なにより言葉が通じるかどうかがわからなかったせいで、氷河は最初のうちは、城戸邸に集められた他の子供たちから遠巻きにされていた。 氷河自身、自分から人に打ち解けていこうとするタイプでもないらしく、彼は 仲間を求めて 誰かに話しかけることもしなかった。 だが、皆から離れたところに一人でいる氷河を、誰もが意識し、距離を置きつつも興味津々でいることは明白だった。 城戸邸に集められた子供たちの中で、氷河は姿も異質だったが、孤立を恐れ怯えていないような彼の態度と表情は、その姿以上に 人間の子供として異質だったのだ。 子供だけでできている集団の中に あとから放り込まれた子供が、うまく友だちを作ることができずに孤立することは、これまでにもなかったわけではない。 だが、そういう子供は大抵、自分が一人でいることに恐れ、怯え、あるいは きまり悪く思っている素振りを見せるのが常だった。 そして、結局、一人でいることに耐えられなくなって、少しでも自分に興味を持ってくれていそうな誰かを探し、求め、すがりついていく。 氷河は誰からも興味を持たれているのに、誰にも すがりついていこうとはしなかった。 ただ 城戸邸の子供たちの誰もが、その深浅に差こそあれ、氷河に興味を抱いているのは事実だった。 氷河が天使なのかどうかを確かめたくて 彼を気にかけている子供は、さすがに瞬ひとりだけだったろうが。 折りに触れて瞬が氷河をちらちら盗み見ていることに最初に気付いてくれたのは星矢だった。 「なに? あいつのこと、気になんのか」 「あ……うん……。だって、すごく綺麗でしょう」 まさか彼の背中に翼があるのではないかと、それが気になって仕方がないのだと、本当のことを言うわけにもいかない。 だから瞬は、氷河が気になる第一の理由ではなく、もう少し平凡で ありふれた(“平凡で ありふれている”と瞬が思う)第二の理由の方を告げたのだが、星矢には それも十分に非凡で珍奇な“理由”に思えたのだろう。 瞬の答えを聞くと、星矢は くしゃりと大きく その顔を歪めた。 「綺麗? なんだよ、それ」 瞬が口にした『綺麗』という言葉。 星矢には、それは、子供が子供に用いる形容詞としては“ありえない”ものだったらしかった。 「おーい、氷河ー! 瞬がおまえのこと、すごく綺麗だって言ってるぞー!」 星矢が氷河に向かって そう叫んだのは、おそらく、自分と同じ子供を綺麗と感じる瞬を からかうため、そして、自分と同じ子供に綺麗と思われている氷河を からかうためだったろう。 おそらく 城戸邸に来て初めて、そして突然、自分と同じ子供に自分の名を呼ばれた氷河が 怪訝そうな顔をして 星矢と瞬のいる方を振り返る。 「しゅん……?」 「あ、喋った!」 もしかしたら、それは、星矢と瞬が初めて聞いた氷河の声だった。 それまで壊れた お喋り人形のように沈黙を守っていた氷河が、初めて声を発したのである。 星矢は、声を発する人形に俄然興味を覚えたらしく、尻込みする瞬の手を引っ張って、勢いよく氷河のいる方に向かって駆け出した。 そして、彼の前に立つと、彼らしい気安さで、瞬の悪行の ご注進にとりかかる。 「俺、星矢ってんだ。こっちが瞬。でさ、瞬が、おまえのこと、すごく綺麗だって言って馬鹿にしてんの。何か言ってやれよ」 「星矢! 僕、馬鹿になんかしてないよ!」 氷河に――もしかすると天使なのかもしれない氷河に――そんな誤解をされてしまっては たまらない。 瞬は慌てて、星矢の悪意のない告げ口を否定した。 瞬にとっては幸運なことに、氷河は星矢の告げ口を真に受けて瞬を誤解するようなことはしなかった。 というより彼は、そもそも星矢の ご注進の意味が理解できなかったらしい。 眉根を寄せて、彼は星矢に問い返してきた。 「おまえの日本語はよくわからない。『綺麗』というのは侮蔑の言葉なのか」 「ブベツ? ブベツって何だ?」 氷河は星矢の日本語が理解できなかったらしいが、星矢もまた 氷河の日本語が理解できなかったらしい。 