夕餐の場でも、氷河はほとんど口をきかなかった。 他のメンバーが、人に対する気兼ねや遠慮を知らない星矢、気配りが服を着て歩いているような瞬、食卓での会話をそつなく こなせる紫龍、ホステス役に慣れている沙織という顔ぶれなだけに、氷河の無愛想が異様に目立つ。 同胞が同席しているというので、マイヤは彼女の祖国の話題を多く出してくれたのだが、肝心の氷河は それらをほぼ完全に無視してのけた。 食後も、いつもなら仲間たちと共にラウンジに移動するのだが、その夜に限って 氷河はさっさと一人で自室に引きこもってしまった。 彼は、沙織が 白鳥座の聖闘士の無愛想に渋い顔をしていることにも全く気付いていないようだった。 最初のうちは そういう氷河の態度を気にする素振りを見せずにいたマイヤも、それが数日に及ぶと、さすがに暗い顔になる。 本来は陽性の性質なのだろう彼女の沈んだ面持ちを見せられて、氷河の仲間たちは 仲間の無愛想に呆れ果ててばかりもいられなくなったのである。 「私は、彼に嫌われているのかしら……」 マイヤに しょんぼりした様子で そう言われ、瞬は慌てて大きく横に首を振ったのである。 彼女の気持ちを 氷河が、嫌えるほど深く知り合えていない相手を嫌うようなことはしない人間だということを、瞬はよく知っていたのだ。 「そうじゃないんです。氷河はもともと あんまり愛想のいい方じゃなくて、本人は認めようとしないけど、人見知りでもあるんです。それに、あの……マイヤさんは、氷河の亡くなった お母さんにそっくりなので――」 「ああ、そんなことを言っていたわね。そのせいなのかしら。沙織も、氷河に近付いて様子を見てほしいと言っていたわ。彼女、意味ありげに笑っているだけで、詳しいことは何も言ってくれなかったから……。でも、ということは、彼は私に会うたび、亡くなったお母様のことを思い出して つらいということ? 私は彼の視界に入らないようにしていた方がいいのかしら」 氷河と同じ色をしたマイヤの瞳が曇る。 沙織が友人として私邸に招くほどの人物なのだ。 彼女が人間的にも好ましい――優しく聡明な女性であることは疑いようのないことで、そんな彼女の沈んだ表情に出会うと、瞬は胸を痛めないわけにはいかなかった。 「氷河は本当はマイヤさんと お近付きになりたいと思っていると思います。ただ、マイヤさんが 亡くなったお母さんに似すぎていて、それが恐いのかも」 「恐い? なぜ恐がる必要があるの」 「まだ お若いマイヤさんにマーマの面影を重ねて見てしまうのは失礼かもしれないとか、氷河は そんなことを色々考えているんじゃないかな」 「そんなこと気にしなくていいのに。お母様の代わりでも、私は一向に構わないわよ。あんなに綺麗な息子がいたら、母親代わりに慕われても得意な気持ちになれるでしょう。――というか……」 自分が年下の少年たちに気遣われていることに気付いたらしいマイヤが、おそらく自分で自分に活を入れ、意識して自然な笑顔を作る。 そうしてから彼女は、ラウンジのソファに腰掛けている氷河の仲間たちの顔を ぐるりと見まわした。 「彼だけじゃなく、瞬ちゃんも星矢ちゃんも紫龍さんも――。沙織って、綺麗なオトコノコを集めるのが趣味なの? よくこれだけ個性的な美形を揃えたものね。みんな、頭も悪くなさそうだし、身体も鍛えてあって運動神経もよさそう。その上 仲間思いで優しい。母親としてでも、友人としてでも、恋人としてでも、あなた方と関わりを持てたら、それはとても嬉しいことだと思うし、得意な気持ちになれることだとも思うわ」 マイヤの得顔は、彼女の聡明と優しさを物語るものだった。 彼女を悲しませている氷河を、瞬は心の内で恨むことになったのである。 「マイヤさんみたいに お綺麗で優しくて聡明な方と知り合いになることができて、僕たちの方こそ とても幸運だと思っています。氷河は今ちょっと……反抗期の子供に戻っているんじゃないかな。突然マーマが現われたせいで」 「それはどうか知らねーけど、氷河がねーちゃんのこと意識してるのは確かだと思うぜ。誰かを無視するのって、意識してなきゃ できないことだろ。氷河としては、複雑な気分なんじゃないか? 