アテナの聖闘士の力の前に敗北を喫して滅んだはずの争いの女神エリス。 彼女が誰の力を借りて蘇ってきたのかということを、瞬は考えたくなかった。 考えたくなかったので、しいて考えまいとした。 彼女の復活に力を貸した者が誰であったにせよ、 とはいっても――他の神の力によって復活を遂げるような二流の神に成り下がったといっても――エリスは神話の時代から 人間たちのみならず神々の間にも争いの種を撒き散らすことを繰り返してきた、悪名高い大トラブル神。 瞬は決して彼女の復活を些細な出来事と考え、たかをくくっていたわけではなかったのである。 瞬は決して油断していたわけではなかった。 だが、油断せずにいればトラブルが起こらないというものでもない。 トラブルを起こす意欲 満々でいるエリスを止められる者はいない――というのは、神話の時代の黄金のリンゴのエピソードを思い起こすまでもない不吉な事実。 だから、瞬は、この地上から消滅したはずの彼女が アテナの聖闘士たちが起居する城戸邸ラウンジに 突然姿を現わし、 「我が幽霊聖闘士と戦い 勝利した者たちの中の誰かに、この指輪を与えよう」 と言って、小さなオルゴールのような箱を取り出した時、途轍もなく嫌な予感を感じたのだった。 「この指輪を授けられた者は、戦場においても戦場以外の場においても敗北を知らない最も幸運な聖闘士になるであろう」 それが瞬の手に渡されたのは、瞬自身は彼女の幽霊聖闘士の誰にも勝利していないから――倒そうと思っていた敵を 兄に取られてしまったから――のようだった。 つまり、瞬が その幸運の指輪の持ち主になることはできないということを示すために、争いの女神は その小箱を瞬の手に預けてきたのである。 「この指輪を手にするにふさわしい男を選ぶのは おまえだよ、アンドロメダ」 シチューが煮えているような笑い声を喉の奥から洩らしつつ そう言ったエリスは、すぐに その笑い声を狂った北風のように甲高い それに変えて、あっという間に城戸邸のラウンジから姿を消してしまった。 争いの女神の姿が消えた部屋に残されたのは、彼女から指輪の入った小箱を手渡されてしまった瞬と、星矢、紫龍、氷河という、いつもの面々。そして、珍しく城戸邸に帰ってきていた瞬の兄だった。 アポイントメントもとらずに突然現われ、自分の用件だけを一方的に済ませて さっさと消えてしまったエリスの無作法に呆れ果てていた青銅聖闘士たちが 何とか口がきけるようになったのは、エリスの姿が忽然と消えてしまってから約5分後。 彼等の5分間の沈黙を破ったものは、 「なんだ、今のは。礼儀の『れ』の字も知らない星矢でも、『よお』と『じゃあな』くらいは言うぞ」 という、瞬の兄の 実に尤もな ご意見ご感想だった。 「争いの女神に、『最も幸運な聖闘士になれる』と言われても信じられないというか何というか――」 続いて、これまた実に 尤も至極な紫龍のご意見ご感想。 星矢のご意見ご感想は、 「これって、黄金のリンゴの男版かよ? 芸がねーなー」 というものだった。 「いや、ギリシャ神話の黄金のリンゴは、『最も美しい女神へ』の一言と共に 神々の前に放り出されただけで、候補者たちの審判役をパリスに定めたのはエリス以外の神々だったはずだ。審判者を瞬と指名してくるあたり、多少の進歩が見られるのではないか? 選ぶのは男、選ばれるのも男というシチュエーションも、神話の時代の黄金のリンゴの時とは違っていて、少々のアレンジが見られる」 「何が進歩だよ。面倒な話を持ち込みやがって!」 紫龍のエリス弁護(?)に、星矢が忌々しげな舌打ちで答える。 星矢にしてみれば、贈られるものが食べ物ではなく指輪だという時点で、それは幸運どころか、極めて不幸な面倒事でしかなかったのだ。 「神話の時代は、『最も美しい女神へ』。今回は、『最も いい男へ』ってことか? 冗談じゃないぜ、ほんとに」 「解釈に悩むところだな。瞬が、敗北を知らない幸運な聖闘士になってほしいと願う男が 最も いい男とは限らないだろう」 「そりゃそーだ」 紫龍の言葉に頷いて、星矢がその視線を、この面倒事の審判者に指名された瞬の上に移動させる。 その視線を受けた瞬は、だが、自分に振られた仕事に全く気乗りがしていないようだった。 「そういうことのようだから、この指輪、誰かにあげる。欲しい人、いる?」 さっさと自分に課せられた仕事を終わらせたいという気持ちが如実に見てとれる(聞いてとれる)口調で 指輪の取得希望者を募ってから、瞬は、 「争いの女神といっても 神は神なんだから、彼女は嘘はついていない……と思うよ」 と、全く意欲的に感じられない一言を付け足した。 そんなものが欲しいわけではなかったのだが、さすがの星矢が瞬のそのやる気のなさに、少々 呆れてしまったのである。 「なんだよ、その無関心で無責任な態度は。これは、おまえが選ぶってとこが いちばんの重要ポイントなんじゃねーのか」 「うむ。特に、あの二人にとっては、おまえが その指輪を誰に渡すのかということは、人類の存続と滅亡よりも大きな問題だろう」 紫龍が視線で示した“あの二人”とは、もちろん瞬の兄と瞬の(男の)恋人である。 問題の二人は、同じ部屋の空気を吸うのも嫌だが 瞬の姿が見えるところにはいたいという、極めて切実な事情があって、一人は廊下側の壁際にある椅子に、もう一人はベランダ側の壁際にある椅子に腰掛けていた。 