「あの……僕、人に見せられるような姿をしていないから、昼間は歌ってないの。マントで顔を隠して、夕暮れに歌ってるの……」
決して嘘ではないのだろうに、シュンは ほとんど言い訳を言うような口調と素振りで、ヒョウガに そう告げてきた。
シュンは――シュンもヒョウガに会いたいと思ってくれていたのだ。
“ずっと一人ぽっちで、誰かと友だちになった気分を味わってみたかった”シュンは。
会いたい気持ちの理由が、好意ではなく孤独感だったとしても、ヒョウガはシュンに再会できたことが嬉しかった。
むしろ、シュンの会いたい気持ちの理由が 好意ではなく孤独感なのだろうことが、ヒョウガの胸を切なくさせた。

「会えて嬉しい」
「……」
『僕も嬉しい』とは、シュンは言ってくれなかった。
もしかしたらシュンは、昨夜の別れから半日も経たないうちにヒョウガの前に姿を現わしてしまった自分の気持ちがわからずにいたのかもしれない。
シュンは むしろ、そんなことをしてしまった自分自身を訝っていたのかもしれなかった。
相手は、自分を このオペラ座から追い出す権利を持つ男。
身を隠したまま 二度と会わずにいた方が我が身の安全を図ることができるというのに。


夜の公演が始まるまで、まだ5、6時間は間がある。
オペラ座で昨夜晩くまで立ち働いていた者たちは、今頃やっと自宅で目を覚ました頃だろう。
明るく晴れた秋の日の午後、オペラ座の裏庭は驚くほど静かだった。
今日も黒いマントで全身を覆い隠したシュンは、庭の木立ちの陰に隠れるように ひっそりと立っている。
二人の間に横たわる空間の距離は4、5メートルほど。
もっとシュンの側に近付きたいのだが、夜の闇の中ならともかく 明るい陽射しの下では、自分の醜さを恐れているシュンは、ヒョウガに これ以上の接近を許してくれそうになかった。
自分が 今いる場所から一歩でも動いたら、すぐにでも逃げていってしまいそうなシュンに、ヒョウガは仕方がないので その場から動かずに尋ねるしかなかったのである。

「金色の眠りが 坊やの目にキスをした――という子守歌を知っているか」
「うん。時々、下町のおかみさんたちが歌っているのを聞く」
さもありなんと、ヒョウガは思ったのである。
それは有名な作曲家が作った歌ではない。
もちろん、著名なオペラの劇中歌でもない。
それは庶民の子守歌、昔から伝わる この国の民謡だった。
「歌ってくれないか。母がいつも歌ってくれていた歌なんだ」
ヘレフォード子爵の母親が そんな歌を知っていることに、シュンは少なからず驚いたようだった。
僅かに首をかしげ、ためらい、やがて思い切ったように歌い出す。

   金色の眠りが 坊やの目にキスをした
   きっと、坊やは微笑みの中で目覚めるでしょう
   だから お眠り、私の可愛い坊や
   泣かないで
   ママが子守歌を歌ってあげる――

懐かしい調べが、澄んだ秋の空気を温かく揺らす。
飾り気のない声。
ただ 愛と優しさだけでできた声。
二度と聞くことはできないだろうと思っていた子守歌に触れる幸福と切なさで、ヒョウガは胸が詰まったのである。
不覚にも泣きそうになり、ヒョウガは慌てて 自身に活を入れた。
歌が終わっても、すぐには うまく言葉を紡げず、声も出せず、ヒョウガは、
「ありがとう。懐かしかった」
と礼を言うだけで精一杯だった。
できることなら、『ありがとう』と告げるより、シュンの側に行き、その身体を抱きしめたかったのであるが。
今はもう そうすることの叶わない母の代わりに。

「僕、歌はへただよ。フレアさんに比べたら」
「それは俺の母に対する侮辱だ。俺の母も君のように歌ってくれたんだ。優しく」
この歌を、こんなふうに歌える人の前で虚勢を張って 何になるだろう。
母を忘れられぬ女々しい男。
英国貴族にあるまじき、感情抑制力の欠如。
嘲られ侮られても構わない。
どうせ俺は ご立派な貴族様ではないのだと、ヒョウガは半ば以上 開き直って シュンに告げたのである。
「おまえをさらって行きたい。毎晩、この歌を歌ってもらいたい。俺の髪を撫でながら」