山よりも高い理想と信じていたものが、突然 現実のものとして ぽかっと目の前に現われたんだからな。ねーちゃんがマーマに似てることが癪っていうか、何ていうか」 「氷河のマーマが氷河の理想なのは、彼女が氷河の実の母で、氷河を守るために その命を投げ出した人だからでしょう。決して 姿形だけのことじゃないはずだよ。氷河のマーマとマイヤさんは別の人なんだから、変に意識しなくてもいいのに……」 「そりゃ そーだろーけど、なにしろ、ねーちゃんはマーマに似すぎてるからなー」 氷河は マイヤ個人に嫌気を感じているのではなく、母に似ている女性に複雑な思いを抱いているだけなのだということを、瞬たちは畳み掛けるように言い募った。 そのせいでマイヤは、そこまで自分に似ているという氷河の母親に興味を持たずにいられなくなったらしい。 「そんなに私に似ている人、私、見てみたいわ……」 それは至って自然な望みだったろう。 むしろ、この話の流れで、氷河の母に無関心でいられる方がどうかしている。 だが、氷河の仲間たちは、マイヤの呟きを聞いて、難しい顔で視線を見交わすことになったのである。 たった一枚しか残っていない母親の写真。 氷河は それを、彼女の形見のロザリオ並みに大切にしていた。 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちにさえ、これまで1、2度見せてくれたことがあるきりだったのだ。 「氷河が写真を持っていて……見せてもらえないか頼んでみますけど……」 よほど うまく話を持っていかないと、氷河は依怙地になって写真の開示を渋るだろう。 あまり自信がなさそうな口調で瞬が そう呟いたところに、噂をすれば何とやら。 「瞬、いるか」 まるで会話のタイミングを見計らってでもいたかのように ラウンジに入ってきた氷河に、瞬は 今はむしろ間の悪さを感じることになった。 その場に瞬の姿を認めた氷河が、どう考えても、瞬の隣りに彼の仲間以外の人物がいることに気付いたせいで、むっとした顔になる。 氷河は、そして、不機嫌に苛立ったような仕草で、踵を返すことをした。 「氷河、僕に何か用があったんじゃ――」 「いいっ!」 瞬は慌てて氷河を呼びとめたのだが、氷河は そのままラウンジを出ていってしまった。 その場に残された氷河の仲間たちは、そんな氷河を、まるで物事が自分の思い通りに運ばないことに臍を曲げている幼児のようだと思ったのである。 この振舞いは、いくら何でも子供じみている――と。 「なんだよ、今のは! ねーちゃんの顔を見た途端!」 「いないと思っていた人がいたので、慌てて逃げ出したというふうだったな。氷河がマイヤさんを意識している――意識しすぎているのは事実のようだ。……が、それにしても今の態度は少々 露骨すぎるというか、あからさますぎるというか――。マイヤさんが自分の母親とは別人なのだということは、氷河もわかっているだろうに、大人気なさすぎる」 “母親代わりに慕われても得意な気持ちになれる”息子の露骨な忌避の態度に、マイヤは顔を強張らせていた。 マザコンで我儘な子供の他愛のない意地として この場を収めるべく、氷河を非難していた星矢たちは、彼女が無理に浮かべている笑顔が引きつり始めているのを見て、更に慌てることになったのである。 「瞬、おまえ、いっぺん、氷河に説教してやれって。おまえの言うことなら、氷河も少しは 聞く耳持つだろ」 「あ……うん……でも……」 瞬は、人を傷付けることが何より嫌いな人間である。 肉体的に傷付けることはもちろん、心を傷付けることも。 いわゆる身内である氷河が、心無い言動で善良な一般人を傷付けているとなれば、いつもの瞬なら、星矢に言われるまでもなく とうの昔に、氷河の非情と非礼を責めているはずだった。 にもかかわらず、瞬の答えは妙に歯切れが悪い。 瞬の鈍い反応を奇異に思い、星矢は瞬の上に視線を巡らせた。 そして、星矢は、そこに、氷河の冷淡な態度に傷付いている(はずの)マイヤより暗い顔をしている仲間の姿を見い出すことになったのである。 「瞬、どうかしたのか」 「あ、ううん。僕はどうもしてないけど……。僕じゃなく氷河が、いつもと違うなあ……って――」 「氷河が?」 