それでも、ヒョウガは諦めきれなかった。 フレアを問い詰めることを考えてもみたのだが、先ほどの舞台での彼女の様子を見た限りでは、フレアも シュンが自分の呼びかけに応えてくれる確信を持って あの場にいたのではないようだった。 フレアがシュンを呼び出したのではなく、フレアがシュンを求めた際に たまたまシュンがその場に居合わせて、彼女の問いかけに答えたという感じだった。 幸福や幸運や他人から与えられる親切に慣れており、他人への猜疑心を持たないフレアのことである。 彼女は シュンがどういう人間なのかを怪しんだり探ったりすることもせず、ただ自分に有益な助言を与えてくれる親切な人として その存在に感謝し、シュンに会えた幸運を喜んでいるだけであるに違いない。 やはり、“シュン”は 自分の目と足で探さなければならない。 だが、どうやって。 よい方策も思いつかず、初めてシュンの声に出会った裏庭に足を向けたヒョウガは、そこで 自分がフレアになってしまったような錯覚に襲われてしまったのである。 幸運が──あの歌声が、向こうからヒョウガの懐に飛び込んできた。 ミミのアリアを歌うシュンの小さな声が、月のない夜の庭のどこかから、ヒョウガの耳に聞こえてきたのだ。 フレアのように訓練して作った声ではなく、ただただ素朴で優しい声。 技巧的でない分、幸福への切ないまでの憧憬が まっすぐに胸に迫ってくる歌。 それを、どこかで聞いた声だとヒョウガは思い、やがて それは母の子守歌の響きに似ているのだと気付く。 ヒョウガは、できることなら、シュンに気付かれぬまま、この場でいつまでも その歌を聞いていたかった。 ヒョウガは、おそらく そうしていただろう。 彼の胸中に、シュンが何者なのか、どういう人間なのか、それを確かめたいという切迫した思いさえなかったら。 この歌声を中断させたくないという思いを無理に振り切って、ヒョウガはシュンを捉まえなければならなかった。 この歌声を 今夜だけでなく これからもずっと聞き続けるために。 夜の闇の中 そっと、懐かしい声の主に近寄っていく。 シュンの姿が闇の中に溶け込んでいるように見えるのは、彼が フード付きの黒いマントで全身を覆っているからだということに、やがて ヒョウガは気付いた。 頼りになるのは、小さな星の瞬きと、オペラ座の裏庭に面した幾つの部屋の窓から漏れる灯りのみ。 シュンの姿を見失わないように意識を集中し、獲物に近付く肉食動物のように 足音を殺し、気配を殺して、ヒョウガはシュンに近付いていった。 ヒョウガがシュンを捉まえることができたのは、シュンが自分以外の人間の気配に気付いて、その歌を中断し、後ろを振り返ろうとした時だった。 シュンの腕を掴み上げた その瞬間、ヒョウガは マントで覆われたシュンの身体があまりに細く小さいことに ぎょっとしてしまったのである。 (子供か !? ) 腕を掴み、ヒョウガはシュンを振り向かせた。 窓から洩れてくる灯りを反射させ、シュンの瞳が宝石のように輝く。 その一瞬の きらめきに、ヒョウガは息を呑んだ。 ひどく驚きはしたものの、比較的 短時間でヒョウガが平常心を取り戻すことができたのは、ヒョウガを驚かせた二つの輝きを シュンがすぐにフードで隠してしまったからだった。 シュンは、完全に子供というわけではないようだった。 おそらく、10代半ば か、もう少し上。 ヒョウガがシュンを異様に小さいと感じたのは、シュンが その身を覆っているマントが かなり大柄な成人男性用にしつらえられたものだったせいで起きた錯覚だったらしい。 マントから想定していた体格と、実際のシュンの体格には二まわりほど差異があった。 もちろん、それでもシュンが小柄なことに変わりはなく、栄養状態がよくないらしく かなり痩せているのも紛う方なき事実。 