シュンと共にいるためになら、今となっては血のつながった ただ一人の肉親である祖母も、彼女への愛憎も、フレアの立場も、母の無念も、ましてや、生涯の安楽を約束する子爵の地位や 社会的な体裁など どうでもいい。 そう ヒョウガが思うようになるのに、さほどの時間はかからなかった。 それは、シュンも同じだったらしい。 それでも、ヒョウガは、ひと月の間、自分の心に向き合い、様々な思いを重ねたのである。 シュンに向かう自分の情熱が抑え難いことはわかっていた。 ヒョウガが恐れていたのは むしろ、兄を死なせたことへのシュンの罪悪感と、それゆえの臆病だったかもしれない。 傷付いているシュンの心を癒すことが自分にできるのか――ヒョウガの心は、何よりもそのことを懸念していた。 だが、もはや離れることはできない。 一人では生きていられない。 ヒョウガが その思いをシュンに告げたのは、フレアの2ヶ月間の『ラ・ボエーム』の公演が終わり、次の『トリスタンとイゾルデ』の練習が始まった頃だった。 「好きだ」 と告げ、 「二人で逃げよう」 と誘う。 ヒョウガが案じていた通り、臆病なシュンは首を縦に振ってはくれなかった。 もっとも、シュンの拒絶の理由は、ヒョウガが想像していたものとは全く違っていたが。 「僕もヒョウガが好きだよ」 と、シュンは言った。 そして、 「だから、僕は、ヒョウガが僕の醜さに耐えられず、僕から顔を背けるのを見たくない」 と、シュンは悲しそうに訴えてきたのだ。 「おまえがどんなに醜くても、俺は――だいいち、俺が好きになったのは おまえの姿じゃない」 出会った時からずっと、顔など見ず、その声と言葉と心に恋心を募らせてきたのだ。 シュンが そうしたいと望むなら、一生 その顔を見せてもらえないままでも構わないとさえ、ヒョウガは思っていた。 だが、シュンは、自分の醜さを何よりも恐れていたらしい。 今更なぜ、シュンがそんなことを気にするのか、ヒョウガには全く理解できなかった。 「シュン、俺はおまえが好きだ。おまえと離れたくない。いつも一緒にいたい。それだけなんだ。おまえの外見の美醜など、俺は気にしない」 「ヒョウガがそんなことを言えるのは、ヒョウガが僕の顔のおぞましさを知らないからだよ」 「そんなことはない。現に俺は――」 顔を見せてくれない おまえに恋し続けてきた――と言おうとしたヒョウガの唇を、シュンがその指で触れ押しとどめる。 「フレアさんみたいに綺麗な人が側にいるのに、なにも自分から化け物と一緒にいることを望む必要はないよ。フレアさんと僕と、どっちがヒョウガを幸せにできるのかなんて、考えるまでもないことでしょう」 シュンの細い指にキスをして、ヒョウガはシュンの言葉に頷いた。 「確かに考えるまでもないことだ。俺が幸福になるには、おまえが――おまえだけが必要だ」 「僕は!」 ヒョウガがシュンの臆病を憂い案じていたように、シュンもまた、ヒョウガの幸福と不幸を案じ続けていたらしい。 これまで決して外そうとしなかった黒いフードを、シュンがヒョウガの前で取り除いてみせたのは、おそらくヒョウガの幸福を願ってのことだった。 ヒョウガを不幸にしないために、シュンはそれをしたのだ。 シュンが 黒く重たいフードを外し、 「僕は こんなに醜いんだよ!」 と叫んだのは、ただただヒョウガの幸福を願ってのことだった。 だが――ヒョウガは、自分が何を言われたのか、シュンが何を言っているのかが、全く わからなかったのである。 黒いフードが取り払われ、二人の間に遮るものがなくなった その時、ヒョウガの目の前に出現したものは、なるほど その趣味のない者でも自分の自由にしたいと望むだろうと得心できるもの。 美しく清楚な面差し、白く なめらかな肌、やわらかく波打つ髪、薔薇色の唇、誰にも犯されたことのない泉の水面のように澄んだ瞳――だったのだ。 シュンはフレアより美しかった。 ヒョウガが知る どんな貴族の令嬢、令夫人より美しかった。 理想化され美化されているのだろうと自覚していた記憶の中の母より美しいとさえ思った。 初めて出会った時、一瞬だけ垣間見た美しい瞳は、今、涙という宝石で飾られ、更に輝いている。 焼けただれたゴムのような面差しさえ想像していたヒョウガは、自分の想像と現実の違いに言葉を失ってしまったのである。 想像していたものがひどすぎたということはないだろう。 そうではなく、実際のシュンが美しすぎたのだ。 その美しい人が、言葉もなく その場に立ち尽くしているヒョウガを、涙をためた澄んだ瞳でヒョウガを見詰めてくる。 そして、 「悲鳴をあげないでいてくれて、ありがとう。それだけで嬉しい。さようなら」 と告げるなり、踵を返し駆け去っていく。 想定外もいいところの、この展開。 いったい何がどうなって こうなるのか、ヒョウガは まるで訳がわからなかった。 あまりのことに、ヒョウガは、シュンを追いかけることさえ思いつかなかったのである。 はっと我にかえり、自分は何を阿呆のように ぽかんと口を開け、芸もなく突っ立っているのだと思うことを、(遅ればせながら)する。 だが、その時には既に、シュンの姿はヒョウガの視界から消えてしまっていた。 オペラ座の庭のどこにも、シュンの姿はなかったのである。 |