馬鹿なことを言う男だと軽蔑されることを覚悟して口にした本心。
フレアなら おそらく、そんなことを口にする 歴とした成人男子、しかも英国貴族に、驚き 瞳を見開くばかりだったろう。
だが、シュンは違っていた。
軽蔑した様子もなく――大の男の弱音に驚きはしたのだろうが――自分を破滅させる力を持つ男、できれば側に近付きたくない男に自ら歩み寄り、シュンは おずおずとではあったが、その手をのばしてヒョウガの髪を撫でてくれたのだ。

白い小さな手。
これまでのシュンの日々は 苦労の連続だったのだろう。
シュンの手は、決して、フレアのそれのように なめらかなものではなかった。
だが、白く可愛い手だった。
ヒョウガには そう見えたし、そう感じられた。

「おまえが醜いというのは嘘だろう?」
なぜ そんなことを訊いてしまったのか。
だが、この可愛らしい手、優しい声の持ち主が、人目に さらすこともできないほど醜悪な姿をした人間なのだとは、ヒョウガにはどうしても思えなかったのだ。
初めて出会った時に 一瞬間だけ垣間見ることのできた瞳の輝き。
母のように優しい声、母のように優しい手の持ち主が 醜い人間であるはずがない。
しかし、シュンは、ヒョウガの前で力なく その首を横に振った。

「そうだったらどんなにいいか……。僕、鏡で自分の顔を見て、その醜さに驚いて――それから一度も自分の顔を見ていないの。恐くて――僕の顔、それくらい ひどいありさまだったよ。ヒョウガはいいね。美しくて。少し寂しそうだけど」
「寂しそう?」
「寂しいんでしょう? そう見えるよ」
「……」
ここまで醜態をさらしておいて、今更 体裁など気にしても仕様がない。
自分を寂しい男だと思ったことは これまで一度もなかったのだが、シュンにそう見えるのなら そうなのかもしれないと思わないでもない。
ヒョウガは、シュンの前で皮肉な笑みを作った。

「誰もが俺を羨むぞ。美貌、健康、財産、爵位。ヘレフォード子爵には欠けているものはないのかと」
「なら、僕の感じ方が変なのかもしれない」
「……」
シュンの感じ方が変なのではない――と、ヒョウガは思った。
かといって、シュン以外のヒョウガを羨む者たちの感じ方がおかしいわけでもない。
地位や財産や家族、友人、恵まれた環境によって身につけることのできた才能――そういった付随的な事柄をすべて取り除いた人間は、誰もが孤独で寂しいのだ。
シュンは そういったものを取り除いて人を見ることができ、シュン以外の人間は そうすることができない。
どちらが間違っているわけでもなく、それだけのこと。
そして、ヒョウガは、すべてを取り除いた状態の自分を見てほしいと願うタイプの人間であるというだけのことだった。

「……たとえば、母がいない。それが俺の寂しさの理由だと言ったら、おまえは俺を笑うか」
ヒョウガが問うたことに、ヒョウガの予想通り、シュンは首を横に振った。
「そんなことないよ。僕にも兄さんがいて――そして、失った。大切な人を失った心の空洞は誰にも埋められないよね……」
昨日までのヒョウガなら、シュンの その寂しげな呟きに、一も二もなく賛同していただろう。
だというのに今、『俺が!』とシュンに叫んでしまいそうになっている自分に気付き、ヒョウガは そんな自分に ひどく驚くことになったのである。
そんな自分に驚き、戸惑い、そしてヒョウガは口をつぐんだ。

