思いがけない別れを迎えた その時から、ヒョウガは毎日オペラ座に通い、毎日シュンと語らっていた裏庭で、朝となく昼となく夜となく、シュンを求め、シュンの名を呼び続けた。
だが、シュンは二度と再び、ヒョウガの前に姿を現わしてはくれなかった。
なぜあの時、せめてもう少し早く正気にかえってシュンを引きとめなかったのかと後悔しても、後の祭り。
すぐにシュンを追いかけなかった自分を、ヒョウガは幾度も強く責めた。
が、それも致し方ないことだったという気持ちも、ヒョウガの中にはないではなかった。
シュンの言動は、ヒョウガでなくても――神にも予測不可能なことだったに違いないのだ。
シュンの振舞いは、純白の清楚な薔薇の蕾が『僕は穂を刈り取ったあとの麦藁ほどにも美しくない』と嘆いているようなもの。
見事な真円を描く大粒の白い真珠が『僕には路傍の石ほどの価値もない』と言い張っているようなもの。
まともな価値観を持った人間に理解できるようなことではなかったのだ。

シュンは本気で、自分を 土に戻りかけた林檎の皮より醜いと信じているようだった。
シュンはどこかで、物が歪んで映る鏡を覗き込むようなことをしたのだろうかと、ヒョウガは疑ったのである。
だが、シュンに会えない日が続き、もう二度とシュンに会うことは叶わないのではないかという不安の中で あれこれと考えているうちに、そうではないのだとヒョウガは思うようになった。
歪んでいたのは、鏡ではなくシュン自身の心と目の方だったのだ。
客観的な美醜ではなく――兄の命を奪った人間だから、シュンは自分を醜いと感じるようになった。
兄の死が、シュンを醜い人間にしてしまったのだ。

それならば、たとえば シュンの兄は弟を恨んでいなかったのだと、あるいは彼は決して不幸な兄ではなかったのだと、シュンに信じさせることができさえすれば、そういうことをシュンに証明できるような何らかの証拠を手に入れ、それをシュンに示してやれば、シュンは(シュンにとって)醜い人間ではなくなるかもしれない。
兄を失った喪失感を埋めることはできなくても、その罪悪感を完全に払拭してやることはできなくても、少しくらいはシュンの心を軽くしてやることができるかもしれない。
悲しみと罪悪感で歪みきったシュンの目を、正しく ものが見える目に戻すには、もはや それしか手はない。
そう考えて、ヒョウガは、シュンの兄の消息を追ってみることにしたのである。

シュンに出会い、一方的な別れを強いられるまでの1ヶ月間、ヒョウガは、シュンが兄と暮らしていた頃の幸福な思い出話を繰り返し聞かされていた。
二人で暮らしていた部屋の窓から見える風景、テムズ川がどちらの方向に見えるのか、近所にある小さな教会、そこにいる牧師の名。
それらの情報から、シュンがオペラ座に隠れ住むようになる以前に暮らしていた部屋を割り出すのは、比較的容易なことだった。

イーストエンドに行き、『この辺りにシュンという名の男の子がいなかったか』と尋ねてみると、シュンを憶えている者はいくらでもいた。
逆にヒョウガの方が、
「あの子は今どこにいるの」
「幸せにしているの」
と質問攻めに合う羽目に陥ったあげく、
「今、あんたがあの子の世話をしてるの? 白い花みたいに綺麗で気立てのいい子だったからねえ。ふうん、そういうことなんだ」
という、名誉なのか不名誉なのかの判断に迷う疑いをかけられる始末。
だが、ともかく、『花のように綺麗で 気立てのいい子』という評価は、以前のシュンを知る者たち全員に共通していて、ヒョウガは、おかしいのは やはり自分の目ではなくシュンの目の方なのだという確信を得ることができたのである。

そういう噂好きの下町のおかみさんたちを振り切って、ヒョウガが足を踏み入れたのは、木造の古い4階建ての集合住宅だった。
その最上階の西側の部屋が、シュンが追い出された部屋の条件に合致する。
その部屋には、シュンが出た後に別の賃借人が入ったらしく無人ではなかった。
管理人が不在だったので、ヒョウガは直接 その部屋の現在の住人を訪ねてみたのである。
ドアから顔を出したのは、ヒョウガと同年代とおぼしき、やたらと暑苦しく濃い印象の若い男で、ヒョウガは、花が暮らしていた部屋に 今は南米からやってきた類人猿が住んでいるのかと、笑えないコメディを見せられている気分になったのだった。
その類人猿に、
「1年ほど前まで、ここで暮らしていたシュンという子の家族に関する情報を探しているんだが」
と尋ねる。
驚いたことに、南米産の類人猿は人語を解した。
一声 呻るような雄叫びを響かせたかと思うと、そのオランウータンは、
「シュンを知っているのかっ!」
と、ヒョウガの胸倉を乱暴に掴みあげてきた。






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