人間たちが生きている この世界、この地上に天使はいない。
孤独に耐え、つらい修行に耐え、大人になり聖闘士になって日本に帰国した時、瞬はもう そのことを知っていた。
夏の眩しい陽光の色をした髪や夏の明るい青空の色をした瞳も、氷河ひとりだけが持つものではないのだということも、今では瞬は知っていた。
アンドロメダ島には、様々な色で その身を彩った子供たちが 世界各地からやってきていたから。
そもそもアンドロメダ島にいた瞬の師となる人が、氷河と同じ色の髪と瞳の持ち主だったのだ。

知ってもいたし、わかってもいるつもりだったのに、瞬の中にある『氷河は天使なのだ』という思いは消えなかった。
聖闘士になって帰国し、氷河と再会できた時、瞬は氷河に、二人が初めて出会った時同様、他の誰とも違う鮮やかな色と印象を感じずにはいられなかったから。
理性では、氷河は天使ではなく 自分と同じ人間だということはわかっている。
共に戦う聖闘士になって、天使ならこういう戦い方はしないだろうと思えるような氷河の戦いぶりを幾度も見せつけられて、瞬はその事実を認めないわけにはいかなくなった。
美しくないというのではなく――氷河の戦い方はいつも あまりに人間的すぎるのだ。
十二宮で その師と戦った時も、海底神殿で 共に修行をした かつての兄弟弟子と戦った時も、氷河は、瞬が驚き愕然とするほどに人間的だった。
氷河は、おそらく アテナの聖闘士たちの中で最も人間らしい人間だった。
氷河に比べたら、ただ己れの信じる正義のために迷いなくまっすぐ敵に挑んでいくことのできる星矢の方が、よほど超然としているとさえ思う。
だというのに なぜ、氷河は他の誰とも違うと感じるのか。
氷河は天使なのだという考えを どうしても捨てきれない自分が、瞬は不思議でならなかった。


「天使なんていないんだって わかっているつもりなんだけど……」
少なくとも天使は、コーヒーに『苦みが足りない』と文句をつけて、コーヒーより苦い顔になったりはしないだろう。
まさに その通りのことをしてカップをソーサーに戻した氷河を見やりながら、瞬は独り言のように呟いた。
「天使? 何の話だ」
耳聡く瞬の呟きを聞きつけた氷河が、顔をあげて瞬の方に視線を巡らせてくる。

陽射しは既に秋めいて やわらかいものになっている。
瞬を包む逆光は、夏のそれほど濃い影を作ることなく、ラウンジの窓際に立つ瞬の表情は、部屋の中央にいる氷河にもしっかりと見てとることができた。
もう子供とは言い切れない歳になっているというのに、幼い子供の頃同様、むしろ更に一層、瞬の姿は少女めいて優しいものになっている。

「あ、うん。氷河と初めて会った時のことを思い出したの」
「俺と初めて会った時?」
初秋の やわらかい光が あふれている世界。
二人が聖闘士でいる限り、二人の命をかけた戦いの日々は続いていくのだろうが、再び 戦いの時が訪れることを信じるのが難しいほど穏やかで平和な午後。
室内には星矢と紫龍もいたというのに(あるいは、いたからこそ)、氷河がその言葉を瞬に告げたのは、この優しく穏やかな時間が永遠に続くような錯覚に、彼が囚われていたからだったかもしれない。