もとい、星矢は、氷河が口にした日本語の一部――『侮蔑』という単語の意味を知らなかったのだ。 どこから何をどう見ても日本人そのものの姿をしている星矢が、どこから何をどう見ても日本人外の姿をした氷河より 日本語の語彙が乏しいという事実を、仲間として見兼ねるものがあったのか、通りすがりの(?)紫龍が脇から口を挟んでくる。 「『綺麗』という言葉は 人を馬鹿にする言葉なのかと、氷河は訊いているんだ。普通、それは褒め言葉だろう」 紫龍に解説に、瞬は ほっと安堵したのである。 紫龍が言うように、瞬は氷河を賛美するつもりで『綺麗』という言葉を使った。 当然 瞬は、それが 氷河を貶める言葉になり得るなどということを考えてもいなかったのだ。 が、星矢はそうは思っていなかったらしい。 彼は、真面目に不思議そうな顔をして、紫龍に反問していった。 「なんで『綺麗』が褒め言葉なんだよ? 男なら、『かっこいい』とか『たくましい』とか『強い』とかってのが褒め言葉だろ。『綺麗』は褒め言葉じゃないぜ」 「まあ……そのあたりは、人それぞれの考え方によるだろうな。氷河、おまえは日本語は大丈夫なのか? わかるのか?」 通りすがりの お節介な一般人を装って 瞬たちの会話に混じってきた紫龍も、実は 妙に目立つ新入りに興味がなかったわけではないらしい。 星矢の疑念を『人それぞれ』の一言で片付けて、彼は 日本語を話すことができるのかどうかを氷河に尋ねていった。――もちろん、日本語で。 「大丈夫なつもりだったが、今、その自信をなくした」 氷河も、もちろん日本語で答えてくる。 「ああ、星矢の日本語は気にしなくていい。星矢は、今時 珍しく、日本古来の伝統的な価値観を後生大事にしている奴なんだ。“男は男らしく、女も男らしく”」 「なんだ、それは」 紫龍の日本語もまた、氷河から自信を奪うようなものだったのかもしれない。 紫龍の説明を聞くと、氷河は僅かに その顔をしかめた。 そうしてから、その視線を瞬の上に据えて、 「女の子も男らしく?」 と、尋ねてくる。 瞬は、氷河の誤解に もちろんすぐに気付いたのである。 そして、もちろんすぐに彼の誤解を否定した。 「違うよ! 僕、女の子じゃないよ!」 「……」 自分の使う日本語に 大いに自信を失っていた氷河は、瞬が口にした日本語と、自分の目に映る瞬の姿との齟齬の中で、少しばかり悩むことになったらしい。 悩んで、彼は最終的に、瞬の姿より瞬の発言の方を採用することにしたようだった。 「すごく可愛いから、そうなのかと思った。悪い意味で言ったんじゃない」 「僕……」 いつもなら、女の子に間違われることも、『可愛い』と言われることも、瞬には全く嬉しいことではなかった。 だが、今ばかりは、氷河にそう言われても、不快になれず、腹も立たない。 天使は、その目に見えている世界も 色々な事象の感じ方も、人間とは違うのかもしれない。 となれば、氷河の誤解は、氷河自身のせいではなく、彼が人間とは違う目を持っているから起こることで、氷河にはどんな責任もないことである。 天使なのかもしれない氷河が相手なら、瞬は そう思うことができた。 その上、氷河は、 「気を悪くさせたなら、謝る」 と、重ねて瞬に謝罪してきた。 氷河に責任のないことで彼を責めることは、瞬にはできなかったのである。 「そんなことはないけど……気を悪くなんかしてないよ、僕」 「それは、氷河も俺たちと同じ目と感性を持っているということで、決して悪いことじゃないだろう。俺は紫龍だ。よろしくな。それから、あっちでおまえを睨んでいるのが一輝。瞬の兄貴で、瞬に近付く奴は それが誰でも とりあえず睨むことにしている奴だから、気にしなくていい」 「それが誰でも……? おかしな奴だな」 「まあ、瞬は見た目がこんなだし、ここには女の子が一人もいないから――いや、一人いることはいるんだが、そっちは、瞬のように気安くちょっかいを出せるような女の子じゃないもんだから、ここにいる者たちは皆、その手の潤いや優しさは瞬に求めるのが癖になっているんだ。