そういう顔をできるようになってきているのだから、情けないほど低次元な認識の違いのせいで発生した この対立が解消される日も近いのではないかと、星矢は表情には出さず、胸中でこっそり思ったのである。






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