が、シュンは少なくとも恋ができないほど幼い子供ではない――ように、ヒョウガには思われた。 暗闇の中、顔ごと全身を隠しているせいで、 「君が、フレアの新しい先生か」 「な……何のこと」 問い返すシュンの声は、震えを帯びていた。 自分の今の振舞いが、驚きのせいで乱暴なものになってしまっていたらしいことに思い至り、ヒョウガは少々――否、かなり――後悔したのである。 初めて至近距離で聞くシュンの声は、それでも優しい響きを持っていて、ヒョウガの心を震わせた。 「フレアがそう言っていた。新しい先生についていると」 「先生なんて、フレアさんの冗談でしょう。僕は音楽も声楽も学んだことはないもの」 少女の声と子供の声の中間にあるような声。 成人ではないだろうと思ってはいたが、シュンは華奢な少女ではなく、痩せている少年――のようだった。 「だが、不遇な人間の心は知っている。フレアの知らなかったことだ」 「……」 ヒョウガのその言葉で、シュンは、彼が先ほどのフレアと自分のやりとりを聞いていたことに気付いたらしい。 人がそれをどう判断するのかを恐れて――もしかしたら傲慢な行為と なじられることを恐れて――シュンは口をつぐんでしまった。 「フレアは才能に恵まれ、その才能を伸ばす環境に恵まれ、技術を身につける能力にも恵まれた素晴らしい歌手だ。だが、すべてが形式的で上滑りで、多かれ少なかれ観客との感情の共鳴が必要とされるオペラ歌手には不向き」 もちろん、ヒョウガには シュンの為したことをなじるつもりなどなかったのである。 今 ヒョウガに腕を掴まれて恐れ震えている少年は、フレアとフレアの舞台に血を通わせるという偉業を成し遂げた、得難く優れた指導者なのだから。 「そのフレアの声に、君は深みを与えた。いや、フレアは多分、今でも幸せな お嬢様なんだ。ただ これまで知らなかった現実を知る機会を与えられ、想像力を駆使しただけだ。ただ それだけのことだ。だが、ただ それだけのことが、これまで どんな教師にもできなかった。彼女は、悲劇のエリザ姫さえ幸せな姫君にしてしまっていた」 「ぼ……僕はただ、望むものを手に入れることのできない人間の心を想像してみてと言っただけだよ」 「そう。彼女は、幸福をしか知らない人間だから。だから、真の同情心に欠け、罪がない」 それが物足りないのだ。 人の悲しみや苦しみを真に理解し、癒すことが、彼女にはできない。 自分は そんな幸福な天使と心を通わせ会うことができるような立派な人間ではないという思いが、フレアに近付くことをヒョウガにためらわせていた。 「今は――彼女は変わったよ。ちょっとだけ、以前とは」 「変わったと思って、彼女を好ましく思い始めていたが、そうではなかった。フレアの本質は変わっていない。彼女は彼女のままだ」 自分が好ましく思っていたのは、フレアではなく、この声の主だった。 望むものを手に入れることのできない人間の心を知っている、この小さな少年。 ヒョウガは今、自分の心を震わす恋の詩を書いた人が 美男子のクリスチャンではなく 大鼻のシラノだったことを知らされたロクサーヌの気持ちを味わっていた。 ロクサーヌのように、真実を知るのが15年もの長い年月を経てからでなくてよかったと、安堵の思いを抱いてもいたのである。 「フレアとの話を立ち聞きしていた。失礼だが、暮らしに困っているのなら、教師としての謝礼を、俺が君に支払おう。俺はこのオペラ座の出資者だし、フレアとは――親しい友人でもある。君の名はシュンでいいのか」 「僕はフレアさんに何も教えてなんかいないって言ったでしょう。僕は、人に何かを教えられるような立派な人間じゃない」 「しかし、君のしていることは、どんな教師にもできなかった素晴らしい指導だ」 「僕は……ずっと一人ぽっちだったから、誰かと友だちになった気分を味わってみたいと思っただけだよ。