急に“馬鹿げたこと”を言い出すようなことをしても、瞬は星矢たちの仲間のままだった。 当然のことながら、そんな瞬に“馬鹿な答え”を返したことは、氷河が星矢たちに仲間として認められることの どんな支障にもならなかった。 氷河が日本語を解することがわかると、他の子供たちも気安く氷河に声をかけられるようになり、氷河は徐々に城戸邸に集められた子供たちに仲間として認められ、受け入れられていった。 城戸邸では、何と言っても 体力と運動能力のレベルが その子供の立ち位置(地位と言ってもいい)を決定する。 氷河のそれは、瞬の兄や星矢や紫龍に劣らないもので、それだけでも十分に、氷河は城戸邸の子供たちから一目置かれる存在たり得たのだ。 そんな城戸邸の中で、瞬がかろうじて居場所を与えられていたのは、瞬の運動能力が優れているからではなく――瞬が一輝の弟だからだった(と、瞬は思っていた)。 その事実(?)に、瞬はしばしば引け目を感じてもいたのである。 瞬は、そのあたりの事情に通じてくれば、氷河もいずれは自分に対して そういう立場の者にふさわしい接し方をするようになるのだろうと見越し、覚悟もしていた。 つまり、みそっかすの落ちこぼれではあるが、城戸邸にいる子供たちの中で最も強い者の弟だから邪険にもできない――という態度を、氷河も自分に対して示すようになるだろうと、ある意味 諦めてもいたのである。 だが、瞬に対する氷河の態度は、時間が経っても変わらなかった。 瞬を軽んじることなく、他の子供たちと分け隔てなく――むしろ特別 親しく接してくれた。 やたらと天使の“マーマ”の話を聞きたがる瞬を鬱陶しがることも、氷河はしなかった。 天使との邂逅に浮かれ有頂天になっていた瞬も、やがて、氷河の母が既にこの世にはないこと――氷河を救うために氷河の目の前で死んでいったこと――を知ることになり、マーマの話を氷河に せがむのは遠慮した方がいいのではないかと思うようになったのだが、その時も 氷河は、『話したいんだ。瞬にマーマの話を聞いてもらいたい』と言ってくれた。 母を亡くし、人間たちの中にたった一人で残されてしまった天使の氷河。 その心は どんなに寂しく つらいものなのだろうかと、氷河の青い瞳に出会うたび、瞬の胸は痛んだのである。 少しでも氷河が寂しくなくなってくれるなら、そのためにならどんなことでもしたいと、瞬は思った。 思うだけで――実際に 瞬が氷河のためにできることなど 何一つなかったのではあるが。 明るく楽しい星矢と、穏やかで思慮深い紫龍と、強く優しい兄と、天使の氷河。 無条件で我が子に愛を注ぎ守ってくれる親のない子供たちが過ごす日々は、決して楽しいばかりのものではなかったのだが――むしろ つらいことの方が多かったのだが、それでも瞬は幸せだった。 つらいことがあっても慰め励ましてくれる仲間がいれば、それは必ずしも不幸な境遇とは言えない。 現に 瞬は、自分を特別 不幸な子供だとは思っていなかったのである。 自分が兄の重荷になっていることを嘆く時以外は。 瞬には兄がいて、仲間がいたから。 しかも、その仲間の中には天使までいる。 瞬は、城戸邸で確かに幸せな子供だったのだ。 聖闘士になるための修行と称するトレーニングを つらく感じ、心身に苦痛を与えられ、毎日泣いてばかりいても、それでも。 だが、瞬の幸福な時は長くは続かなかった。 城戸邸に集められた子供たちは、いずれ 聖闘士になるための本格的な修行に取り組むため、世界各地の修行地に それぞれ送られることになっていたのだが、その時が ついに やってきてしまったのだ。 その際に、瞬はまた兄に重い枷を負わせてしまった。 自分が引き当てた修行地に――そこに送られた者で生きて帰ってきた者はいないという死の島に――兄が弟の身代わりに送られることになってしまったのである。 自分のせいで兄が死んでしまうかもしれない。 そう考えるだけで、瞬の胸は潰れそうになった。 泣いてばかりいる瞬を 皆は慰め励ましてくれたのだが、今度ばかりは、仲間たちの慰めも瞬の涙を止めることはできなかった。 仲間たちに『おまえのせいじゃない』と言われるほどに、瞬の涙はますます あふれてくるばかりだったのだ。 止まらない瞬の涙がやっと止まったのは、氷河に、 「おまえは何を泣いているんだ。まさか一輝が死ぬとでも思っているわけじゃないだろうな」 と言われた時だった。 「奴が死ぬはずがないだろう。殺されても死なないような奴のことを心配している暇があったら、おまえは 自分が生き延びられるかどうかの方を心配しろ。おまえが泣いてばかりいたら、しまいには一輝も怒り出すぞ。瞬は俺のことを信用していないのかって」 氷河に そう言われた時、瞬の涙はやっと止まった。 というより、その時、瞬は泣くことを忘れたのである。 「兄さん……死なない……?」 「死なない」 「ほんと?」 「こんなことで嘘をついて何になるんだ。一輝は死なない。星矢も紫龍も俺も死なない。いいか、いちばん危ないのはおまえだぞ。