鳳凰座の聖闘士と白鳥座の聖闘士が その指輪を巡って(つまりは、瞬の愛を巡って)熾烈な争奪戦を繰り広げるものと決めてかかっているような紫龍の言葉を、廊下側の壁の花―― 一輝が鼻で笑う。 「俺には、そんなものは不要だ。どこぞの惰弱なアヒル野郎と違って、俺は そんなものをもらわなくても自分の力だけで敵を倒せる。氷河にやれ。負け知らずの聖闘士になれる指輪は、いちばん弱い男にやるのが最も合理的な選択だろう」 瞬の兄の合理的な意見に、ベランダ側の壁の花―― 氷河は、むっとした顔になった。 「俺だって、そんなものはいらん。どこぞの一匹狼を気取った阿呆と違って、俺には協調性があるからな。俺は 瞬と二人で仲良く力を合わせて戦うさ。その指輪は一輝にやれ。自称最強の青銅聖闘士様は、格好をつけて最後に登場して、自信過剰で自滅する可能性が高い」 そう言ってから、氷河は わざとらしく横を向き、瞬の兄に聞こえる程度のボリュームで――つまりはかなりの大声で、 「何が青銅最強だ。瞬とのバトルで力を消耗したあとの敵しか倒したことがないくせに」 と、独り言を呟いた。 牽制し合っているのか、譲り合いの精神を発揮しているのか、あるいは、二人が指輪をほしがることで瞬を困らせる事態を回避しようとしてのことなのか、瞬の兄と瞬の(男の)恋人が揃って自らの権利を放棄する旨を、審判者に通告してくる。 瞬は、兄と氷河の だが、兄と氷河から『その指輪を俺に渡せ』と求められることが、瞬の最も恐れていた事態だったこともまた厳然たる事実。 二人が指輪を受け取る権利を放棄したことで、瞬の肩からは自然に力が抜けていった。 少々リラックスした様子で、瞬が 部屋の中央の応接セットに腰掛けている星矢と紫龍の方に向き直る。 「星矢と紫龍は?」 「んなもん、いるかよ。俺はバトルは仲間の力以外の力には頼らないって決めてる。だいいち、指輪なんか はめて戦えるわけねーだろ」 「じゃあ、紫龍」 「いや、俺もいらん。たとえ、氷河と一輝が その権利を放棄するといっても、おまえから そんなものを受け取った男に対して、こいつらが好感情を抱くはずがないだろう。俺はエリスは恐くないが、おまえの兄とおまえの男の嫉妬心の側杖を食うのだけはごめんだ」 「そんな……。兄さんと氷河は いらないって言ってるんだから、紫龍がこの指輪を受け取ったって、兄さんたちは何も言わないと思うけど――」 「それはどうかな」 瞬の言う通り、もしかしたら二人は 自分以外の男が瞬から幸運の指輪を受け取っても何も言わないかもしれない。 だが、何事かを言うかもしれない。 言うだけなら まだしも、何事かをするかもしれない。 僅かでも その可能性があるのなら、紫龍は そんな指輪のせいで余計なトラブルを背負い込むような危険は冒したくなかった。 それ以前に――紫龍は、星矢同様、そんな指輪を欲しいとは思わなかったのである。 「でも、せっかくあるんだし、お守り代わりに身につけてみるのも――」 結局、仲間全員に受け取り拒否を食らってしまった瞬が、心許なげな目をして、自分の手の上にある小箱に視線を落とす。 誰も欲しがらないものを、無理に仲間たちに押しつけるわけにはいかない。 できることなら、このまま 指輪ごと 自分に課せられた仕事を放棄することはできないものかと、瞬は思っていた――切実に希望していた。 そんな瞬に、 「おまえが自分ではめてりゃいいじゃん」 と、星矢が水を向けてくる。 「僕だって、こんな指輪はいらないよ。これ、沙織さんに処分してもらうことはできないかな……」 手に入れれば、戦場と戦場以外の場で負け知らずの聖闘士になれる幸運の指輪。 この厄介な物をなかったことにできたなら、それに超したことはない。 そう考えながら、瞬は小箱の中に収まっている指輪を、疫病神に触れるような手つきで つまみあげてみた。 そして、指輪の下に一枚の小さな紙片があることに気付き、瞬は その紙片に書かれてる文字に視線を走らせたのである。 書かれている文言を読み終えてから、2、3度 困惑したように瞬きをして、瞬は ゆっくりと視線を仲間たちの上に戻した。 「僕はあくまで審判で、僕が はめても効力はないんだって。注意書きに そう書いてある」 「注意書き?」 「うん。箱の中に、指輪と一緒に 使用上の注意が入ってたんだ。それに、この指輪、どう見ても男性用で、僕の指には大きすぎるよ」 「効力がなくても、害もないだろ。親指にでも はめとけ」 星矢はもちろん 冗談でそう言ったのだが、その冗談に返ってきた瞬の答えに、星矢は目を剥くことになった。 「親指でも ゆるいよ」 と、瞬は答えてきたのだ。 「まじかよ!」 瞬がつまみあげている金の指輪と、その指輪をつまみあげている瞬の指。 両者を見比べてみると、確かに その指輪は瞬の親指にも大きすぎるようだった。 星矢は、瞬の指の細さに呆れ果ててしまったのである。 「おまえ、アフロディーテに細腕がどーたらこーたらと馬鹿にされたって怒ってたけど、指まで そんなに細くて、いったいどうやって あの糞重くて長いチェーンを振りまわしてんだよ!」 すぐに『小宇宙の力でに決まってるでしょ』という答えが返ってくるものと思っていたのだが、星矢は 彼が期待した答えを手に入れることはできなかった。 星矢に、そして星矢以外の仲間たちに――瞬は力ない笑みを返してきただけだった。 |