ただ それだけ。それがいけないことだったなら、ごめんなさい。もう しないから、この手を離して」 自分がどれだけ素晴らしいことをしてのけたのか、シュンは全く自覚していないようだった。 逆にシュンは、自分の犯した罪を弾劾されることを恐れる罪人のように顔を伏せ、ヒョウガの手から逃げようとした。 もちろん、ヒョウガは、その手を離すようなことはしなかったのである。 彼は、あの優しく懐かしい歌声の主の清らかな面差しさえ、まだ確かめてはいなかったのだ。 「君の家はどこだ? どこから 「……」 シュンの望みに反して、その腕を掴む手に更に力を込め、シュンに尋ねる。 シュンはびくりと肩を震わせた。 どうやらシュンは、正当な権利をもって ここにいるわけではないらしい。 どんな些細なことでも――シュンに関することを知るためになら、その弱みにつけこむこともしてやろうと、ヒョウガは思ったのである。 「俺は、このオペラ座の出資者だと言ったろう。もし君が その権利もないのに勝手に このオペラ座に入り込んでいるのだとしたら、俺には君の言い分を聞く権利と義務があると思うが」 脅すつもりはないし、シュンにひどい男だと思われたくもない。 ヒョウガはただ、シュンが何者なのかを知ることもできないまま、再び会えるという保証もない状態で、シュンと別れてしまいたくないだけだった。 ヒョウガの、不本意ではあるが明瞭な脅しに、シュンは屈する以外の術を持っていなかったらしい。 観念したように、シュンは その腕と肩から力を抜いた。 「オペラ座には……誰が どんな意図をもって作ったのかは知らないけど、外につながる秘密の抜け道が幾つもあるの。もしかしたら、オペラ座の建築に携わった工夫が 自分が忍び込むために こっそり作ったのかもしれないし、何かあった時の逃げ道として、偉い人の指示で作られたものなのかもしれない。本当のところは僕も知らないんだけど……。僕は、去年の冬、いよいよ部屋代が払えなくなって、それまで住んでいた部屋を追い出されて――。ここなら冬でも凍えることはないし、お風呂や――あの……着る物もたくさんあるでしょう。ここでは、使わなくなった古い衣装はすぐに捨ててしまうから」 ヒョウガが改めて見ると、シュンが身に着けているマントは『ドン・ジョヴァンニ』の騎士団長の石像がまとうマントだった。 なるほどシュンには大きすぎるはずである。 ヒョウガは、捨てられるはずの舞台衣装をシュンが許可なく着用していることを責めようとは思わなかった。 むしろ、どうせ古い舞台衣装をその身にまとうのなら、『フィガロ』のケルビーノの衣装、あるいは いっそミミの衣装でも着てみせてくれればよかったのにと、そんなことを考えたのである。 「そんなにびくびくしないでくれ。警察に突き出したりはしない。俺としても、君に授業料を払えなくなるのは困るから」 「あ……」 ヒョウガのその言葉に安堵したらしい。 シュンは、短く小さな吐息を洩らした。 シュンは、声だけでなく、その吐息までが優しく可愛らしい。 黒いフードで覆われているシュンの顔を見てみたいと、ヒョウガは痛切に思ったのである。 やっと怯えの色を消してくれたシュンに無理強いもならず、邪魔なフードを払いのけたいという自らの衝動を、ヒョウガは必死に抑えつけた。 「僕は、それまでは街角で歌って小銭を稼いで、何とか暮らしていたの。今もそうしてる。本物の歌手ってどんなものだろうって興味があったから、時々オペラ座の舞台を覗き見てたんだ。フレアさんは いつもとても上手だったよ。声も姿も綺麗で。