「あの頃から、俺はおまえが好きだったんだ」
己れの人生を左右するかもしれない これほどの重大事を、これまで幾度も言おうとして そのたび瞬の澄んだ瞳の前で言葉にしきれずにいた思いを、信じられないほど容易に さらりと言ってのけた自分に、氷河は我が事ながら驚いてしまったのである。
氷河の告白を聞いた瞬は、その顔に 彼を包む陽射しよりも やわらかい微笑を浮かべた。
そして、瞬は、氷河の告白より 更に気軽に聞こえる響きの声で、
「僕も氷河が好きだよ」
と答えてきた。
「初めて氷河を見た時、氷河があんまり綺麗だったから、僕は、氷河は天使なんだと思い込んだの。あの日、僕は 天使の出てくる映画を見たばっかりだったんだ。その映画に出てくる天使たちは みんな 中年の男性の姿をしていて――宗教画とか彫像とかからイメージできる天使とはかけ離れた姿をしてた。だから なおさら、氷河に出会った時、僕は 氷河こそが本当の天使なんだって信じたんだ」
「なに?」

穏やかに、常にない平常心で恋の告白をしたばかりの氷河は、極めて穏やかで平素と変わらぬ口調でできた瞬のその答えを聞いて、少々 慌て戸惑うことになった。
「そうじゃない。そういう意味じゃなく……つまり、その、俺が おまえを特別に大切に思っているというか、特別に好きというか、つまり 愛しているという――」
「僕も、氷河のこと大好きだよ」
「いや、だから、子供の頃とは違う意味で――ああ、もっとも、あの頃も、俺はどっちかというと そういう意味で おまえを好きだったんだが――」
「うん。僕も、今も氷河が好き」
「いや、だから、そういう意味じゃなくてだな……!」
「ほんと、懐かしいね……」
「……」

幼い子供だった頃の自分たちの姿を探し求めるように、瞬が 秋の花が咲き始めた城戸邸の庭の方へと視線を転じる。
瞬のその態度の意味が理解できず、氷河は、恋の告白をした仲間に背を向けてしまった瞬の後ろ姿を 困惑の目で見詰めることになったのである。
瞬は この告白の意味と重要性がわかっていないのか、あるいは この話題を はぐらかそうとしているのか、それとも これは婉曲的な拒絶の返事なのか。
氷河には、どうにも判断ができなかったのである。

「瞬、あのな……」
「あ、アプローズの鉢を庭に出してる! あのバラ、すごく綺麗だよね。僕、見てくる!」
「瞬……!」
それでも めげずに、氷河は食い下がろうとしたのだが、氷河の焦慮と困惑を知ってか知らずか、瞬は突然 そんな氷河の脇をかすめて、軽快な足取りでラウンジを出ていってしまったのである。
恋の告白を華麗にスルーされて呆然としている氷河と、図らずも仲間の一人が仲間の一人に華麗に振られた(?)場面の目撃者にさせられてしまった星矢と紫龍とを、その場に残して。

「あー……そう気を落とすなって。おまえ、ちょっと色々 急ぎすぎたんじゃないか? 瞬は ものすごいオクテだし、なにしろ地上でいちばんの清らかさんってことになってるし」
さすがの星矢も、今ばかりは氷河をおちょくる気にはなれなかったのか、至極 真っ当な慰撫の言葉を仲間に投げてくる。
「うむ。星矢の言う通りだ。瞬は そもそも おまえの告白の意味が理解できていなさそうだったぞ。1、2年待って、そのあとに再度 挑戦してみた方がいいかもしれん。おまえが事を急ぐ気持ちはわからんでもないが、瞬には瞬のペースというものがある」
そして、紫龍も、星矢とほぼ同じ見解らしかった。

星矢と紫龍の意見は至極尤もだと、氷河とて思ったのである。
学童期、思春期を 聖闘士になるための修行三昧で過ごし、聖闘士になってからは 戦いに次ぐ戦い。
瞬は、これまで 情緒面での教育・育成に 優雅に自分の時間を割いている余裕はなかったに違いない。
と、思わないでもない。
だが、それは、筋力と食欲の育成にばかり時間を割いていた(と思われる)星矢にも容易に わかるようなことなのである。
瞬にだけ わからないというのは不自然にして理不尽だと、氷河は思った。

