マイヤが氷河をどう思っているのかは、星矢たちにはわからなかった。
瞬の強力なプッシュに僅かなりとも心を動かされているのか、さすがに 7、8歳年下の氷河は 彼女にとっては管轄外なのか。
探りを入れても、マイヤは困った顔をして、答えを濁す。
はっきり『年下は管轄外』と言ってしまうと、仲間のために必死に努めている瞬を悲しませることになるのではないかと、マイヤはそれを案じているようだった。
だが、マイヤの思い遣りが本当に瞬のためになっているのかどうかを、星矢は怪しんでいたのである。
はっきり『年下は管轄外』と言ってくれれば、瞬も諦めがついて、氷河の失恋のショックを和らげる方向に 努力の内容を変更するようになったかもしれないし、逆に 氷河に『気がある』と言ってくれれば、瞬はそもそも 彼女に仲間を売り込む努力自体をせずに済むようになるだろう。
マイヤが その態度を明確にしようとしないせいで、瞬は徒労に終わるかもしれない努力をやめることができずにいるのだ。


そんな どっちつかずの状態に苛立ったのか、氷河がついに怒りを爆発させたのは、マイヤが城戸邸に来てから1週間ほどが経った頃。
彼女の日本滞在の目的だった薪能も終わり、明日には帰国の途に就こうという日の午後だった。
ラウンジにやってきた氷河は、これが最後の機会になるかもしれないと、それこそ必死の形相でマイヤをかき口説いている瞬の姿を認めるや、やにわに 怒りの大音声を響かせたのである。
「どうして、毎日毎日 朝から晩まで二人でいるんだ! 自分が俺の邪魔をしていることに気付いていないのか、おまえは!」
「え……」
氷河のためにマイヤにまとわりついていた瞬は、それがかえって氷河の恋路を妨げていたのだということに、氷河の その怒声で気付いたらしい。
瞬は 決して そんなつもりはなかったろうが、これまでの瞬が 氷河がマイヤに近付く機会、氷河がマイヤと二人きりになる機会を、氷河から奪っていたのは確かな事実だった。

「悪いが席を外してくれないか。大事な話があるんだ。星矢、紫龍、おまえらもだ!」
苛立ち、眉を吊り上げた氷河に退出を促され、瞬が掛けていたソファから のろのろと立ち上がる。
氷河のためにしていたことが 全く彼のためになっていなかったという事実に、瞬はすっかり気落ちしてしまっていた。
「ご……ごめんなさい」
しょんぼりと肩を落とした瞬が、項垂れてラウンジのドアに向かって歩き出す。
途端に氷河は、どこが笑いどころなのか わからない落語を聞かされた寄席の客のような顔になった。
慌てて瞬の腕を掴み、部屋を出ていこうとする瞬を引きとめる。

「瞬、どこに行くんだ」
「え?」
「大事な話があると言ったろう」
「マイヤさんにでしょう?」
「へ?」
氷河にとっては落ちのわからない落語が続く。
落語の落ちがわからないこと、洒落の意味を掴めないこと、ギャグの面白みが理解できないことほど、人を当惑させることはない。
その場に邪魔者たちがいることを忘れ、氷河は瞬に落語の落ちの説明を求め始めた。

「おまえは何を言っているんだ? なぜ俺が、こんな どこの誰とも知れない赤の他人に大事な話をしなければならないんだ。俺が大事な話があると言ったら、その相手はおまえに決まっているだろう!」
「え……? あの、でも……」
「理想の女に会えたら、その手を取れなんてなんて、おまえが 妙なことを言い出すから、俺はずっと、おまえの間違った考えを正さなければならないと思っていたんだ。なぜ、あんなことを言ったんだ。おまえは俺の気持ちをわかってくれているものと、俺は思っていた」
「だって……あの場で、僕に他に何が言えるの。理想のひとなんて探すのはやめて僕を見てなんて言えるわけないでしょう……!」
瞬が切なげに身悶えるように、氷河に訴える。
確かに、あの雨の日、あの話の流れの中で、氷河の理想の人を否定することは、瞬にはできることではなかったかもしれない。
なにしろ、氷河の“理想の人”は彼の“マーマ(に似た人)”なのだ。

「多分、そんなことだろうと思って――おまえは俺の気持ちをわかってくれていると 勝手に決めつけて、はっきり言わずにいたのがよくなかったんだと反省して、俺はおまえにちゃんと意思表示をしようと決意したんだ。そのタイミングを狙っていたのに、いつもいつも おまえの側に知らない女がいるから、俺は いらいらしっぱなしだった」
「知らない女……って……」
「いや、名前は知っているぞ。マイヤ・グリンベルク。沙織さんの客人だ。そのマイヤ・グリンベルクが、やたらとおまえに慣れ慣れしいから、俺は一層 焦っていたんだ。おまえは何というか――他人の好意をむげにできない奴だから」
「……」