喜劇や軽いオペレッタはともかく、不幸な人間を演じる時には違和感があったけど、高貴な お姫様の感情を抑制した姿なんだと思えば、何とか聞いていられた。でも、ミミは あんまり不自然で――聞いている人たちも、悲劇なのに誰も悲しんでいなくて変だと思ったんだ。だから、僕、ちょっとだけ、ミミの気持ちがどんなものなのか、フレアさんに言わずにいられなくなったの。僕は人に教えられるような知識や技術は持っていないよ」 「しかし、現に――」 「逆に、僕、嬉しかった。僕が人前に姿を見せられないのは、僕がとても醜くて、人に好かれることや友人を持つことなんて許されない人間だからで――。なのに、そんな僕の話をフレアさんは真面目に聞いてくれた……」 本来ならオペラ座に入ることも、そのオペラを聞くことも許されない人間を蔑むことも排除することもせず、その話を聞いてくれたフレアに、シュンは心から感謝しているらしい。 それはフレアの優しさや寛大さではなく――彼女はただ、人を蔑んだり差別したりすることを知らないだけなのだということに気付きもせずに。 ヒョウガは、だが、シュンの誤解を あえて解こうとは思わなかった。 誤解したままでいた方が シュンは幸せでいられるだろうと思ったからではなく――そんなことより他にもっと気にかかることがあったから。 「君が醜い? そんなことはないだろう。君は、君を自由にしようとした男がいたとフレアに言っていた。人に顔を見せられないほど醜い少年にそんなことを言う酔狂な男はいまい」 「僕が醜くなったのは、1年前だもの」 「1年前?」 去年の冬に、それまで住んでいた部屋を追い出されたと、シュンは言っていた。 ということは、シュンは1年前に突然醜くなり、それからしばらくして部屋を追い出され、このオペラ座に隠れ住み始めた――ということになる。 いったい1年前、シュンの身に何が起きたのか。 この清らかな声の持ち主が、人前に姿を出せないほど醜いということが 本当にあり得るのか。 にわかには信じ難い気持ちで、ヒョウガはシュンに尋ねた。 「……事故にでもあったのか」 「事故だったら、どんなにいいか」 呟くように そう言って、シュンがマントを深くかぶり直す。 「ごめんなさい。聞いても楽しい話じゃないよ」 それは おそらく、語るのも楽しい話ではないのだろう。 ヒョウガは、楽しくない話をシュンにむりやり語らせることはできなかった。 何といっても、ヒョウガが心惹かれたのはシュンの容姿ではなく、その声なのだ。 シュンの姿が醜いという事実(?)を聞かされても、シュンに惹かれるヒョウガの心が変わることはなかった。 「俺はヒョウガという。俺はまた君に会いたい。君の歌をまた聞きたい」 「フレアさんの声の方が綺麗だよ」 「だが、惹かれるのは君の声の方だ」 「……」 ヒョウガのその言葉をシュンが どう受けとめたのかは、ヒョウガにはわからなかった。 仮にも歌を 失われた美貌を悲しんだのかもしれない。 ヒョウガの望みを叶えないことで住まいを失うことを恐れたのかもしれない。 ヒョウガとまた会うことを約束すれば、オペラ座を追い出されずに済むのかもしれないという打算を働かせることをしたかもしれない。 あるいは、そのすべてだったのかもしれない。 いずれにしても、最終的にシュンに、 「雨の日は外で歌っても商売にならないから、オペラ座でずっと雨宿りしてるよ」 という言葉を言わせたのは、“ずっと一人ぽっちで、誰かと友だちになった気分を味わってみたかった”シュンの中にあった人恋しさだったのだろう。 翌日、ロンドンでは珍しく腹が立つほど晴れた青空の下で、シュンが外に出て歌っているのなら、街に出て捜してみようかと考え始めていたヒョウガの前に、まるでヒョウガがオペラ座にやってくるのを待ちかねていたかのように、シュンが姿を現わしたところを見ると。 |