「兄さんは僕のせいで死んだの。僕がたちの悪い肺炎を患って、その治療費を手に入れるために、兄さんは在印英軍に志願して、兵士としてインドに向かった。僕は陸軍から支給される手当てで薬代を払って、半年くらい療養して――それで僕の病は癒えたんだけど、その頃には兄さんからの連絡が途絶えていて――。僕、不安になったから国防省の事務局に行ったの。そこで僕は兄さんが事故で死んだことを知らされたんだ。その日だよ。僕が自分の醜さに気付いたのは。鏡を見たら、病気のせいで、僕の顔は引きつり歪んでいた。ううん。本当はもっと前からそうだったんだと思う。でも、それまでは兄さんがいて、いつも僕を優しい目で見ていてくれたから、自分が醜くなってるなんて、僕は気付いてもいなかったんだ。兄さんの死で少しばかりの一時金が出て、僕はそれで何とか部屋代を払ってたんだけど、そのお金もなくなって、結局僕は それまで暮らしていた部屋を追い出された。それで……行き場を失ってオペラ座に潜り込んだの」

「そうか……」
「おかしいでしょう。兄さんは僕のせいで死んだんだよ。僕が一人で生きていたって何にもならない。兄さんだけが僕の醜さも平気で、兄さんだけが僕を愛してくれた。兄さんに会いたい、兄さんのところに行きたいって思う。本当に、心からそう思う。なのに僕は死ねなくて、死ぬのが恐くて、生き永らえるために、悪いことだってわかってるのに こんなところに潜り込んで、おめおめと生き続けているの。ほんと、おかしいよ。兄さんがいないのに……幸せになんか なれっこないのに」
涙ながらにシュンが訴える その言葉にも、昨日までのヒョウガなら 一も二もなく頷いていただろう。
それは、母を亡くしてからずっとヒョウガが抱き続けていた思いと 全く同じものだったのだから。

「俺の母は、父の愛人だったんだ。金にものを言わせて若い愛人を囲い、子まで成したのに、親族に責められて、父は あっさり母を捨てた。その報いを受けたんだろう。父は、正妻と一緒に旅行に出た先で、乗っていた馬車が自動車と衝突事故を起こし、あっけなく死んだ。跡継ぎがなかった子爵家は俺を引き取ることを考え、母から無理矢理 俺を奪った。幼い子供を抱えて、それでも貧しい暮らしに耐えていた母は、子爵家に俺を奪われて 間もなく亡くなった。俺が母の死を知らされたのは、母の死から1ヶ月も経ってからのことだった」
母から引き離されて約1年後、その時 ヒョウガは10歳になっていた。
子供ながらに分別がつき、自分以外の人間の心を察することもできるようになっている歳である。
実際 ヒョウガはそれを察したのである。
母の悲しみ、祖母の自尊心、父の弱さ――。

「俺が愛人の子だと、知っている者は知っている。祖母が俺とフレアを結婚させようとしているのは、名家の令嬢を迎えて、子爵家に流れる血から 少しでも下賎の女の血を薄めたいと考えているからなんだ」
そんな祖母の考えがわかるから、ヒョウガは、祖母曰く『この素晴らしい結びつき』に乗り気になれずにいたのだった。
その話に最も乗り気なのは、事故で息子を失った不幸な母親。
ヒョウガにしてみれば、母の仇とも言える前々ヘレフォード子爵夫人。
息子を失う母の悲しみを知っているはずなのに、母から息子を奪うという冷酷をしてのけた、子爵家の存続のみを恋い願う 権高い老婦人だった。
ヒョウガには、血のつながった肉親である彼女が、一種の化け物のように感じられて仕方がなかったのである。

「貧しくても、母と二人で暮らしていた時が いちばん幸せだった」
「うん……そうだね」
言葉少なに、シュンが小さく頷く。
それが形ばかりの同情ではないことが、ヒョウガにはわかっていた。
シュンは、不幸を知らないフレアとは違う。
子爵家の存続を すべてに優先させる祖母とも違う。
ヘレフォード子爵の恵まれた境遇を羨む誰とも違うのだ。

「いつも守られているばかりで……いつか僕が兄さんを守れるようになりたい、僕が兄さんを幸せにするんだって、叶わぬ夢を見ていた」
「ああ」
同じ夢を夢見、同じ心を持っている人。
母と同じ子守歌を歌える人。
シュンに、どうして心惹かれずにいられるだろう。
どうすれば、一緒にいて幸福になれる相手はシュンだけだと感じずにいられるのか、その方法がヒョウガにはわからなかった。






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