「俺も瞬も、もう子供じゃないんだぞ。いい歳をした男が、いくら可愛いといっても、一応男の瞬に好きだと言っているんだ。何かこう、もっと隠微なものを感じ取ってくれてもいいだろう!」
「なんだよ、その隠微なものってのは。だいいち、いい歳って、おまえは30、40のおっさんか? おまえが一人で勝手に助平なおっさんになるのは構わねーけど、俺たちまで巻き添えにすんなよな。俺たちはまだ青春真っ只中の10代の青少年なんだから」
「隠微でも耽美でもピンクでも何でもいい。とにかく 俺は瞬に惚れているんだ。なぜ それが瞬に通じないんだ!」
「通じる方がおかしいと思うが……。おまえのそれは、少々特殊なものだから、瞬も思いつかないのではないか? いくら瞬がああいう外見をしていても、男子が男子に そういう好意を抱くことは 一般的なことではない。まあ決してありえないことと断言すると、どこの団体からクレームがくるか わかったものではないから それは避けるが、しかし、それがマイノリティの嗜好であることは事実だ。瞬は地上で最も清らかな魂の持ち主だそうだし、瞬にはおまえの恋は想像を絶するものなんだろう。ごく自然に、瞬は おまえの『好き』を友情のことだと思い込んでいるんだろうな」

星矢の言うことにも紫龍の言うことにも、確かに一理はある。
しかし氷河は、一理二理のことなら、自分の主張にもあると思っていた。
「仮にも日本語を母国語にしている男が、男に 愛してるなんて言うかーっ !! 」
「なら、これはもう実力行使に出るしかないんじゃないか?」
ほとんど自棄になっているとしか言いようのない雄叫びをラウンジに響かせた氷河に呆れたのか、星矢が氷河に無責任極まりない解決策を提示してくる。
冷静な判断力を8割方 失っている氷河にも、下策中の下策とわかるほど、それは見事な愚策だった。

「聖闘士の瞬にか」
そんな策を思いつく仲間への軽蔑を隠しもせず、苛立たしげに氷河は星矢に反問したのだが、
「瞬が相手じゃ、返り討ちにされるだけか。やっぱ 実力行使は やめておいた方が無難だな」
星矢は むしろ、それで氷河が完全に理性を失っていないことに安心したらしい。
彼は、あっさりと彼の提案を取り下げた。
「だが、言葉で言って通じず、実力行使も不可能となると、対応のしようがないぞ。まあ、瞬はおまえのことを嫌ってはいないようだし、ここはやはり 瞬が大人になってくれるのを待つしかないのではないか」
「……」
『瞬はおまえのことを嫌ってはいないようだし』と紫龍は言うが、そして、実際 瞬は『僕も氷河が好きだよ』と幾度も言ってくれていたが、だからこそ 瞬に自分の心を理解してもらえないことが、氷河は やるせなくてならなかった。


瞬が白鳥座の聖闘士を嫌っていないというのは事実のようだった。
氷河の告白を華麗に やり過ごしてくれた翌日、瞬が罪のない笑顔で氷河を映画に誘ってきたところを見ると。
「Jミニシアターで、昔の映画の上映があるの。氷河、一緒に観にいってくれない? その映画、僕にとっては大切な思い出の映画なんだ」
「大切な思い出の?」
「うん。ほら、昨日 言ったでしょ。初めて氷河に会った日に、天使が出てくる映画を観てたって。あの映画なんだ。あの映画を観た直後に氷河に会ったから、だから、僕は あの時 氷河を天使だと思ったんだよ。あの……だめ? できれば僕、氷河と一緒に観たいんだけど……」
「……」

昨日 振ったばかりの男に、悪びれた様子もなく、それどころか 失恋男の機嫌を窺うように、些少とはいえ瞳に甘えや媚びをにじませて、瞬が上目使いに氷河の顔を見上げてくる。
癪であり、悔しくもあるが、それは氷河には抵抗も拒絶もできない可愛らしさと“お願い”だった。






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