「ん……。氷河は、いつもは、気に入らない人とか 好きになれない人は もっとさりげなく無視するでしょう。無視するっていうか、視界に入れることもしないっていうか――」 「だから、意識しすぎて ああなんだって言ってるだろ」 「その意識の仕方が――」 瞬が何を言おうとしているのかが わからず、星矢が顔をしかめる。 そんな星矢の前で、瞬は僅かに瞼を伏せた。 そうしてから、上目使いにマイヤの表情を窺い、やがて思い切ったように顔をあげて口を開く。 「あの……これは邪推というか、下種の勘繰りかもしれないけど――。マイヤさんは氷河のマーマにそっくりなんだよ。今のこの状況は、氷河にとっては、理想の人が血のつながりのない他人として目の前に現われたっていうこと。だから、あの……氷河は、もしかしたら、自分がマイヤさんに恋をしてしまうことを恐れているんじゃないかな」 「なに?」 「それで、恋することを恐れているっていうのは、もう半分以上 恋をしてしまっているということだと思う」 「――」 マイヤはもちろん、星矢と、さすがの紫龍までが、瞬のその言葉に驚き、言葉を失い、瞳を大きく見開くことになったのである。 瞬の推測をマイヤがどう思ったかは定かではないが、それは、星矢と紫龍には 斬新すぎ、突飛すぎ、奇抜すぎる考えだった。 彼等の意識では、それは決してありえないことであり、もちろん これまでただの一瞬も そんな可能性を考えたことはない。 だから――そんな可能性を思いついてしまえる瞬の顔を、星矢は正面から無遠慮に まじまじと見詰めてしまったのである。 あろうことか瞬は、冗談を言っているふうではなく、完全に真顔だった。 「そ……それはないだろ。だいいち、ねーちゃんは氷河より7、8歳は年上だろ。ねーちゃん、今 歳いくつだ?」 「26よ。もうすぐ27」 「ほら」 「いや、しかし、それくらいの年の差は、マザコン男には むしろ望むところなのかもしれないぞ」 自分には思いつけない可能性を思いついた瞬に感心したように言う紫龍の脇腹に、星矢が力の加減をせず右肘を のめり込ませる。 紫龍は肩眉と口許を引きつらせることで、呻き声を出すことを かろうじて回避することができたのだった。 星矢にも紫龍にも思いつかなかった可能性――彼等には決して“ありえないこと”であること。 しかし、瞬は、自分の推察をほとんど事実と確信しているようだった。 「あの……失礼ですが、マイヤさんには恋人や 特別な約束を交わした方はいらっしゃいますか」 「これだけの美人に恋人がいないと思う方が失礼だろう」 瞬の真顔に当惑していることを隠しきれていない様子の紫龍が、横から口を挟む。 その言葉を、瞬は無視した。 あるいは、瞬には本当に仲間の声が聞こえていなかったのかもしれない。 瞬は 真剣な目でマイヤを食い入るように見詰め、マイヤはマイヤで、瞬の真摯に 「残念だけど、私の恋人の名前はビジネスというの。またの名をマネー」 「じゃ……じゃあ、特別に仲のいい方はいらっしゃらないんですね? マイヤさんは、氷河のこと、どう思われますか」 「どう……って、それは、友人として? 息子として? 異性として?」 畳み掛けるように、だが、適正な順番で質問を繰り出す瞬に、マイヤが反問する。 マイヤが瞬に問い返してきたことこそ、瞬が尋ねたこと――瞬が知りたいことだったろう。 彼女が どういう目で氷河を見ているか。 同じ質問を、瞬は繰り返さなかった。 「そりゃ、すごく 「氷河は、気持ちも とても優しいです。なら、あの……」 「氷河をそういう対象として見てくれなんて、頼むんじゃねーぞ、瞬!」 「えっ」 瞬の一連の質問は、もちろん、その頼み事に至るまでの前提確認作業だったろう。 やっと目的地に辿り着いたと思ったところで 最後の一歩を星矢に妨げられ、瞬が まるで舌を噛んだような顔になる。 なぜ釘を刺されたのかが、瞬には わからなかったようだった。 やがて理解し(理解したつもりになって)、 「もちろん、そんなことは第三者が口出ししていいことじゃないっていうのは わかってるけど……」 と、言葉を濁らせる。 だが、星矢が瞬に釘を刺したのは、そんなことのせいではなかったのだ。 |