へたな奴は、それで瞬を泣かせることもあるから、一輝としては気苦労が絶えないわけで――」 「それは……大変だな」 手を替え品を替え、言葉を替え表現を替えて、紫龍は『瞬が女の子に見えるのは普通』と主張していたのだが、氷河に気をとられていたせいで、瞬は そのことに全く気付かなかった。 瞬には、自分が人の目にどう映っているのかということなどより、もっとずっと気にかかることがあったのである。 紫龍と会話を成り立たせているところを見ると、氷河は 孤立が平気なだけで、積極的に孤立を望んでいるわけではないらしい。 その事実に力を得て、瞬は恐る恐る氷河に尋ねてみたのだった。 「あの……氷河は天使なの?」 「へっ」 勇気を出して瞬が口にした質問を聞いて素頓狂な声をあげたのは、氷河ではなく星矢だった。 「瞬。おまえ、なに急に馬鹿なこと言い出したんだよ? 天使だぁ?」 あの映画を寝ながら観ていた星矢には、瞬の言葉が いかにも唐突で突拍子のないものに思えたのだろう。 急に“馬鹿なこと”を言い出した瞬に、星矢は呆れたような顔を向けてきた。 「だって……あの……」 確かにそれは“馬鹿なこと”なのかもしれないと、瞬自身 思ったのである。 あの映画を観ることがなかったなら、自分は そんな疑い(あるいは期待)を抱くことはなかったのかもしれない――とも。 あの映画を観ていない氷河は、当然 星矢同様、自分の疑念を“馬鹿げたこと”と思うだろう。 そして、そんな“馬鹿げたこと”を口にした子供を、おかしな子供だと思うだろう。 “馬鹿なこと”を言葉にしてから その可能性に思い至り、瞬は いたたまれない気持ちになったのである。 氷河に そんなふうに思われてしまうことは、瞬には ひどく切ないことだった。 だが、瞬の懸念は不要のものだった。 瞬は、もう一つの可能性に気付いていなかったのである。 天使の映画を観ていない氷河に『あなたは天使なの?』と尋ねた子供が、急に“馬鹿なこと”を言い出す おかしな子供だと彼に思われない、もう一つの可能性。 つまり、氷河がもし本当に天使だったなら、瞬の質問は馬鹿な質問でも 的外れな質問でもなくなるのだ。 その可能性に、瞬は気付いていなかった。 瞬に『天使なの?』と問われた氷河は、瞬を“馬鹿なこと”を言う おかしな子供だと思った様子もなく、ごく自然に、 「マーマはそう言っていた」 と答えてきた。 「やっぱり!」 瞬は思わず歓声をあげてしまったのである。 胸の中にあった重苦しい不安は一瞬でどこかに消え去り、代わりに弾むような嬉しさが瞬の胸を占拠した。 馬鹿な質問に馬鹿な答え。 頬を上気させ瞳を輝かせている瞬と、真顔で自分は天使だと言ってのける氷河の姿を交互に見比べ、星矢が呆けた顔になる。 それから、星矢は その顔に、そんなことは到底信じられないという表情を浮かべた。 「マーマって何だよ。かーさんのことか?」 「そうだ」 「じゃあ、氷河のお母さんも天使なの !? 」 「……そうだったかもしれない」 気負い込んで尋ねた瞬に、氷河が唇を噛みしめて頷く。 その返事を聞いて、瞬の胸は 一層大きく弾み、その鼓動までが強く速くなっていった。 氷河だけでなく、その母親も天使だということが、瞬は嬉しくてならなかったのである。 美しい天使の母と子。 それで瞬が何を得られるというわけでもない。 瞬は、そんな美しいものが この地上に存在すること、自分が天使の側にいて、その姿を見ていられることが 素晴らしい幸運に思え、ただただ嬉しくてならなかった。 『じゃあ、氷河のお母さんも天使なの !? 』 『そうだったかもしれない』 天使だった(かもしれない)母を語る氷河の言葉が過去形であることの意味にも気付かず、瞬は、自分の側に天使がいてくれることを、その時には ただ喜んでいたのである。 |