シュンの兄は生きていた。 生きてインドから祖国に帰還して、自分が死んだ人間にされていること、シュンの手に渡るはずだった毎月の手当てが 正当な人の手に渡っていなかったこと、賃料を払えなくなった弟が部屋を追い出されてしまったことを知ったのだと、彼は怒りを露わにしながらヒョウガに語った。 軍部の事務センターに、数十人分の兵士の家族に渡すべき手当てを横領していた係官がいて、彼は該当の兵士は死んだと 兵士の家族に虚偽の説明をしていたらしい。 部屋を追い出された弟を捜す当てもなく、ここで待っていれば 戻ってくることもあるのではないかという一縷の希望にすがり、彼は この部屋で弟を待ち続けていたのだ。 シュンの美しさにも驚かされたが、弟とは似ても似つかないシュンの兄の外見も、ヒョウガには驚嘆の種だった。 もしかしたら片親だけが同じ兄弟なのかもしれないと考え、確認してみたのだが、シュンの兄は、 「シュンは、俺と同じ両親の間に生まれた、正真正銘、世界にたった一人の俺の弟だ」 と、気の荒い獣のような口調で断言してくれた。 シュンに似たところが一つもない上、彼の弟への溺愛ぶりが いやでも見てとれたので、本音を言えば、ヒョウガは、シュンの兄を あまり好きになれそうになかった。 が、それはそれ、これはこれである。 シュンの兄が死んでいなかったのであれば、そもそもシュンの目と心は奇妙な歪みを生じることもなかったわけで、兄の生存を知れば、シュンの目と心は 美しかった頃のシュンのそれに戻るはず。ヒョウガは、今は それだけを喜ぶことにした。 「シュン! おまえの兄を連れてきた。おまえの兄は生きている。会いたかったら出てこい!」 シュンがまだオペラ座以外に行き場を見付けられずにいることを願いつつ、いつも二人で会っていた裏庭で声をあげる。 『兄』というキーワードの効果は覿面だった。 あれほど――声も枯れるほど その名を呼んでも、いずこかで息をひそめ、決してヒョウガの前に姿を見せようとしなかったシュンは、すぐにヒョウガ(と兄)に姿を現わしてくれた。 恋人の哀願からは逃げまわるくせに、兄に会うためになら すぐに出てくるのかと、ヒョウガは シュンの その振舞いが少々 癪に障ったのである。 が、こうしてシュンがすぐに兄の前に出てこれたのは、シュンが、この広いオペラ座の中で、他のどこでもない二人の約束の場所である ここに その身を置いていたからだろう。 もう会わないと決意しつつもシュンは その恋人を慕ってくれていたのだ。 そう思うことで、ヒョウガは、かろうじて シュンの兄への妬心を抑えることができたのだった。 マントのフードを外したまま――その可愛らしい顔を 惜しげもなく秋の日の光の中にさらして、シュンが兄の胸の中に飛び込んでいくのには、ヒョウガも 立腹を通り超して 呆れかえってしまったのだが。 シュンとは似ても似つかない、南米産 改め 南アジア帰りの類人猿が、本当にシュンが慕い続けていた兄だったことに、ヒョウガは改めて驚嘆した。 「兄さん……! 兄さん、兄さん……!」 純白の小ウサギが 凶暴で怪力のオランウータンに抱きしめられる図。 オランウータンは、その無骨な手で か弱い小ウサギの髪を撫でている。 兄弟の横で、シュンの身が壊されてしまうのではないかと、ヒョウガは本気で はらはらしていた。 幸い、シュンの兄は 力の加減を心得ているらしく、シュンは骨を折るような悲惨に見舞われることはなかったが。 「心配をかけた。苦労もさせてしまったようだな。だが、それも もう終わりだ。俺はインドでの働きが認められて、英国陸軍の1等准尉になったんだ。もう苦労はさせない」 「苦労なんて……。僕、兄さんが生きていてくれれば、それだけで……兄さん、本当に本物の兄さん……僕……僕……」 シュンが兄の胸で、小さな子供のように泣きじゃくる。 シュンが その恋人に対して、これほど素直に、これほど無防備に甘えてくれたことがあっただろうか。 腹立たしいことに、シュンの兄は、こういう果報に慣れているようだった。 「おまえの泣き虫は いくつになっても治らないのか。ああ、もう泣くな。可愛い顔が台無しだ」 「え……」 兄の胸に頬を押し当てて泣きじゃくっていたシュンが、ふいに その顔をあげ、涙の溜まった瞳で兄の顔を覗き込む。 急に 「僕、醜くない?」 と尋ねた。 その問いかけに対するシュンの兄の答えが、 「俺の弟が醜いはずがないだろう」 である。 何を言ってるんだ、このゴリラ! と、ヒョウガは自身の胸中に怒声を響かせたのである。 シュンに完全に無視されているせいもあって、ヒョウガは、シュンの目を気にすることなく、その胸中で言いたい放題をしていた。 シュンは、兄の言葉なら 一瞬の迷いも 僅かな逡巡もなく 信じてしまうことができるらしい。 『おまえは醜くない』という兄の断言を聞くなり、シュンは ぱっと その顔を明るく輝かせた。 兄弟の感動の再会の儀式が一段落したあと、感謝の念を全身にたたえたシュンから、 「ヒョウガ、本当にありがとう……!」 という言葉と、軽く触れるだけではあったが シュンからの自発的なキスをもらうことができなかったら、ヒョウガはシュンの兄への嫉妬のせいで憤死していたかもしれなかった。 幸か不幸か、最愛の弟の はしたない振舞いを目の当たりにしてショックを受けたシュンの兄が泡を吹いて その場に引っくり返ってしまったせいで、ヒョウガは呑気に死んでもいられなくなったのだが。 インド帰りのチンパンジーは、随分と繊細な神経を持つ動物のようだった。 |