この俺でも、おまえが必ず生きて帰ってくるとは断言できない」 「え……」 もし氷河に、『俺たちは全員が生きて帰ってくる』と言われていたら、それは気休めの言葉にすぎないと、さすがの瞬も思っていただろう。 『おまえが いちばん危ない』と『この俺』に言われたことで、瞬は氷河の言葉に信憑性を感じることになったのだった。 氷河はただの人間ではない。 氷河は天使なのだ。 未来を見通す目を、氷河は持っているのかもしれない――。 「兄さんは本当に死なない?」 「俺が心配なのは おまえだけだ」 氷河の その言葉で、瞬の涙は止まったのである。 心配なのは、危ないのは、おまえだけ。 天使が そう断言しているのだ。 生きて帰ってこれないのは自分だけに決まっている。 そう、瞬は思った。 「よかった……」 少しだけ、やっと笑うことができるようになり、瞬は実際に笑った。 氷河が、そんな瞬を心配顔で見詰めてくる。 「心配なのは おまえだけだ。 「ん……うん……」 氷河の期待には応えたいと思う。 それは、心の底から そう思う。 だが、瞬には、自分は必ず生きて帰ってくると 氷河に約束できるだけの自信がなかった。 兄や星矢たちとは違って 瞬は強くも たくましくもなかったし、なにより、『人に勝ちたい』 『人と争い、人を傷付けてでも生き延びたい』という気持ちを、瞬は どうしても持つことができなかったのだ。 氷河が心配しているのも 自分のそういうところなのだろうとは思うのだが、こればかりはどうしようもない。 兄や仲間たちと離れ、これからは一人で聖闘士になるための つらい修行に耐えなければならないのだということはわかっていても、だからといって、急に 戦いを好み、勝利と生に貪欲な人間になることは、瞬にはどうしてもできなかったのだ。 「ごめんね、氷河。僕、自信ない……」 「俺は、おまえが好きだ」 「えっ」 弱音を吐くなと叱責されることを覚悟して 氷河の前で項垂れた瞬に、氷河が突然 戦いにも瞬の生死にも関係のないことを告げてくる。 「離れ離れになる前に、言っておきたかった」 それは戦いにも瞬の生死にも全く関係のないことである。 瞬は、だから、氷河が突然そんなことを言い出した訳がわからずに、びっくりした。 ただ純粋に驚いた。 だが、瞬は すぐに思い出したのである。 人間であれば、その生死にも戦いにも関係のないこと。 しかし、それが天使にとっては その命に関わる重要な事柄なのだということを。 天使は人間に恋をすると死ぬ――と、あの映画に出てきた天使は言っていた。 『コイ』というものがどんなものなのかは瞬には よくわかっていなかったのだが、仲間や肉親に対する『好き』とは違う、何か特別な気持ちで誰かを好きになることなのだろうと、ぼんやりと察することはできていた。 天使が人間を好きになるということは、その天使の命に関わる重大なことなのだ。 もしそれが『コイ』というものであったなら。 だが――あるいは、幸いなことに――氷河は死ななかった。 人間になった気配もない。 氷河は初めて会った時と同じ、そして昨日までと変わらずに、相変わらず鮮やかな色と鮮やかな印象を保ったまま、瞬の前に立っていた。 氷河には何も変わった様子がない。 瞬に凝視されていることに気まずさを感じているのか、ほんの少し頬が上気しているだけで。 では、氷河の『好き』は『コイ』ではない。 氷河は死んだりしない。 氷河の上にどんな変化も現れていないことを確認して、瞬は ほっと安堵の息を洩らしたのである。 「僕も氷河が大好きだよ。本当は氷河と離れたくない。いつまでも 氷河やみんなと一緒にいたい。僕は――」 僕は、この鮮やかな色と鮮やかな印象を持った仲間に もう一度会うことができるだろうか。 氷河が語る天使の母子の物語を もう一度聞くことができるのだろうか。 地上に下りて、寄り添い支え合いながら生きていた天使の母子の物語は、花が咲き乱れる天上の楽園のそれよりも美しかった。 自分の命を守るために人を傷付け倒したいとは思わないが、氷河が語る美しい物語を もう一度聞くためになら、どんなことをしてでも生き延びたいと思う――。 「俺はおまえが好きだから、おまえにもう会えないなんて嫌だから、必ず生きて帰ってきてくれ」 天使も人間と同じように、別れを悲しく つらく感じるものなのだろう。 瞬は、天使に強く抱きしめられていた。 氷河の胸の中で、瞬は、氷河が人間の自分と同じ心を持っていることを『嬉しい』と感じていた。 同時にまた、『悲しい』とも思っていた。 だが、ともかく。 氷河の その心は『コイ』ではないから、氷河は死なない。 自分さえ生き延びれば――石にかじりついてでも生き延びれば、二人はもう一度 出会うことができる。 それが結論。 それが、瞬が再び幸せな時間を取り戻すための唯一の方策、唯一の道だった。 「僕は――もう一度 氷河に会いたい。僕は生きて帰ってくる」 自分に言いきかせるようにして 氷河と約束を交わし、瞬は、そうして 懐かしい兄、優しい仲間たち、瞬が知るただ一人の天使と別れたのだった。 |