つまり、氷河は、瞬がマイヤに好意を持ち始めているのではないかと心配し 焦慮の気持ちを募らせていた――ということらしい。
氷河はマイヤに恋をしているという、瞬の推測とは ほぼ真逆に。
というよりも、氷河と瞬は、全く同じことを それぞれ逆方向から案じていたものらしかった。
「どうして、そんな心配ができるの。逆なら……氷河がマイヤさんを好きになるのなら わかるけど――」
「おまえは本当に何を言っているんだ。なぜ 昨日今日知り合って、ろくに話をしたこともない相手に、俺が惚れなければならないんだ。おまえがいるのに」
「だ……だって、マイヤさんは氷河のマーマに似てるでしょう」
「なに?」

氷河が、落語の落ちどころか、日本語自体が理解できないような顔になる。
瞬が口にした日本語の意味を理解するために、氷河は 持てる思考力と国語力を総動員しなければならなくなったようだった。
そうして、1分以上の時間をかけて、瞬が口にした日本語の意味を なんとか理解したらしい氷河が、その次にしたことは、
「どこがだ?」
と、瞬に真顔で尋ねることだった。

今度 日本語がわからなくなったのは氷河ではなく、瞬の方。
瞬は幾度も瞬きを繰り返し、首をかしげ、更にその首を小さく左右に振り――とにかく、ひどく混乱しているようだった。
「どこが――って、面立ちも、雰囲気も、髪や瞳の色まで――」
「……」
瞬にそう言われて、氷河は その視線をマイヤの上に据えた。
思ってもいなかった展開に あっけにとられているマイヤを、まじまじと正面から観察し、やがて おもむろに眉根を寄せる。
「似ている……か?」

それでなくても困惑していた瞬は、氷河のその一言で恐慌をきたし始めていた──おそらく。
そのせいで、瞬の語気が いつもの瞬らしくなく ひどく強いものになる。
「だって……似てない? 似てるでしょう? 似てるよ! 星矢や紫龍だって、そう言ってた! マイヤさんは氷河のマーマに似てる。僕だけの思いすごしじゃないよ!」
「無礼なことを言うな! 俺のマーマはもっと綺麗――あ、いや」
氷河も一応、地上の平和を妨げるような邪心を持たない善良な一般人を侮辱する言葉を吐くのは よろしいことではないという常識くらいは持ち合わせていたらしい。
わざとらしい咳払いで 言いかけた言葉を途中で途切らせてから、彼は改めて瞬の方に向き直った。
「似てるもなにも、彼女は生きているじゃないか。マーマとは違う。同じ生きている人間なら、俺は断然 おまえの方がいい。おまえだけでいい」

考えるまでもない当然のことという態度と口調で 氷河は言うが、言われた側の瞬には、それは当然のことではなかったのだろう。
むしろ それはコペルニクス的転回。
瞬は、自分が 不動のものと信じていた大地が突然大回転を始めたことに慌てふためく17世紀のキリスト教徒にでもなったような錯覚を覚えているようだった。

「で……でも、マーマ――マーマは氷河の理想の人でしょう」
「無論、そうだ。だが、紫龍も言っていただろう。マーマは死んでいるから理想なんだ。だからこそ、心置きなく愛せる。死んだ人は 生きている人間と比較しなくて済むからな。俺は、生きている人間の中では、おまえがいちばん好きだ。おまえが、いちばん好きで大切だ。マーマはもちろん、俺の理想だが、おまえは理想以上だ。おまえは、会うたび、俺には思いつかないような美点や魅力を見せてくれる。そのたび、俺は自分の想像力の貧困さを思い知る。おまえは生きていて、毎日変化する。理想なんて、型に はまっていない。俺は毎日おまえを好きになっていくんだ」
「氷河……」
それは、恋の告白の機会を逸してばかりいた不運で間抜けな男にしては、上出来の告白だったろう。
氷河の言葉に大きく心を揺り動かされたらしい瞬の瞳に 涙がにじみ始める。

「僕も氷河には 驚かされる。僕はてっきり……」
「てっきり、なんだ」
「人は、理想通りの人に出会ったら、当然その人に恋するのだと思ってた」
「余人ならいざ知らず、この俺が そんな無意味なことをするわけがないだろう。おまえがいるのに」
「……」

高い理想を持ち、その理想に出会った際に、躊躇なく確実に理想の人を手に入れることの どこが無意味なのか。
瞬が 氷河の論理を一般的なものだと思うことができなかったのは確かなことのようだったが、その論理を受け入れられるか否かということは、瞬には あまり重要なことではなかったらしい。
瞬は、瞳を潤ませ、僅かに はにかんだ様子で、
「氷河の理屈はよくわからないけど、氷河が僕を好きでいてくれて嬉しい」
と 氷河に告げた。

長く望み続け、望んでいた通りの言葉に出会った氷河が、躊躇なく確実に 望んでいた人を 自らのものにしたのは 言うまでもない。
「そうか!」
瞬の答えを手に入れるや、炯々けいけいと瞳を輝かせ、一瞬のためらいも見せずに、氷河は、まるでトムソンガゼルに襲いかかるライオンのような勢いで瞬に飛びつき、その身体を強く抱きしめた。
もちろん、星矢や紫龍、そして 氷河の理想の人(と思われていた女性)がいる部屋で、彼等の注視を浴びながら、しかし、彼等の視線など 毫も意識していない様子で。






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